僕の場合、普段の生活の中でも、頭は「かもしれない」で溢れている。「前から歩いてくる人は通り魔かもしれない」「この工事中のビルから鉄骨が落ちてくるかもしれない」といった考えが自然に生まれてくるのである。だから、歩いている時、特に夜道は前から歩いてくる人の手元を注視しナイフを持っていないか確認してしまう。後ろから近づいてきた人に気づけなかった時は、「もしナイフを持っていたらやられていた」と反省している。また、工事中の建物の側を歩く時は、頭上が気になってソワソワするし、実際頭上を何度も確認する。これをすることによって、生命の危機を回避でき、安全に生きていくことが叶うのである。杞憂だと笑われるかもしれないが、自然にこうして考えてしまうのだから仕方ない。
この慎重で疑い深い感覚はおそらく小学生の時の経験に起因している。小学2年生の時、校庭を元気に走り回っていると、突如頭を鈍器で殴られたような激痛が走り、気づいた時には倒れていた。鋭い痛みを感じながら目を開くと、そこには金属バットが転がっていた。なんと、15メートル程離れた場所でスイングの練習をしていた子が手を滑らしてバットが飛んでいってしまい、走り回っていた僕の頭に直撃したのだ。この時、人生は何が起きるか分からないと身をもって学んだ。走り回っている人間の頭にバットが直撃することがあるのなら、どんなことだって起こりうる。
しかし、タチが悪いのが、この「かもしれない」は、自分だけでなく、日常的に家族や友人の安全を脅かしてくるのである。家族や友人の周りに潜む事故や病気、殺人鬼に常日頃から恐れを抱いている。長時間のアルバイトが終わってから携帯を開く時には、「家族が倒れたなんて連絡が入ってるかもしれない」と考え、怯えながらラインを見ると、父から「お母さんとフレンチ♡」と言う平和な文章と共に母の写真が送られてきており、安堵し、ため息をつくと共に既読無視をするのが恒例である。ちなみに父は40代後半からボディビルを始めるほど活力に溢れ、母はジムに毎日通うような、羨まれるほどの健康体の持ち主であり、この前は2000回目か何かの記念でTシャツをもらって喜んでいた。これからも、私の「かもしれない」が拍子抜けで終わることを願うばかりである。皆さんも事故や病気や殺人鬼にはくれぐれも気をつけて。
今日も長々と書いてしまいました。読んでくれてありがとう。