飛鳥時代について1.聖徳太子の政治 物部氏を倒した蘇我馬子は崇峻(すしゅん)天皇を暗殺し、自分の娘を推古(すいこ)天皇として即位させた。推古天皇は最初の女性の天皇となる。 推古天皇は聖徳太子を593年に天皇にかわって実際の政治を行なう摂政に任命し、蘇我馬子と協力して天皇中心の政治を目指した。 聖徳太子は大きく4つのことを行なった。(1)冠位十二階を定め、冠の色によって位を分け、家柄に関係なく、能力のあるものを役人に登用 する制度をつくった。分け方は徳・仁・礼・信・義・智の6つの位を大小に分け、それぞれ紫・青・ 赤・黄・白・黒の濃淡で表した(例えば大礼は濃い赤、小智は薄い黒など)。(2)十七条の憲法を定め、、役人の心がまえを示した。天皇の命令に従うこと、争いをせず、仏教や 儒教の考えを取り入れ、それを信じることなどが書かれている。(3)遣隋使を派遣し、中国の制度や文化を取り入れた。遣隋使の小野妹子に「日の出ずる処の 天子、書を日没する処の天子にいたす」という国書を持たせ、隋と対等な外交を目指そうとした。 6世紀末の東アジア隋は618年に唐に滅ぼされる。(4)仏教を保護し、法隆寺や四天王寺を建て、また、蘇我馬子も飛鳥寺(法興寺)を建立した。こうしたことにより、飛鳥地方(奈良県南部) には仏教色の強い飛鳥文化が生まれた。 飛鳥地方を中心に、政治と文化が栄えた推古天皇から奈良時代までを飛鳥時代という。2.飛鳥文化 飛鳥文化はギリシャ・インド・中国に大きく影響を受けているのが特徴である。また、法隆寺は現存する世界最古の木造建築物で、世界遺産にも登録されている。この時代に建てられた寺として、法隆寺の他に、四天王寺、飛鳥寺(法興寺)、中宮寺、広隆寺などがある。 寺の中におさめる仏像は、仏師とよばれる人がつくり、鞍作鳥(止利仏師)(くらつくりのとり・とりぶつし)がこの時代を代表する仏師で、法隆寺金堂釈迦三尊像は有名である。この他、中宮寺半跏思惟像や広隆寺半跏思惟像などがある。法隆寺写真:ゆんフリー写真素材集法隆寺金堂写真: 列島宝物館3.大化の改新 聖徳太子の死後、蘇我氏が再び政治の実権を握り、天皇をしのぐほどになっていた。中大兄皇子(後の天智天皇)は中臣鎌足(後の藤原鎌足)と協力して、645年、蘇我蝦夷・入鹿の父子を殺害した。この年に年号を大化と定め、この改革を大化の改新という。 大化の改新の翌年、改新の詔(みことのり)を出し、以下のような政治の方針を示した。(1)公地公民 土地と農民を豪族から取り上げ、国の土地(公地)と農民(公民)にする。豪族は朝廷の 貴族となった。(2)班田収授法 戸籍を作成して、6歳以上の農民の男には2段(反)(約24アール)、女にはその3分の2の 口分田を与え、そこから税を納めること。死ぬと国家に土地を返す。(3)税の制度 農民には租・庸・調などの税を納めさせる。 租…稲の収穫高の約3%を納める。 庸…年に10日都で働くか、布を納める。男子のみに課せられた。 調…布や各地の特産物を納める。男子のみに課せられた。 雑徭(ぞうよう)…国司のもとで60日以内の土木工事を行なう。男子のみに課せられた。(4)地方の制度 地方を国・郡・里に分け、それぞれ国司・郡司・里長をおいて、地方を管理する。 九州には大宰府をおき、外交や防衛にあたった。その兵士は防人(さきもり)とよばれた。公地公民4.律令政治 改新の詔はすぐに実行・完成されたわけではなく、701年の大宝律令が制定されるまで長い年月がかかった。 朝鮮半島では、新羅と唐が百済を滅ぼしたので、日本は百済の援軍にあたったが、白村江の戦いで破れた。これにより、日本は国内整備に力を入れるようになり、都を難波から近江大津宮にうつし、翌年、中大兄皇子は即位して天智天皇となった。 天智天皇の死後、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)が子の大友皇子と争うようになり、壬申(じんしん)の乱によって大海人皇子が勝ち、天武天皇となった。 天武天皇は唐の律令制度を取り入れ、天皇中心の政治を推進した。 日本という国の名前や天皇という称号はこの頃に定められた。 中央機関としての二官八省 天武天皇の死後、その皇后が持統天皇として即位し、唐の都である長安にならって藤原京をつくった。藤原京は日本で最初の本格的な都であった。 中臣(藤原)鎌足の子である藤原不比等を中心に大宝律令が作成され、701年、文武天皇の時代に制定された。 律は現在の刑法にあたり、犯罪に対しての刑罰が決められていた。 令は現在の民法や行政法にあたり、政治のしくみなどが決められた。 日本の律令制度はこの大宝律令の制定によって完成され、律令にもとづいて律令政治が行なわれた。参考元サイトhttp://www.hello-school.net/haroreki004.html