服部半蔵と松平信康の西念寺 | ルアーマンのブログ

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7月7日、四ツ谷駅から10分弱のお寺へ。

 

西念寺(さいねんじ)

 

本堂  こじんまりしたお寺です。

 

 

門には徳川家の家紋である三つ葉葵

 

西念寺は 服部半蔵 が開いたお寺。

そして服部半蔵が徳川家康から拝領した槍があります。

 

本堂の右手に服部半蔵の墓(右)。

服部半蔵は通称で、本名は服部正成(まさなり、まさしげ)。

また父親の代から子孫まで何代も服部半蔵を名乗っており、

家康に仕えていた最も有名な「服部半蔵」は「2代目服部半蔵」。

 

 

 

 

本堂に沿って右から回り込むと、

 

松平信康(徳川家康の長男、別名 岡崎三郎)の供養塔。

 

 

松平信康の墓地は岡崎市や浜松市にありますが、それとは別に供養塔が各地にあります。

 

 

松平信康が切腹の際、服部半蔵は介錯を果たせず、別の者が介錯しました。

(どうする家康では、半蔵が介錯していましたけど)

そして信康を弔うために供養塔を建立。

 

本堂の左にある建物から中へ。

住職が出てきて本堂内へ案内されました。

 

住職と一緒に南無阿弥陀仏を10回唱えてから見学開始。

手前の間2つは徳川四天王の本多忠勝の居城である大多喜城(千葉県)本丸御殿の書院を移築したもの。

第二次世界大戦で焼失した西念寺を再建する際に譲り受けたそうです。

 

おお、拙者の家ではないか!

 

 

梁の上にはうっすらと何かが描かれている。本多忠勝の時代に描かれたものかな。

 

徳川十六神将図と、服部半蔵の槍

 

徳川十六神将図

これはレプリカですが、原画もお寺にあるそうで。

江戸時代に何枚も描かれたので、原画も全国に何枚も存在します。

(お釈迦様の命日である2月の間は、これの代わりに大涅槃図が掲げられるとのこと)

 

中央の上から2人目が本多忠勝。

下から2列目の中央が服部半蔵。

 

下が服部半蔵の槍

 

現在の長さは258cm。

安政地震で先端が30cm欠けてしまった上、第二次世界大戦の火災の際に手元も1.5m焼けて欠けたそうで。

つまり元々は430cm以上あったもの。

 

槍は有形文化財です。

 

お寺は見学無料で、特に開館時間などは設けてはいないが、

住職さん一家の住まいでもあることと、檀家の皆さんが集まる日もあるので、

見学の際は事前に連絡を欲しいそうです。

今回はいきなり訪問してご迷惑かけたかもしれないが、

幸いにも住職さんの時間が空いており、いろいろ説明していただけました。

 

博物館ではないので、長居はせずに手短に見学しましょう。

 

お寺の周囲は江戸時代からの石垣っぽい。

 

西念寺へのアクセスは、四ツ谷駅を出て、

 

四谷見付橋から甲州街道を西へ数分。

 

ファミマや、すかいらーくグループの店(バーミヤン、しゃぶ葉など)を過ぎてすぐを左へ。

 

この場所をGoogleストリートビューで見ると、車の後輪が愉快なことに!

 

甲州街道から左へ入ると、いきなり住宅地。まっすぐ進む。

 

左前方へ。

 

 

西念寺は最初は上智大学の東側あたりにありましたが、江戸城拡張にあたって1634年に現在の場所に移転しました。

 

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四ツ谷駅から甲州街道を東へ。

 

甲州街道から左右へ伸びる道はいずれも下り坂になっている。

つまり甲州街道部分が一番高い。

古くは甲州街道の南側と北側に川があり、この部分が一番高かったのだろうが、もしかしたら街道に盛り土をしていたのかも。

 

もう少しで皇居。

 

皇居

 

江戸城の堀(半蔵濠)

この右は三宅坂

 

江戸城の半蔵門

すぐ向こう側は御所(天皇陛下のお住まい)なので、立ち入りできません。

 

服部半蔵の武功から、服部家子孫や服部党一族の屋敷がこのあたりにありました。

江戸城がピンチの際は甲州街道を使って甲府まで撤退するのだが、その甲州街道への出入り口を守るために服部家が置かれたもの。

 

どうする家康、今後の服部半蔵の活躍に期待しましょう。