あなたは今から1,000年前の日本における有名な人物を問われたとき、誰を思い浮かべるだろうか。


1,000年前といえば、平安時代にあたる。藤原氏が権力を独占し、貴族が政治の中心を担っていた時代である。また、文化の面では「源氏物語」や「枕草子」といった作品が生まれた時代でもある。だからこそ、政治的な面では藤原道長、文化的な面では紫式部や清少納言といった名前を想起する人が多いのではないかと思う。


では、1,000年後の日本において同じ問いが投げかけられたら、その時代の日本人は何と答えるだろうか。

(そもそも1,000年後に日本という国が残っているのか、という話はいったん脇に置く。)


政治的な側面では、民主主義の発展によって一族が長く実権を握るような構造は薄れ、特定の名前は挙がりにくいかもしれない。では、文化的な側面ではどうだろうか。


私は、現代の日本は、1,000年後に「文化が語られる時代」にはなりにくいのではないかと思っている。そして、その理由は現代の「余白」のなさにある。


1,000年前の日本について、現代に残されている情報は決して多くない。だからこそ、私たちは限られた資料を解釈し、点と点をつなぎ合わせながら、その時代の輪郭を想像していく。


「源氏物語」や「枕草子」のような作品には、その時代の空気や価値観、人々の感性が色濃く描写されている。それらは単なる文学作品ではなく、当時を知るための窓でもあるのだ。

藤原道長のような政治を担った人物ですら、現代に残るのは制度そのものよりも、物語として語られた人物像だったりする。そう考えると、1,000年前の日本において、政治と文化を切り離して語ることは案外難しい。


むしろ、現代まで残っている情報だけでは想像しきれない、その時代の「余白」こそが、私たちの興味を掻き立てるのだと思う。


分からないからこそ知りたくなる。

見えないからこそ美しく感じる。


同じ土地で起きた出来事であるにもかかわらず、どこかファンタジーのような魅力を感じるのは、その余白があるからなのだろう。


では、現代の日本において、1,000年後に語られるような物語は生まれうるだろうか。


1,000年後の社会がどれほど情報化されているのかは分からない。ただ、少なくとも現在より情報へのアクセスが不自由になるとは考えにくい。むしろ、今の私たちの生活や感情、発言までもが、より精密に保存されている可能性のほうが高い。


そうなったとき、未来の人々は資料の隙間から余白を想像する必要がなくなる。


SNSの投稿、映像、音声、位置情報、購買履歴。あらゆるものが記録され、検索できる世界では、「あの時代の人は何を考えていたのだろう」と想像する前に、答えが表示されてしまう。


完璧に近い歴史書が作られ、想像の入り込む余地はなくなる。

つまり、余白が消える。


そして、余白を失った現代の日本は、1,000年後において、無機質な時代として語られるのではないかと思う。


便利で、豊かで、今までのどの時代よりもはるかに発展的だが、色褪せていて魅力に欠ける。


ただただ「情報量が多くて勉強が大変な時代」として、歴史の教科書に残っていくのかもしれない。


私は、この現代の無機質さに寂しさを感じる。

情報と物が溢れ、生活水準は1,000年前とは比較にならないほど豊かになった。それなのに、幸福度はG7の中でも低く、時代を悲観する声ばかりが目につく。


便利になったのに、なぜこんなにも満たされないのか。このブログの中で原因や解決策を語っても仕方がないし、正直そこまで考える気もない。


ただ、私は思う。


1,000年後の日本において、この時代に想いを馳せる人がいないかもしれない。

「あの頃の日本は、きっと美しかったはずだ」と誰にも言われないまま、ただ精密なデータだけが残る。

そのことが、妙に悲しいのである。


わたしは暇になると、どうしても現代社会を憂いてしまうらしい。

だが、このような意味のないことを考える時間こそが、今の日本に必要な余白ではないだろうか。