松代城(海津城) | ルアーマンのブログ

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2月22日、川中島古戦場の次は、バスで松代駅バス停へ。

バス停の一番上には真田の六文銭。

 

鉄道が通っている訳でもないのに松代駅と言う理由は、

以前ここに長野電鉄屋代線の松代駅があったから。

松代駅の駅舎

今はバスの待合室

 

中も見ておくといいでしょう

 

駅舎の裏側へ抜けると、向こうに土塁が。

松代城(別名、海津城)の土塁です。

 

松代城は戦国時代に上杉謙信と対峙するために

武田信玄が家臣の山本勘助に命じて1559年から築城。

(山本勘助が実在したかどうか定かではないでど)

1561年の第四次川中島の戦いでは、武田軍はこのこから出陣。

当時は海津城と呼ばれていた。

 

1582年、武田氏滅亡の後は森長可(もりながより)など諸々の人が城主となったり、

無人の時期もあったが、江戸時代に入った1622年、真田信之が入り、明治まで真田氏の城となる。

 

真田信之は真田昌幸の長男で、真田信繁(通称、幸村)の兄。

関ヶ原の戦いで真田昌幸、信繁は西軍だったが、真田信之は徳川方の東軍に。

このため真田信之と真田家は幕末まで続くこととなりました。

 

土塁の左端には門の跡

 

石場門の跡

石垣はレプリカで、本物の石は地中にあるそうだ。

 

石場門から入った土塁の内側は二の丸

今は何もありませんが、戦後にはグランドや市民プールがあったらしい。

 

東不明門前橋(ひがしあかずもん)

 

内堀に架かる橋

 

東不明門を入ると本丸

 

本丸には桜の木。

 

本丸をグルリと取り囲む石垣

 

2004年に復元された太鼓門を内側から

 

太鼓門を枡形内から

 

太鼓門の表門

この外の太鼓門前橋が工事中で通れないため、門も閉じられている。

 

この日は雪でグシャグシャ。沼地のようで歩きづらい。

 

戌亥御櫓

松代城で一番高い場所

 

海津城の碑と、北不明門(きたあかずもん)の櫓門

 

北不明門の櫓門

 

北不明門の櫓門  外側から

 

北不明門の表門  内側から

 

北不明門の表門  外側から

 

北不明門の外へ。

右は二の丸北側の土塁。水堀に架かる二の丸引橋は工事中で通行止め。

 

左の土塁の外側の切れ目には・・・

搦手口(北口)

 

搦手口のある土塁の外側には堀

ほとんど干上がっています。

 

戌亥御櫓と、井戸跡

 

戌亥御櫓に土塁が接続しているという、珍しい形状。

 

その土塁に穴が開いている

 

 

埋門です。くぐってみよう。

 

土塁の内側から。戌亥御櫓にぶつかっている。

 

内堀

 

 

太鼓門前橋

工事中で通行止め

 

太鼓門前橋と、太鼓門

最も松代城らしい場所

 

二の丸南門

大手門に相当する門。

 

土塁に開けた門で、門の部分だけ石垣で土留めをしている。

 

こんな城で、現在残っているのは本丸と二の丸部分だけ。

三ヶ月堀と丸馬出はいかにも真田らしい。

 

その三ヶ月堀はこのあたりだったが、今はよくわからない。

復元する計画もあるらしい。

 

真田邸の方へ行ってみます。

 

真田邸

 

真田邸の正面

真田邸は1864年に九代藩主・真田幸教が建てた御殿。

初代・真田信之が住んでた訳ではなが、真田信之は門の外にいました。

 

 

 

この門の外のテント内か、門横の受付に日本100名城スタンプがあります。

入場料払わなくても押印可能。

 

 

ちょいと中を覗いてみる。

 

建物の鬼瓦には真田の六文銭

 

周辺には他にも武家屋敷があります。

 

武家屋敷の門だけ残した一般の住宅もあります。

 

松代藩鐘楼

2時間ごとに時を知らせたり、非常を知らせる役割があった。

現在の鐘楼は1801年に再建されたもの。

 

鐘楼の横には日本電信発祥地碑

ペリーがモールス電信機を伝えるより以前の嘉永二年(1849年)、

松代藩士・佐久間象山がオランダの技術を基に電信機を自作し、

この地と約70m離れた仮住居との間で日本初の電信実験に成功。

佐久間象山の記念館などもこの近くにあります。

 

松代城はこじんまりしているけど、見どころ満載で良い城です。

長野駅から30分で600円以上のバス代はちと高いけど。笑