最近Instagramを見ていると、海外旅行をしている友人の写真を多く見かける。20代後半に入り、自由に使える時間やお金が増えたことで海外旅行を選択する人が多いのだろう。
私はそうした投稿を見たときに羨望と共に焦りを感じる。私も世界を自らの目で見て、今のうちに視野を広げておく必要があるのではないか、今しかできないことを楽しんだ方が良いのではないかという焦りである。海外旅行一つで視野が広がるのかはわからないが、わからないのであればまずは行ってみて、その結果を確認すべきではないかという考えになる。
ただ一方で、私は海外旅行を長い期間心から楽しめるタイプではないという確信がある。もちろん異国の風に触れて、充実した気持ちになることは間違いないのだが、多分3日目くらいから日本が恋しくなる。海外旅行が4泊するものであれば、半分は日本のことを考えていることになる。旅行に限らず安定した状態を好む性格なのだ。
このように私は理性的には海外に行くべきだと考え、感情的にはずっと日本にいた方が心地いいと思っている。
このように、理性的な考えと感情的な思いが一致せず、自身のあるべき姿に思い悩むことが多々ある。起業している友人の話を聞けば自分の人生にもそうしたチャレンジが必要なのではないかと思うし、頻繁に遠出をして色々な景色を見ている友人のSNSを見ると私ももっと充実した土日を過ごすべきなのではないかと思う。感情的にはいずれにも惹かれていないにもかかわらず、他の人の充実した人生を見せられると自分の今にも更なる充実の余地があるように感じてしまう。
現代を生きていると、積極的に情報を集めていなかったとしてもいわゆる「勝ち組」の解像度が高まりすぎてしまう。SNSやYouTubeでは各々の人生において最も輝かしい瞬間が発信され、NewsPicksのような新聞と取って変わるようなメディアでも成功者を呼んで成功の秘訣を語らせている。
SNS以前においては、大企業の社員(商社マン・銀行員等)や経営者・医師などがいわゆる「勝ち組」として語られていた。ただ、それらの人々の人生への解像度は低く、たまにTVで「勝ち組の人生」として羽振りの良い生活が取り上げられるのを見てその場限りの関心を向けるものの、翌日にその内容を思い出すことはなかったのではないか。自身の人生を「成功」「失敗」と言った大きな枠組みで捉えること自体はあったと思うが、それは自身が生きる世界の中で目に入る人たちとの比較や自分自身の絶対的な評価に基づいているものではなかったか。いわば、SNS以前の勝ち組は「動物園」のようなもので、たまに見に行ってその生態の特異性を見て「こういう動物もいるのだな」と楽しむ程度のものであった。
現代では、「勝ち組」の日常が否が応でも目に入り、どんな家に住んでどんな車に乗りどんなものを食べているのか非常に解像度高く認識できてしまう。それと比較することによって、大きな枠組みでの勝ち負けだけでなく、人生の詳細な成績表まで作ることができてしまうのである。成績表が返ってくるのが楽しいのは一部の上位層だけであり、大半の人にとっては楽しい時間ではない。
私は心の底からSNS(やコメント欄というシステム)など消えてしまえば良いと思っている。SNSにポジティブな面があるのは理解しているが、それ以上にSNSによって生まれる負の感情が大きすぎる。SNSでは上記のように不必要なほど成功の解像度が高まってしまうのに加えて、5分に1回は誰かの不快なコメントや喧嘩が目に入るし、アルゴリズムは私の不快を関心と捉えさらなる不快を投げかけてくる。また、リールというシステムは人間の脳と時間を溶かし、人間の生産性を著しく低下させる今世紀最悪の発明であり、なぜ規制が入らないのか理解できない代物である。街で5分に1度自動車事故が起きているのを見たら、流石に自動車の利用に規制をかけたくもなるだろう。
ただ、 SNSをなくすことになってもsetlogだけは無くさないでほしい。あんなに楽しいものはないではないか。