私は「死」や「宇宙」について考えるのが好きだ。全く分からないし、考えていても何かの役に立つとは思えないが、ぐるぐると考える時間が楽しい。

多分大概の人が、程度の差はあれど同様のことを考えているだろうから、是非みんなの考え方も知りたいと思う。今日は飲みの場での話のタネとなるよう、「死」について考えてみる。



私はいずれ死ぬ。今のところ周りで死を迎えた人の数がかなり限られているので、死が一部の人に訪れる都市伝説である可能性もなくはないが、長くてあと70年くらい生きたら死ぬ。


70年後、死に直面している自分は何を思ってるだろうか。この前、リゾート地のバリに旅行に行き、非常に楽しい時間を過ごすことができたが、滞在最終日には「もう十分だな。帰りたいな。」と思い始めていたことを考えると、70年も生きていたら「もう十分だな。」と思っているかもしれない。

ただし、私にとって死は故郷ではないので、「もう十分だから日本に帰りたい」とは思っても「もう十分だから死にたい」とは多分ならない。

思ったとしても「もう十分やり切ったな。もう生きててもやることないな。」くらいな気がする。


そもそも私自身は、私の死を経験できない。それは死んだ人間が新たな経験を獲得しえないからだ。何かしら法的な死の条件を満たした時に周囲の人間が私の死を確認するのであって、私自身はあくまでも最期まで生き続ける。

そう思うと、各人の人生は「死」に向かっているのではなく、「生の終わり」に向かっているという方が正しいように思う。つまり、自分自身の人生には「死」は存在していない。


そして、私自身の主観で見た時に、生の終わりの後に迎えるのは「無」であって「死」ではない。私自身が、死んだ後に「うわ、なんか俺死んでるっぽいな」と考えているようであれば上記は撤回しなければいけないが、多分そんなことはないので、「死」ではなく「無」を迎えることになるはずだ。


しかし、客観的には異なる。ある人が死んだ時、周囲の人間の中からその人に関する記憶が消えるわけではない。他者から見た時、人は生の終わりの後、死を迎えることになる。

たまに「人は死んだ後、他者からの記憶から消えた時にもう一度死ぬ」といったニュアンスの言葉を聞くが、どちらかというと「他者からの記憶から消えた時、死から無へと移行する」のだと思う。


人は産まれる前の「無」の状態から、産まれて「生」を経験し、生を終えた後もう一度「無」に帰する。しかし、産まれる前の「無」と生を終えた後の「無」では、死体の有無という点で決定的に異なる。


死体が非常に綺麗な状態であれば、眠っているように見えることもあろう。その場合、その人の中でその死者は生きている。事実として当人は「無」の状態にあるにもかかわらず、周囲の人間が「生」として認識することがありうる。

つまり、他者は当人の死を必ずしも正確に認識できないということだ。

死んだ当人は「死」を経験できないし、周囲の人間も必ずしも「死」を正確に判別できないのだとすると、「死」とはかくも曖昧なものだ。


また、例えば映画「君の名は」では主人公の東京に住む瀧と田舎に住む三葉の体が不定期に入れ替わる様が描かれている。では、瀧の意識に三葉が入っている状態で瀧の体が事故に遭い死を迎えた時、死んだのは誰だろうか。三葉の意識に入っている瀧としては、自分の意識があるのだから明らかに瀧自身は生きていると考えるだろうが、そんなことを知らない瀧の周囲の人間は瀧が死んだものと考えるだろう。

自身の体の死と、自身の意識の死が同時ではない場合がありうる時、「死」はさらに複雑で曖昧なものになる。


自分なりに何かしらの答えを出したいと思って書き始めたが、全然まとまらず要領を得ない話になってしまっているので今日は一旦終わりにする。


でも最後に伝えたい。人に「死ね」と言うのは絶対にだめ!

なぜなら、上述の通り「死」という言葉は定義が曖昧であり、定義が曖昧な言葉を他者とのコミュニケーションに用いると齟齬が生まれやすいからだ。あと言われた人が傷つく!!


読んでいただきありがとうございました。