1.聖徳太子の政治
 物部氏を倒した蘇我馬子は崇峻(すしゅん)天皇を暗殺し、自分の娘を推古(すいこ)天皇として
即位させた。推古天皇は最初の女性の天皇となる。

 推古天皇は
聖徳太子を593年に天皇にかわって実際の政治を行なう摂政に任命し、蘇我馬子と
協力して
天皇中心の政治を目指した。

 聖徳太子は大きく4つのことを行なった。
(1
)冠位十二階を定め、冠の色によって位を分け、家柄に関係なく、能力のあるものを役人に登用
 する制度をつくった。分け方は徳・仁・礼・信・義・智の6つの位を大小に分け、それぞれ紫・青・
 赤・黄・白・黒の濃淡で表した(例えば大礼は濃い赤、小智は薄い黒など)。

(2)
十七条の憲法を定め、、役人の心がまえを示した。天皇の命令に従うこと、争いをせず、仏教や
 儒教の考えを取り入れ、それを信じることなどが書かれている。

(3)
遣隋使を派遣し、中国の制度や文化を取り入れた。遣隋使の小野妹子に「日の出ずる処の
 天子、書を日没する処の天子にいたす」という国書を持たせ、隋と対等な外交を目指そうとした。
 
6世紀末の東アジア

隋は618年に唐に滅ぼされる。
(4)仏教を保護し、法隆寺や四天王寺を建て、また、蘇我馬子も飛鳥寺(法興寺)を建立した。こうしたことにより、飛鳥地方(奈良県南部)
 には仏教色の強い
飛鳥文化が生まれた。

 飛鳥地方を中心に、政治と文化が栄えた推古天皇から奈良時代までを
飛鳥時代という。
2.飛鳥文化
 飛鳥文化はギリシャ・インド・中国に大きく影響を
受けている
のが特徴である。
また、
法隆寺現存する世界最古の木造建築物
で、世界遺産にも登録されている。この時代に建て
られた寺として、法隆寺の他に、四天王寺、飛鳥寺
(法興寺)、中宮寺、広隆寺などがある。

 寺の中におさめる仏像は、仏師とよばれる人が
つくり、
鞍作鳥(止利仏師)(くらつくりのとり・とり
ぶつし)がこの時代を代表する仏師で、
法隆寺金堂
釈迦三尊像
は有名である。
この他、中宮寺半跏思惟像や広隆寺半跏思惟像
などがある。

法隆寺
写真:
ゆんフリー写真素材集

法隆寺金堂
写真: 列島宝物館
3.大化の改新
 聖徳太子の死後、蘇我氏が再び政治の実権を握り、天皇をしのぐほどになっていた。中大兄皇子(後の天智天皇)中臣鎌足
(後の藤原鎌足)
と協力して、645年、蘇我蝦夷・入鹿の父子を殺害した。この年に年号を大化と定め、この改革を大化の改新という。

 大化の改新の翌年、改新の詔(みことのり)を出し、以下のような政治の方針を示した。
(1)
公地公民
 土地と農民を豪族から取り上げ、国の土地(
公地)と農民(公民)にする。豪族は朝廷の
 貴族となった。

(2)
班田収授法
 
戸籍を作成して、6歳以上の農民の男には2段(反)(約24アール)、女にはその3分の2の
 口分田を与え、そこから税を納めること。死ぬと国家に土地を返す。

(3)税の制度
 農民には
租・庸・調などの税を納めさせる。
  
…稲の収穫高の約3%を納める。
  
…年に10日都で働くか、布を納める。男子のみに課せられた。
  
調…布や各地の特産物を納める。男子のみに課せられた。
  
雑徭(ぞうよう)…国司のもとで60日以内の土木工事を行なう。男子のみに課せられた。

(4)地方の制度
 地方を
国・郡・里に分け、それぞれ国司郡司里長をおいて、地方を管理する。
 九州には
大宰府をおき、外交や防衛にあたった。その兵士は防人(さきもり)とよばれた。
公地公民
4.律令政治
 改新の詔はすぐに実行・完成されたわけではなく、
701年の
大宝律令が制定されるまで長い年月がか
かった。

 朝鮮半島では、新羅と唐が百済を滅ぼしたので、
日本は百済の援軍にあたったが、
白村江の戦い
破れた。これにより、日本は国内整備に力を入れる
ようになり、都を難波から
近江大津宮にうつし、翌年、
中大兄皇子は即位して
天智天皇となった。

 天智天皇の死後、弟の
大海人皇子(おおあまのおう
じ)が子の大友皇子と争うようになり、
壬申(じんしん)
の乱
によって大海人皇子が勝ち、天武天皇となった。
 天武天皇は唐の律令制度を取り入れ、天皇中心の
政治を推進した。
 
日本という国の名前や天皇という称号はこの頃に
定められた。
 
中央機関としての二官八省
 天武天皇の死後、その皇后が持統天皇として即位し、唐の都である長安にならって藤原京をつくった。藤原京は日本で最初の
本格的な都であった。

 
中臣(藤原)鎌足の子である藤原不比等を中心に大宝律令が作成され、701年、文武天皇の時代に制定された。
  
は現在の刑法にあたり、犯罪に対しての刑罰が決められていた。
  
は現在の民法や行政法にあたり、政治のしくみなどが決められた。

 日本の律令制度はこの大宝律令の制定によって完成され、律令にもとづいて律令政治が行なわれた。

参考元サイト
http://www.hello-school.net/haroreki004.html



太刀を帯びることは現代ではあり得ませんが、やはり平安装束を着用するときに太刀も良いなぁと
あこがれるのは無理もないこと。束帯を着るわけではないので飾太刀の必要はないのですが、
やはり何らかの平安風の太刀を手元に置きたいと考えました。あくまでも平安「風」です。
 平安の公卿は束帯でなくとももちろん帯剣はしました。衣冠はもちろん、狩衣でも場合によっては
太刀を帯びます。束帯の場合は豪華な織物である平緒で腰に括りますが、それ以外の略儀の場合は
紫韋(革)の「くけ緒」(丸く太い紐)を用います。
平安太刀の種類は大きく分けて4種類になります。

(1)飾太刀:束帯用の細い直刀で唐鍔、豪奢の限りを尽くした美麗なもの。
(2)細太刀:飾太刀があまりに高価なために代用した細身の太刀で唐鍔。これでも豪華なもの。
(3)兵仗の太刀:野太刀とも言われる実戦的な太刀で葵鍔。ただし公卿が用いるものはやはり美麗。
(4)毛抜型太刀:これぞ実戦用の太刀。衛府の官人や警護の武士などが用いたもの。葵鍔で柄は共鉄。

博物館蔵品の太刀類

金装梨子地螺鈿飾太刀(東京国立博物館蔵)同左の柄部分
金装梨子地蒔絵細太刀と平緒(國學院高等学校蔵・復元品)

近代の装束では飾太刀はまったく使われないと言って良いでしょう。あまりに豪華すぎて博物館向きです。
細太刀も次のような簡略型になっています。

近代の細太刀(大正時代・個人蔵・全長85.5cm)
細太刀は飾太刀の飾金物を省略したものが本来でしたが、近代では陣太刀風の湾曲のある刀になっています。
この細太刀は戦前の勅任官が儀式の際に使用したもので、鞘は沃懸(いかけ)地という目の細かい金粉を使ったもの。これは平安時代は検非違使や老人用でした。
細太刀の各部名称
細太刀が陣太刀と異なるのは、柄に糸を巻かずに鮫皮をそのままにしていることと、鍔が一般的な日本刀のような刀身に対して垂直な葵鍔(四つ葉型)や粢鍔(しとぎつば・円形)ではなく、刀身に平行な唐鍔(分銅鍔)であることです。
 帯取韋は近衛は赤、左門が紫、右門が青などと規定されていましたが、近代ではすべて紫です。手貫緒も同じ材質の韋紐です。
 鞘は上記のように沃懸地蒔絵。かつては公卿は螺鈿梨地蒔絵、殿上人は梨地蒔絵、六位以下は黒漆などとされていたようですが、これも近代では割と自由に選択して使っているようです。この細太刀の所持者が老人であったかは不明です。

さて今回の意図するところは・・・
 装束を着用したときに用いるのですから(4)はちょっと場違いですので(3)以上のモノを希望します。
しかしレプリカのものでも目が飛び出るほどの値段がします。
たとえば「井筒」さんのカタログでは(3)が65万円(舞楽・人長のための黒漆銀装細太刀)、
(2)と類推できる「飾太刀代」は800万円!、(3)の豪華版「衛府太刀」が700万円!です。
いくらなんでもお遊びで買える値段ではありません。800万円出せばかなりの名刀(真剣)が買えます。

 ではあきらめるのか・・・。別にあきらめても一向に構わないのですが、せっかく気分が盛り上がったところで
あきらめては装束好きの名折れです(笑)。ここで救いの神はなんと海の向こうスペインから現れました。
 スペインにはDENIXという大砲やら中世のピストルのレプリカを作っている会社があります。
もちろん大砲はミニチュアです(笑)。
 刀にも力が入っていまして、古代ローマから中世ヨーロッパの剣、槍やら南北戦争のアメリカのサーベル、
ナチスドイツの短剣など、もう、ありとあらゆる武器を製造している何とも物騒な会社です。

 この会社では日本刀のレプリカも製造しているのですね~。それもかなりの人気商品らしく、ラインナップは
相当なもので、刀剣シリーズの3分の1くらいが日本刀です。しかしこれが何ともアヤシイ日本刀で、湾曲の具合、
柄の拵え、どれも「?」と首を傾げたくなるモノです。その中にありました「HEIAN SWORD」が!
2種類ありましたが1種は製造打ち切りだそうで、今回購入しましたのは鞘が赤茶色のもの。
値段は2万8百円なり(送料・代引き手数料含む)。
800万円あれば1ケ連隊分買えます(笑)。全長は108cmで、上記細太刀と比較すると非常に長く、実戦的?

 ところが「平安太刀」と銘打ってあるものの、なんと柄巻き(柄を紐で巻いたもの)があるではありませんか。
日本刀の代名詞のように思われる柄巻きですが、平安時代には柄巻きはありませんでした。
柄巻きをした「糸巻き太刀」は鎌倉時代後期から用いられているものです。それまでは柄は鮫皮むきだしか、
毛抜き型太刀のように刀身と共鉄のものが用いられていました。

 上の写真は購入時の状態ですが、江戸時代の刀と平安の飾太刀を足して2で割ったようなヘンテコなシロモノです。
どうせ平安太刀を再現するのならば、もう少し研究して欲しかったですねぇ。飾太刀なんかを正確に再現したら、
豪華でエキゾチックで、ヨーロッパのコレクターに受けるのではないでしょうかね。細身の直刀にして欲しかったですが、
それは言っても始まりません(ただ、この会社に具体的に指示して、ある特殊な長剣を製造してもらおうとしている
日本の業者があります。詳細な図面を添えて商談すれば本物の飾太刀も夢ではないかも)。

 まぁ利用は可能なようです。上記で紹介の近代の細太刀と異なって、帯取韋をつける金物は足金物ではなく、
本格的飾太刀のような「一の足・二の足」の「山形金」になっています。鍔は一応唐鍔のような感じ。ただ細工されている
模様は何ともアヤシイ「東洋風」な唐草模様みたいなもので、スペイン人の考える「日本・平安時代」はこんなものなのでしょう。
 それにしても、これらの金物類がみな重厚すぎるのが気になるところ。本来は繊細な透かし彫りの彫金なのですが、
このレプリカは一体成形のアルミ鋳物です。まぁ仕方がありませんね。

柄巻きを外したところ飾り目貫を貼り付ける鞘がしぼ革みたいですベランダで蒔絵塗装中

改造開始
 ともあれこれを利用して何とか平安太刀もどきを作りたい。さっそく改造を開始しました。
まず柄巻きの糸を外します。この刀は古色仕立てとでも言うのか、柄の鮫皮などをわざと茶色く汚してあるようですが、
せっかく作るのですからとクレンザーで磨きました。少しは白くなりましたが完全ではありません。ま、そのあたりは柔軟に
考えたいと…。鮫皮は刀剣店で一枚一万円くらいで売っていますが、今回使用するには贅沢すぎるので、
このままにしました。
何しろアヤシイ刀ですから、柄巻きの下のプラスチックに鮫皮模様があるか不安でしたが、一応それらしい模様があり、
これならば大丈夫と判断したわけです。

 この柄に飾り目貫を接着剤で貼り付けました。どうです?何となくそれらしくなりましたでしょう?
この金具は千代紙で小さなタンスみたいな小物を作るときの菊模様の鋲で、東急ハンズで合計210円で購入。
良いものがあって助かりました。
 さて、次は鞘です。元々のモノは安物の合成皮革、ビニールレザーの赤皮しぼみたいなもので、ちょっといただけません。
これを蒔絵風にすべく、塗装をしました。

 同じく東急ハンズで金粉と塗料(オートバイ用)を購入し、さっそくベランダで塗装を開始です。スプレーを掛け、乾かない
うちに金粉を散らし、またその上からスプレーを掛けます。透明のスプレーなので金粉がキラキラ輝いて見えます。
当然、新聞を敷いてスプレーを掛けたのですが、風で飛んだために、スノコまで塗装してしまいました(苦笑)。
ところがこのオートバイ用の塗料は透明感があって良いものの、数度塗り重ねていくと、何ともド派手なオレンジ色に
なってしまいました。ヤクザの長ドスみたいな感じになってしまっています。こりゃ大変。あわてて塗料を買い足しました。
今度は「ウレタンニス・マホガニー色」です。

思わぬ泥沼に
 鼻歌混じりにウレタンニスをスプレーしますと、何とせっかくキラキラ輝いていた金粉が、見る見るうちに曇ってきたでは
ありませんか!あれよあれよという間に、単なる茶色の鞘になってしまいました。何たること。今までの苦労が水泡に
帰してしまいましたぁ。しかし、ここであきらめてはいけません。金粉蒔きは慣れたのでサラサラともう一度振りかけます。
こんなこともあろうかと、金粉は3袋も買ってあったのです(1袋280円)。2袋目の半分を使用した段階で、鞘は再び金粉が
キラキラした状態に戻りました。ホッ。
 
 同じ失敗は繰り返さないように、今度は慎重にウレタンニスをスプレーしました。塗装の鉄則は「薄く薄く」数回塗り重ねる
ことです。素人はどうしても一度に厚塗りして失敗してしまうのです。私は素人の中の素人ですから、当然この失敗をして
しまったわけで、今回はそれに懲りて鉄則に従うことにしました。1時間おきに薄塗りを数回くりかえし、何とか茶色で下から
金粉のきらめきの透ける「蒔絵風」に仕上がったのです。ここでやめておけば良かったのですが・・・。

 さらに光沢を増そうとして、翌日「透明クリアラッカー」のスプレーをさらに掛けました。のみならず本当の蒔絵のように
文様も描こうと金色のラッカーと筆を購入し、当家の袍の異紋である「枝折菊」を片面3箇所ずつ描きました。
それが乾いたあと、またクリアラッカーをスプレーしたのです。するとつやつやピカピカ、いかにも蒔絵です。勝利を予感して
乾燥させるべく外に放置しました。
 2時間ほどしてルンルン気分で見てみますと、あ~ら不思議。ツヤはあるものの表面には細かい「ちりめんじわ」が!
これは一体どうしたことでしょう。気温5℃の外気で作業したためなのか、はたまた各種の性質の違う塗料を塗り重ねた
ことによる化学変化のためなのか、ともかくピカピカではあってもツルツルではないものに仕上がりました。

 ここで決断です。「これ以上何かすると泥沼にはまる。物事は退き時が肝心」・・・と。
 翌日、完全に乾いた状態になりました。金具部分に巻いたマスキングテープを外してみますと、これはこれでなかなかの
出来映えではないですか。刀身を鞘に収め、紫の帯取韋を付け、これに「七つ金」と呼ばれる前3つ、後ろ4つの
「責金具」を取り付けました。また、柄頭の「冑金」に付いていた手貫緒も紫の組み紐に交換。それまでは柄巻き紐と
同じ紐の、何とも言い難い無骨な飾り紐でしたので、この付け替えでぐっと雅になりました。

完成!「小鳥丸」
 さて、こんなところで一応完成なのですが、下の写真、どうでしょう?それらしく見えますでしょうか?
桓武平氏伝来の皇室御物「名物・小烏丸(こがらすまる)」ならぬ「迷物・小鳥丸(ことりまる)」と命名いたしました!

刀身は細身で反りが少なく、一応平安風です。
飾り目貫金具が光っています。
手貫緒も付け替えました。
七つ金も定法通りに。
鞘には金の塗料で枝折菊を三箇所に描画。
いかがでしょうか?本人は満足顔です。


参考元サイト
http://www.kariginu.jp/kikata/tachi.htm

 切腹の習慣は平安時代末期から起こり、武士の自殺の手段でしたが入水自殺などもあり、必ずしも切腹して自殺をしたわけではありません。初期の切腹で有名なのは、「義経記」にある佐藤忠信の例です。源義経追討の宣旨で北条氏に追われることになりますが、文治二年(1186年)一月六日辰の刻(※)、京都六条の堀河の館で大軍に包囲され、もはやこれまでと腹を切って果てました。

「剛勇な兵が腹を切る有様を御覧あれ」

と大音声に叫ぶと、十文字に腹を切り傷口に手を入れ腸を掴みだすと、刃を口にくわえ前に倒れて喉に突き刺し絶命したと書いてありました。この行為が影響してか、源義経も奥州平泉で追い詰められると、付添った増尾十郎兼房に「佐藤忠義の様に切口が大きい方が良いのだな」と確認して十文字に腹を切り、腸を掴みだしたそうです。これも「義経記」に記録があります。

 当時の切腹は、刑罰という意味合いは無く、敵に捕らえられ斬首刑になる恥辱を味あわない為の手段だったわけです。また派手に腹を切って臓腑を取り出すという行為は、吾妻武士の気風で勇猛であることを顕しているのと同時に、新渡戸稲造の「武士道」にあるような、腹部に込められた霊魂を解放し、自分の身の潔白を訴えるために、文字通り「腹を割って」抗議する意味合いもあるわけです。このような臓腑を露出する方法で腹を切ることを「無念腹(遺恨腹)」と呼び、前回書いた「泉州堺事件」の箕浦猪之吉がこれに当たります。

 鎌倉時代末期になると、元弘の変(1331年)で村上義光が、大塔宮護良親王の身代わりとして自害する時に、

「只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹を切らんずる時の手本にせよ」  (太平記 巻第七)

と叫んで腹を切り、臓腑を掴み出し敵に投げつけた(とても信じられませんが)逸話があります。手本にしろと言うぐらいですから、当時はこのような壮絶な切腹が、それ程普及していたわけでは無いように思えますが、その後戦国時代になると、切腹のやり方がどんどんエスカレートして、派手で壮絶に行うことが勇気の表現になっていきました。

 逆に徳川時代になると、切腹も形式化、儀式化して、「無念腹」は見苦しい上に、公儀に対して反抗的な態度ととられ忌まれるようになります。聞いたことがあると思いますが、刀を持たず扇を当てるだけの「扇腹、扇子腹」というものがあります。これは武家社会では、武士にあるまじき臆病な行為と言われていましたが、実際には刀を使って行う場合でも、三方の上の刀に手を掛けた瞬間に、介錯人が首を落とすケースが多かったそうです。「忠臣蔵」の歌舞伎でも切腹の場面は、観客の袖を絞る一番の見せ場ですが、大石内蔵助の他数名以外は、「扇腹」だったのが事実のようです。


 しかし幕末になると、殺伐とした時代になりますので、切腹の様子も一変して中世のような形式に逆戻りです。土佐藩の志士武市瑞山(半平太)は、「三文字腹」の切腹を見事に行うのですが、このような場合は事前に介錯人と打ち合わせが必要です。そうでないと、三文字に腹を切る前に首を刎ねられてしまいかねません。それでも瑞山の場合は大変で、三文字腹は成功したのですが、座していることが出来ず前に突伏したので、介錯人は首を斬らずに後ろから心臓を貫いて止めを刺しました。腹を三筋に切れば、腹筋は完全に切断され、腹膜が内臓の圧力に耐えられずにはみ出し、腹壁が空気の抜けたボールの様になりますから、刃が滑って切り難くなります。何よりも、意思の力を越えるであろう激痛で、身体中の筋肉は硬直して思うような姿勢が保てず、失血で気を失うかもしれませんから、本人は当然ですが介錯人も大変難渋するわけです。

 三島由紀夫が切腹した時、森田必勝が二度三度と介錯を試みますが果たせず、首は床で押し斬りにしました。三島の「解剖所見」が朝日新聞に掲載されましたが、切口は左腹から右腹へ十三センチを真一文字に切って、深さは約五センチあったそうです。とても姿勢を保ってはいられなかったと推測できますから、森田の不手際を責めることは出来ません。その後森田も腹を切り、同行した盾の会のメンバー古賀浩靖が介錯しましたが、森田はその時に、殆ど腹を切っていません。臆したのではなく、三島の末期を見ていたので、介錯をし易くする為にそのようにしたと思われます。そもそも三島の切腹は介錯人を頼むやり方ではなく、薩摩の「人斬り」新兵衛のように、自分で喉などを突いて絶命するのが正しい方法と識者の批評にありました。

以上の分析を考慮すれば、「泉州堺事件」の箕浦の「十文字腹」や、武市瑞山の「三文字腹」が、如何に超人的な行いなのかはご理解戴けると思います。


 以前に若いボクサーが「負けたら切腹する」と公言して恥を掻きましたが、切腹は並大抵の精神力で行える事ではありません。介錯人がいればまだしも、腹を切って腸が垂れ落ちても、人間は簡単には死ねないのです。切腹して失血死を待てば、激痛のまま数時間掛かりますし、腸を傷つけて腹膜炎を起こしても直ぐには死ねません。先の大戦で、海軍中将大西瀧治郎は特攻隊の責任を取って、敢えて介錯人を付けず切腹しましたが、半日以上苦しんで死んだそうです。

格闘技を生業とする者が、「武士道」の精神を取り入れるのは多いに結構な事ですが、まず学ぶべきは対戦相手と雖も尊重し、目上の者は敬う、武士の「孝徳」の心を知るべきでしょう。「切腹」などという言葉を、軽々に口に出すことは許されないのです。

尤も、切腹は「真の武士」にしか赦されない、名誉ある死に方ですから、始めから資格もありませんでしたが。


※「吾妻鏡」では文治二年九月二十二日なっておりますが、本文の詳細は「義経記」を参考と致しました。

参考元サイト
http://d.hatena.ne.jp/aya_natu/20081201/1228124513

装束着用時の挙措振る舞いなど

はじめに 
武家の礼法は小笠原流をはじめ、伊勢流、今川流などさまざまな体系化がなされていますが、公家の場合は形式化された宮中での儀礼を除いて、割合と自由闊達なところがあります。宮中行事の規則や故実に関しては、平安初期の「西宮記」、中期の「北山抄」、末期の「江家次第」をはじめ、数多くの有職書があります。また家々の口伝をまとめた故実書(たとえば一條兼良の「桃華蘂葉」など)がますが、公家の各家が皆これを一律に守っているようなものではなく、皆暗黙の了解として当然の儀礼を形作っていたと言えるでしょう。特に自邸内では、かなり自由に振る舞ったようです。ですから、ここでは某公家の内々に口伝として継承された礼法を紹介するに過ぎないことをまずお断りしておきます。
 なお、体系的に故実書で勉強されたい方に最適と思われるのは、
三条実冬(1354-1411)の「作法故実」(『群書類従』巻百・公事部)です。源氏・藤家・九条流の相違などについても詳しく述べられています。

坐法

 装束を着用しての座り方です。

楽坐(らくざ)
装束を着用しての坐法の基本となるものです。あぐらをかくように座りますが、足を組まずに足の裏と裏を密着させるように座ります。膝が左右に張って非常に威儀を感じさせるものです。古い貴人の肖像画などをご覧になれば、まずこの坐法によっているものとわかるでしょう。慣れないと内股の筋肉が痛くなりますが、慣れてしまえば苦になりません。
安坐(あんざ)
いわゆる普通のあぐらです。楽座の便法として行われますが、この際に気を付けるべきことは足の組み方の左右で、足が外側に来るのは下位に向けてです。つまり貴人が右においでの場合(下図)は、右足を外にして組むことで、表に見える足先が右でなく左に向くようにします。安坐は便法ですのでできるだけまたを開き気味にして、楽坐に近い形に見せることが望まれます。
正坐(せいざ)
意外なことですが、装束を着用した場合はあまり正坐をしません。元来、中国から伝わった装束は椅子に座ることを前提としており、正坐では装束の威儀が整わないのです(特に袍を着用時は非常に見栄えが悪くなるものです)。ただし貴人の前に伺候する場合、近世では正坐を行います。また家庭内ではこの坐法を用いていました。手は親指を中指内側の第2関節に当て、手のひらを伏せる形で下腹につけます。腿の上にかぶせる形はごく内々の場合にのみ行われる形です。
亀居(ききょ・かめい)
正座の状態から足を左右にはずしてお尻を床に着けた坐法。いわゆる「おばあちゃん座り」。亀のように足が左右に出ることからの名称です。平安時代から用いられ、除目の時など重要な儀式でも用いられました。
蹲踞(そんきょ)
敬礼する際の坐法です。足を自然に開いた形でそのまま膝を折って腰を下ろしてうずくまります。この際注意しなければならないのは、決して踵をあげてはいけないことです。足を完全に床に密着させるわけです。剣道で礼をするときの蹲踞とは違うもので、表現は卑近ですが「和式トイレ」の座り方です。
跪居(ききょ)
物の受け渡しを行うときの坐法です。正坐のつま先を立てて両膝を床に着け、踵の上にお尻を乗せます。この姿勢からさまざまな動きに発展するため、重要な挙措動作です。
建膝(たてひざ)
左足を建て膝にして、右足は正坐状態にします。古代から伝わる坐法で、特に女子が貴人の前に伺候する際の基本的な坐法とされていました。配膳や酌をする際は右利きの便を図って足を左右逆にします。男子の場合は貴人から受命する際の姿とされていたようです。
胡床坐居(こしょうざきょ)
椅子に座る坐法です。装束は本来椅子に座ることを前提としたものでしたので、これが最も無理のない坐法です。姿勢を正して両足はやや開き(膝の間に握り拳二つ)、左右の足を平行にします。手の置き方は正坐と同じです。と言うよりも正坐がこちらの形式を応用したのでしょう。
楽坐安坐跪居建膝

席次

 最高位の貴人を上座正面に置くことは通常の礼儀と同じです。これに列席する者の席次は、貴人から見て左直近が第一順位、右直近が第二順位、続いて左次近、右次近、以下遠くなるに従ってランクが下がってきます。基本としては貴人に近い方が上位、貴人から見て右よりも左が上位、と言うことになります。なお貴人の真正面(正中)は通常の場合あけておきます。左右二列(計四列)以上になる大会合の場合の席次はまた別の礼法がありますが、滅多にないことなので省略します。

着坐(座り方)

 楽坐への座り方には特別な礼式はなく、威儀を正したまま自然に股を左右に開く形でお尻を降ろします。この際に前屈みにはなっても背中を丸めるのはあまりよろしくありません。
 安坐への座り方では左足を軽く引き、腰を落として左膝を突き右脚を建膝にしてから着坐します。
 正坐への座り方は、まず両膝を折ってしゃがみ、上座側の膝を床についてから下座側の膝をつき、跪居(ききょ)の姿勢になってからお尻を脚に上に降ろします。神拝の場合には別の礼法があるそうですが、ここでは割愛します。

総員一斉の着坐
 全員が貴人に礼をつくしながら一斉に着坐する場合は、まず貴人の方を向き、次に下座側の足を引いて正面に向き直り、着坐します。

起坐(立ち上がり方)

 楽坐からの立ち上がりにも着座同様特に定めはないようですが、利き足である右脚を立て膝にしてから、おもむろに立ち上がれば良いようです。ただし貴人がいる場合には、下座側の脚を立て膝にします。着座同様に背中を丸めないようにしましょう。注意する点は左右の足を接近させ過ぎないことで、自然に開く程度の足の間隔を保ちます。
 正坐からの立ち上がりは、跪居の姿勢をとってから下位側の膝を上げ、立ち上がりながら上位側の足を下位側と平行に並べます。
 起坐の場合、どうしても「脚を投げ出す」ようなことになりがちです。比較的自由の多い公家礼法であっても、そうした不作法は決しておこなってはいけないのは当然のことです。

直立姿勢

 威儀を正す場合は取り流した袖を手で挟み、肘を張ります。足は自然に開くようにし、「気を付け」のように足を密着させることはありません。特に威儀を正す場面でないときは、あまり気にすることもなく、通常の礼儀をわきまえていれば十分です。
 女子の袿袴(道中着姿は除く)の場合、袿の前の打ち合わせは下端が自然に重なるか、あるいは開いたままとします。一般の着物のように打ち合わせようとすると見栄えが悪くなり、また挙措振舞もぎごちなくなってしまいます。

歩行

 姿勢を正して下位側の足から出発します。目線の位置は二十尺前などと言われますが、通常の場合は特に気にする必要はありません。足はわずかな摺り足で歩行しますが、茶道で用いられるほどには摺りません。踵はあまりあげないようにしたほうが良いでしょう。それにはあまり膝を曲げないことがコツです。男子は直進で良いのですが、女子の場合は身体の中心線の延長を足付けのめどにして、片脚づつ緩く円を描くように足を運ぶと、袿のさばきが美しくなります。
 歩行のスピードは「緩歩」(一呼吸に一歩)、「平歩」(一呼吸に二歩)、「急歩」(一呼吸に四歩)などがありますが、通常は平歩です。これ以外に「練歩」というものがあり、宮中儀礼の際に用いられます。肘を張り、踵は常に地面につけたまま、ゆっくりゆっくりと歩きます。片脚を進めるのに三呼吸と言われるほどののんびりとしたスピードです。私たちは「平歩」のスピードをおぼえておけば十分でしょう。女子は袿の捌きがありますので「緩歩」程度が適当と思われます。目的地までの歩数は奇数と考えて下さい。公家はあらゆることで奇数を尊びます。
 貴人の前から退出するときに、背中を向けて歩行することを「退歩」と言います。特別なルールはありませんが、この際には途中で立ち止まることは失礼とされます。

序列歩行(前導・供奉)
貴人の前導をする際には、左前の位置を進みます。供奉(付き従うこと)の際には左後ろを進みます。

膝行(しっこう)

 貴人の前に進む場合、礼を重んじる目的で数歩手前で一度着座し、膝付きで進みます。これを膝行と言います。女子の場合は室内ではあまり立って歩行せずに膝行が基本になります。膝行の礼式は複雑でなかなか説明がしにくいものですから概略だけ記します。ひとつの大きな誤解は「膝行」という文字から、膝を常時床に着けて、摺って進むと勘違いされることです。これではあっという間に袴の膝が抜けてしまいます。膝行は決して「すり膝」ではないことをまず理解して下さい。
 基本は跪居の姿勢をとり、下位側の足を少し(上位側の足の腿の中程まで)前進させて膝を突きます。身体は少し斜め(上位側向き)になります。続いて上位側の足を前進させて膝を突きます。身体は先ほどと反対方向に斜めになります。これを交互に繰り返すのですが、ポイントとしては決して片脚の爪先をもう一方の足の膝より前に出さないことです。見栄えも悪く礼を失します。移動の最中、手は軽く拳を握り、ずっと腰前に当てておきます。
 貴人の前に近づくにつれて足の進める距離を短くし、遠ざかるにつれて距離を大きく取りますが、膝より前に爪先を進めることはしてはなりません。

敬礼

 挨拶の礼です。「拝(はい)」「平伏(へいふく)」「磬折(けいせつ)」「深揖(ゆう)」「小揖」などの区別があります。座礼(座敷に座って行う動作)・立礼(立ったまま行う動作)の区別、腰を曲げる角度によって名称が分けられています。このなかで「揖」は礼儀としての挨拶ではなく、動作を区切り、始めたり終えたりする合図のような意味合いを持ちます。

90度60度45度15度
座礼深い平伏浅い平伏深揖小揖
立礼深い磬折浅い磬折

 浅い磬折と深揖の外見的違いとしては、磬折の場合は手を太股のあたりに置くのに対して、深揖は腹の上で両手を重ねることです。中国風のイメージがあります。
 笏などを手にしているときには、敬礼の場合は両手で体の中央持って敬意を表します。これを「正笏」と呼びます。頭を下げている時間は「拝」「平伏」で三呼吸、「揖」は一呼吸と言われています。

故実の揖(ゆう)

現代の神職が行っているものと違い、頭を下げずに
目は相手を見たまま腰だけ折ります。
現代では「会釈」程度の扱いですが、平安時代には
もっと多用な意味を持った動作でした。

 楽坐の場合には笏があれば同じように両手で中央に持ち(正笏)、頭を下げますが、何も持っていない場合は両手を腿の上にあてて頭を下げます。女子の場合の衵扇の持ち方は通常の通りです。いずれにせよ一般(武家)の礼のように畳に手をつくことは通常の場合しませんので注意して下さい。

その他

御簾のくぐり方
 誰かが御簾を上げている場合は頭を軽く下げて左端からくぐります。左というのは中から見て下座にあたるわけです。自分で御簾を上げてくぐる場合は左手で巻き上げます。

階段の上がり方
 御簾同様に左端を上ります。下位側である左足から上り始め、男子はまっすぐに足を置き、女子は少し右側斜めに向けて足を置きます。続いて右足を上げ、少し右斜めに向けて置きます。つまり男子は左右の爪先が違う方向になり、女子は同じ方向を向くことになります。いずれにしても身体はやや右側斜めを向きます。この動作を繰り返して一歩ずつ昇段します。普通一般のように片脚ごとに交互に階段を上ることは、決してしないようにしましょう。

把笏(はじゃく)
 笏は束帯のときと神拝のときにのみ用いられるので、私たちが用いることはほとんどありません。笏の持ち方を把笏と言いますが、必ず右手に持ち、笏の下部、下に指が一本入るだけあけて持ちます。親指と小指を内側にして、ほかの三本の指を外側にして真っ直ぐ傾けずに持ちます。笏を両手で持つのは神拝のときや宮中儀礼の場合だけです。

桧扇・蝙蝠(かわほり)扇の持ち方
 男子は右手で要を握り込むように持ちます。威儀を正す場合は必ず扇の先が要よりも下になるように、斜めに持ちます。笏を持つように先端が上になってはいけません。ただしこれは威儀を正す場合だけで、その他の場合はあまり気にする必要はありません。「故実作法」では「檜扇はごく自然に持っているように持つ」としています。なお桧扇は笏が変化したものとも言われておりますから、これを扇子のように扇いで使うことはしません。夏の蝙蝠扇は冷却用として使用して差し支えありません。蝙蝠扇の骨は武家は黒塗り、公家は白木とされていますが、この区別は厳密ではないようです。狩衣の場合は中啓と呼ばれる、閉じた状態でも先が広がった独特の形の扇を持つこともあります。狩衣で中啓を持つ場合は先端が要よりも上になる位置で持つこともあるようです。
 女子の場合、特に顔を覆うような場合を除いて桧扇(衵扇・あこめおうぎ)は開かず、六色糸をくるくると扇に巻いて持ちます。右手で要の部分を握り、先端がやや斜め上になるような形になるように、左手で中間やや上を支えます。親指は扇の上にそっと置く感覚で、残りの四本の指で支え持ちます。

その他思いつくままに

  • 冠を着けている場合、纓が左右に振れて隣人の顔に当たることもあるので、決して急激な動作(さっと横を向くなど)はしてはなりません。
  • 畳の縁は官位を表すものです。決して踏んではなりません。
  • 口を開ける動作は上品なものとされませんので、半開きした扇などで覆います。女子の場合、笑ったりするときは下を向いて軽く扇を口に近づけるようにすればよいでしょう。
  • 歩行は左側通行です。これは相手から見て自分が下座側(右)であるための礼儀です。
  • 物を持つときは右手で取り、必ず物の下を左手で支えます。物を持つときには完全な端を持たず、必ず指一本の余裕をあけます。
  • 数のことで迷った場合は必ず奇数にします。物を結ぶときに思案したならば、片鉤にすることが無難です。武家の場合は陰陽の関係で両鉤を多用しますが、公家の世界での奇数信仰は絶対的とも言えます。
  • 公家は陰陽道の影響を長年受けていたため、鬼門などの方位を特に重視します。できれば当日の吉方位を調べて入室の方向とするなど、各種の行動したいものです。
  • 装束着用時は小用がしにくいので極力水物は口にしないことです。

    参考元サイト
    http://www.kariginu.jp/kikata/10-1.htm

民衆直垂姿


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 平安時代の庶民の服装の一つとして直垂(ひたたれ)を見ることが出来る。直垂はやがて武士の常装として、さらに時代が下るに従って礼装化していったが、ここに見る直垂はその原型ともいうべきもの。筒袖に衽なしの垂直の前あわせに、胸ひもをつけ括袴姿とした。上衣は上古の「はにわ」や推古朝の官服とも同一系列のもので、庶民の姿の中に、平安朝よりさらにさかのぼる数世紀前のよそおいが偲ばれる。
 これは12世紀頃の作品と思われる粉河寺(こかわでら)縁起絵等を参酌したもの。

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1  萎烏帽子(なええぼし) 
2  直垂(ひたたれ) 
3  直垂の胸紐(むなひも) 
4  括袴(くくりはかま) 
5  鞭(むち) 
6  脛巾(はばき)

こんな感じの服装をしていたようです。


参考元サイト
http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000066