平安時代の食事と料理方法はどんな感じだった?

平安時代の日本人がかつてどのような暮らしをしていたのかは、食事を通してある程度推察することができます。

 

現代の日本は飽食の時代とも言われ、伝統的な和食のみならず洋の東西を問うこと無く、世界各国のグルメを楽しむことができます。

 

繁華街に出れば、フレンチやイタリアン、中華にタイ料理とその日の気分に合わせて味わうことができるのです。

 

では、まだ世界とつながっていなかった平安時代は、どのような食文化があったのでしょうか。当時の食事に関する事情について書いてみましょう。

 


やはりお米が主食だった?

現代においては麺やパンなど主食となる食材はさまざまありますが、日本人にとってお米は特別な存在です。

 

近代に入るまでは白米は最高のぜいたくと考えられていて、茶碗いっぱいのご飯にお漬物というのが庶民の楽しみでした。

 

平安時代においてはどうだったのでしょうか。和名類聚抄という文献をひも解くと、上流階級の食事では米を食べることが当たり前となっています。

 

当時はまだ農業技術がそれほど発達していませでしたの、お米の流通量は限られていましたが、それでも貴族ともなれば白米を口にするのが当然だったのでしょう。

 

庶民においては、麦類やアワ・キビなどの雑穀が基本で、腹持ちを良くするためにかゆ状にしてかさ増しをしていたことがわかっています。

 

また、麺類も平安時代に遣唐使によって伝来しました。

 

唐食と呼ばれるものの中には、麦を使った麺料理もあったのです。

 

ちなみに、現代日本人に人気の食事であるラーメンは江戸時代からで、平安時代に食べられていたのはうどんやそうめんに近い麺料理のようです。

 

主菜としていた食材とは?

食が欧米化して肉食進みつつある現代日本ですが、それでも寿司や刺し身といった魚食文化も根強く、比較的バラエティに富んだ食文化となっています。

 

平安時代における食事のメイン食材は、どのようなものだったのでしょうか。

 

当時から良く食べられていたものとしては、イワシやアユといった魚です。

 

日本は海と川に囲まれた地形をしていますので、平安時代も魚介類がメインの動物性タンパク源でした。

 

もちろん、当時の食事の中には肉類がなかったわけではありません。

 

ヤマドリやハトといった鳥類から、クマやアザラシ、イノシシといった獣類まで幅広く食べられていたようです。

 

ただ、どちらかというと平安人は農耕民および漁民が中心でしたので、やはり動物性タンパクとしては魚介類が中心であったことは間違いありません。


参考元サイト
http://www.heianjidai.com/syokuji.html

安時代の衛生状態とお風呂事情

入浴はストレス解消にもなりますし、血行が良くなることで健康への効果が高いものです。

 

現在「風呂」と言えば湯船につかる温浴(入浴)が一般的ですが、平安時代では少し形式が異なるようでした。

 

特に貴族はそもそも入浴自体をしなかったとも言われています。

 

今でこそ気軽に家風呂を使うことができ、気軽に楽しむことができますが、平安時代にはどうだったのでしょうか。

 

当時のお風呂事情について解説していきます。

参考元サイト
http://www.heianjidai.com/furo.html

▼関東における平氏について-平氏のおこり


平氏の祖は平高望、平国香である?

 源平合戦と呼ばれる場合は源氏と平家(へいけ)と言うように、平氏とは呼ばれない。この平家というのは一般には室町時代の後期に京の都で一大勢力を築いた平清盛を代表する「伊勢平氏」のことをさしています。このため、西の平家に対し東の源氏との一部でいわれている様に、平氏も西(関西)が中心と考えられがちですが、この平氏(桓武平氏)の起こりは室町幕府(平安遷都)をおこした桓武天皇の曾孫「高望王(たかもちおう)」が889年に宇多天皇より平(たいら)姓を受けて皇族(貴族)より下って(臣籍降下)、上総介に任じられ、上総の国(今の千葉県東部)にやってきたことが始まりだといわれています。平高望はこの元皇族である地位と人脈を使い地方の豪族と仲良くなっていきます。そして勢力を関東一体に拡げていったのです。未開拓の土地などの開墾なども積極的に行っており、関東の発展に寄与したといっても過言ではないでしょう。この桓武天皇の系列は桓武平氏とよばれ、関東に根を張っていった高望王の系列と京の都に公家として残った高棟王の2つの系列があり、この高棟王系列より清盛の妻「時子」が出ています。

 この高望の子供が「平国香(くにか)」「平良兼(よしかね)」「平良将(よしまさ)」「平良文(よしふみ)」などですが、長男「国香」はその後下総から常陸国へ、良兼、良将は上総国から、下野国の地方に勢力を拡大し、その他平良文一族は坂東八平氏として関東全体に勢力を拡大して関東武士の基礎を作っていきました。また平清盛は平国香の子孫にあたり国香から数えて3代目になります。

 将門の乱(承平の乱)

 平高望の子供たちはこのように関東各地へそれぞれ開墾なども行いながら勢力を拡大していきましたが、平高望の3男「良将」の子「平将門」が935年に反乱(承平の乱)を起こし、平氏同士の戦いが始まります。この戦いで「国香」は殺され(自害)、常陸国府(現石岡市)は将門の3000人の兵に囲まれ、町を焼かれ、常陸介藤原維幾は降参し、国衙の印を奪われてしまいました。この結果、関東一円を支配した将門は新皇を名乗り、茨城県岩井(現坂東市)に新しい国家を宣言して京の朝廷と対立してしまいます(939年)。将門は生まれは関東で、幼少時代を過ごしますが、後に京の藤原北家にて世話になり、主従関係を結びます。そして930年に京より関東の地に戻ってきました。しかし、関東に残っていたと思っていた自分の土地は国香などが占拠しており、わずかな土地からの再出発となってしまいました。しかしその後、将門は新たな土地を開拓し、そのたぐい稀な武力と精神力で勢力を拡大していきました。しかしこの新たに手に入れた土地も「国香」や「源護(みなもとのまもる)」らに狙われ、争いになってしまいました。やがて、関東平氏同士の争いとして935年に承平の乱が始まります。しかし将門の武力は非常に強く、源護の3人の子供は殺され、国香も自害に追い込まれてしまいました。源護の子供が殺されたため、姻戚関係にあった平良正(たいらのよしまさ)が将門追討に兵を挙げます。しかし、将門の武力の前に破れ、兄の平良兼(国香の弟)に援助を要請し、平良兼(よしかね)は国香の子、平貞盛(さだもり)と共に将門の討伐に参戦します。それでも将門は圧倒的に武力で勝っており、たちまち3人を追い込んでしまいました。やっとのことで3人は都に逃げ込んで朝廷に将門の処罰を要請し、将門も都に呼び出されますが、将門は都にも協力者をもっており、恩赦もあり、許されて坂東に戻ることが出来ました。しかし、良兼らは再び将門に戦を挑みますが、当初は全て負けてしまいます。そしてついに939年11月に常陸国府(現石岡市)を約1000名の兵で襲い国府の印と鍵を奪い取ってしまいまた。この時常陸国府は町中を焼かれてしまったのです。(国府には3000名近い兵がいたのに、それ程将門は強かったのです。今でも国府では将門は敵です)。また、その後、下野(しもつけ:栃木県)、上野(かみつけ:群馬県)の国府を占拠し、下総(しもふさ)国で「新皇」を宣言して、関東に新たな国を樹立してしまいました(939年12月)。これにより完全に「朝敵」となった将門は、朝廷の援護を得た藤原秀郷・平貞盛連合軍4000で将門への攻撃がはじまり、940年2月流れ矢に当たり将門は39歳でこの世をさってしまいました。

将門の首が空を飛んだ??

 将門の首は京の都へ運ばれ、東市(現:下京区四条新町)にさらされました。この将門は当時の京の都では、富士山の噴火(932年、937年と噴火が続いた)などもあり、不吉な世を暗示するかのようで、大変恐れられていたため、その首の形相がものすごく、死してもまだ動いて噛み付いてくるようで近寄る人もほとんどいなかったといわれています。2月に戦死し、京にさらされたのが4月であったのに、その首は夜な夜な恨みの言葉を発したとも噂は尾ひれがついてまことしやかに囁かれていました。そして、ついにその生首は故郷(坂東)を目指して空を飛んでいいって、途中力尽きて、江戸大手町に落ちたため、そこに首塚と将門を祀る神田明神が建てられたといわれています。この首塚は、東京大手町の高層ビルにはさまれたところにあり、今でも、昼でさえ薄暗い場所です。また、ここは、江戸時代には大老酒井雅楽頭の上屋敷があり、伊達騒動で原田甲斐が殺傷事件を起こした場所でもあります。また将門の首塚は他にいくつか存在し、事実はどこにあるかは不明ですが、胴塚は坂東の地今の岩井市に存在します。また岩井市では毎年、将門祭りが盛大に行われています。ところで、当時(1000年以上前)の江戸(東京)はどのようになっていたのでしょうか。徳川家康が江戸に幕府を作る前は、多くの川が現在の東京湾に注ぎ、湿地帯でまともな交通は出来なかったのではないでしょうか。古道東海道は江戸は通らず、東京湾を舟で渡っていました。また、武蔵の国は現在の府中市にあり、神田や大手町あたりは本当に陸地であったのでしょうか?また江戸の語源は川が集まっている戸口と言われており、霞ヶ浦は香取の海と呼ばれる大きな内海で、利根川は江戸時代に人為的に東遷されたのです。将門は江戸の庶民には人気が高く、将門の首塚は後から作られたものと考えるのは風情がないでしょうか。しかし、神田明神のホームページによると、創建は730年ですが、将門塚周辺で天変地異が頻発し、それが将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)に神田明神に奉祀されたと記されています。

安倍晴明(陰陽師)

 将門は関東に独立国家を作って西の京に対抗したことから、後の江戸時代などでは英雄扱いされている面もありますが、これも、関東地方に勢力を拡大した平氏(武士)の勢力争いとみる方が自然でしょう。また、この平安時代の後期には、京の都にて活躍した大陰陽師である「安倍晴明」が知られています。京都一条戻橋には現在晴明を祀った「晴明神社」があり、今でも修学旅行などの観光名所となっていますが、この晴明の生まれについては様々な説が言われています。晴明神社の由緒書きによれば、晴明は孝元帝の皇子大彦命の御後胤とされています。また安倍家の家系図によると、下級貴族安倍益材(あべのますき)の子として摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれたとされています。その他、安倍のつく地名として奈良県桜井市安倍の生まれだとの説もあるようですが、関東でも茨城県明野町(現筑西市)に晴明が生まれた地であるとの言い伝えが存在します。地元では「晴明神社」が存在し、「晴明橋公園」、「安倍晴明生誕の地」の石碑も立てられ、最近では地元温泉施設に「晴明の湯」と名づけられています。まさにここは将門の伝説の地に近い場所でもあります。晴明の生まれは西暦921年頃とされていますので、将門が殺された時は20歳前くらいでしょうか。なにか将門とも関係があったのかもしれません。もっとも晴明が亡くなったのは1005年であり、1000年以上前の話ですから、死後各地に将門と共に伝説となっていくつもの話ができていったのかも知れません。小野小町なども近くに多くの伝説が伝わっているのも興味深いですね。

賜姓源氏について

高校古文にも出てきたので源氏物語とは紫式部が書いた光源氏を主人公とする物語ということは知ってましたが、何故源氏物語というのかよく分かりませんでした。源氏・平氏と言うと源平の武家の両雄とばかり思っていたものです。

源氏物語を読み始めてやっと源氏の意味するところが分かりました。天皇の皇子が多数生まれそのまま皇族として残しておくと財政的にも大変だし皇位継承で政治的混乱も起こしかねないとして一部の皇子に「源氏」姓を与え皇族から離脱させることにした(臣籍降下)、これが賜姓源氏ということです。

源氏物語は冒頭桐壷帝が寵愛した女性(桐壷更衣)の生んだ第二皇子を臣籍降下させ源氏とするところから始まる、、、それ故に「源氏のものがたり」→「源氏物語」と呼ばれるのです。

何故、藤原摂関政治全盛の時天皇でもなく摂関家でもない賜姓源氏を主人公にした物語が書かれたのか、この辺も論議かまびすしい所です。

ところで桐壷帝には10人も皇子がいたのだが、何故第二皇子の光源氏だけを源氏としたのか。それは光源氏が幼少から容貌も才能も抜群でこのままいくと既に皇太子になっていた第一皇子との皇位継承争いに発展しかねない。また母親は既になくなりその出自も低くとても皇位につける血筋でないし、財政基盤もない、このままでは可哀相なことになるとして桐壷帝が決断したのです。

天皇の皇子で全ゆる面で光輝くスーパースター、でも天皇にはなれない男=光源氏、この設定は如何にも上手いなあと思いませんか。だって何でもできるんですもんね。

参考元サイト
http://sassa.kuri3.net/?p=248

源平合戦


当事者1:平清盛・平宗盛・平維盛
当事者2:源頼朝・源義仲・源義経
当事者3:
時代:平安時代
年代:1180年4月9日(治承4年)~1185年(寛治1年)3月24日
要約:平氏政権を源義仲が京から追い出す。その源義仲政権を源頼朝の代官源義経が追い出し、さらに義経は平氏の息の根を止め、源頼朝による武家政権へと時代が進む。

内容: 以仁王の令旨
1180年4月9日(治承4年)、平氏追討の令旨を発した以仁王に対し、平清盛は5月15日に追討軍を遣わした。以仁王は園城寺に逃れ、5月21日には源頼政が嫡子源仲綱以下一族の軍勢を率いて合流し、反平氏の旗色を明らかにした。
 5月26日宇治平等院の近くで以仁王と源頼政は、平知盛・平重衡率いる平氏の大軍に追いつかれ、合戦となった。頼政は宇治川にかかる橋の板をはずして時を稼いだ。両軍は橋を挟んで矢を射あっていたが、頼政軍の中から残った橋桁を渡って敵陣へ進み戦うものが出てくるなど、橋を挟んでの戦いが一日続いた。後にこの戦いは”橋合戦”と呼ばれる。
 優勢を誇る平氏軍は川に飛び込んで渡り、攻め込んだ為、数の少ない頼政方は次々と討ち死にした。頼政も傷を負い平等院の内に入り自害した。以仁王も流れ矢で討ち死にしたという。
 頼政らの挙兵は準備も不十分で、軍勢を結集することもできず失敗したが、平氏追討の発火点となった意義は大きい。

 源頼朝挙兵
1180年8月17日(治承4年)伊豆三島大社祭礼の日、平家によって流されていた源頼朝は、舅の北条時政が集められるだけの兵をもって、伊豆国の目代山本判官兼隆を襲撃して討ち取った。(頼朝が平氏追討に立ち上がった第一日)
 頼朝は挙兵以来そのまま順調だったわけではない。目代山本兼隆を討った勢いで、相模国を目指し進撃したところ、まだ平氏の支配を受けていた大庭景親らによって阻止された。土地の名を取って石橋山の合戦といわれる戦いがこれである。敗れた頼朝が数人の旗本と山中に逃げ、大きな木の洞に隠れていたが追ってきた梶原景時は頼朝を発見しながら、見つからないふりをして、頼朝を救った話は有名である。
 その後頼朝らは海路で安房国に逃れ、そこで上総広常・千葉常胤らの豪族の援助を受け再び進撃をはじめ、10月6日には鎌倉に入って、ここを本拠地とした。

 富士川の合戦
9月5日朝廷は源頼朝追討の宣旨を発した(朝廷といっても平氏政権)。平家方は平維盛を総大将として京を出発。しかし平氏の意気は揚がらず脱走するものも現れた。10月20日夜、富士川を挟んで対峙したときには、源氏は五万余騎であるのに対し、平氏は四千騎であったという。
 明日は決戦というその夜、甲斐源氏が平家の背後に回ろうとした動きに、水鳥が驚いて一斉に飛び立った。不安な気持ちで微睡みかかっていた平氏は、源氏の夜襲かと驚き、取るものもとりあえず、我先に逃げ出した。その様は全く敗残の兵で、五騎・十騎とばらばらで京に戻ってきた。総大将の維盛が帰京したのは11月5日のことであった。

 平清盛の死
源氏が東国で跋扈し、延暦寺・東大寺・興福寺等の僧兵が平氏追討に立ち上がった状況下、政治的にも独裁体制が不利と見た平清盛は、1180年(治承4年)12月18日後白河法皇の幽閉を解き(1179年の清盛のクーデター以後、法皇は幽閉されていた)政務を見ることを願い出た。これらを押さえるには後白河法皇の権威が必要であった。その直後の12月28日には平重衡を大将とした平氏軍が東大寺・興福寺を攻撃して同寺を焼いた。仏教権威を敵に回しても自派の権威維持に躍起になっている状況が伺える。
 1181年(治承5年)閏2月4日平清盛は、平家の没落を予感させる事件の中没した。高熱を発し悶絶しながらの絶命だったという。巷では前年の東大寺・興福寺焼き討ちに対する仏罰であるとの噂が流布した。

 倶利伽藍峠の戦い
北陸方面に於ける源義仲(木曽義仲)の勢力は、日に日に増大していった。1183年(寿永2年)4月平氏は平維盛・平通盛を大将にして十万の軍勢を派遣した。大軍は越前国・加賀国へと進み、5月11日には加賀国・越中国の国境である砥浪山付近で義仲軍と対峙した。義仲は平氏軍を狭い倶利伽藍峠に誘い込み、谷に落とす作戦をたてた。そこで昼間は矢合せなどして時間を稼ぎ、辺りが暗くなってから、四方から一挙に鬨の声を上げさせた。これを聞いた平氏の軍勢は暗さに道も解らず、我先にと谷の方に退いたため、皆谷底に落ちていった。大半の平家の軍勢が谷に重なり合って死亡した。さらに義仲は牛の角に火のついた松明をつけ、平氏軍に嗾けて一層混乱させたというのもこの時の話である。

 平家の都落ち
勢いに乗った義仲軍は7月には近江国にいたり、比叡山より京を臨んだ。彼の同盟軍の源行家も宇治から京に迫った。また摂津河内の源氏も大挙して入洛の動きを見せた。この様な情勢のもと平氏は京都に留まることに不安を感じ、安徳天皇・後白河法皇を奉じて一門をあげて都を捨てることを決心した。  後白河法皇は、平家の都落ちの気配を知り密かに比叡山に身を隠した。平家の目論見は早くも破れ、都からの脱出を急ぐあまり法皇が同行することは諦め、安徳天皇・建礼門院を奉じて、神璽・宝剣以下を具して7月25日遂に都を捨てて西走した。これをさかいに平氏は賊軍と呼ばれるようになる。8月6日後白河法皇の命により、平宗盛以下平家一門二百余人の官爵を解任した。

 源義仲の没落
平家都落ちの戦後処理として、8月18日後白河法皇は没収した平家の所領五百余ヶ所の内、百四十ヶ所を源義仲に、九十ヶ所を源行家に与えた。しかし源義仲の軍勢はこれに気をよくして京の主は自分たちであると思いこみ、乱暴狼藉を行った。是に対し法皇を初め貴族・庶民まで源頼朝の上洛を願うようになった。
 9月20日源義仲は平氏を追討するため西国に向かった。後白河法皇は源義仲が京を留守にしている間に、源頼朝に対し十月宣旨を発して東海・東山両道の荘園・国衙領を元の如く領家に従わせることを源頼朝に命じた(源義仲と源頼朝を両天秤にかけているね)。
 閏10月1日一旦は九州まで落ち延びていた平重衡率いる平家軍は、備中国小島で源義仲軍を撃破した。閏10月15日中国地方の平家軍の勢力が強くなり、源義仲は敗れて京に引き返す。しかし帰って来た源義仲が京で見た政治情勢は、もはや自分が政治の主役では無いことであった。これを快く思わなかった義仲は11月19日クーデターをおこし、後白河法皇の法住寺殿を攻め、法皇を五条東院へ幽閉した。さらに自分の自由にならない摂政近衛基通以下を解任し、藤原師家を摂政に任じた。しかしこれらの行動は軍事的な裏付けが無ければとても維持できるものではない。朝廷を上手に泳ぎ回っていた平家でさえ、軍事的な裏付けが無くなれば都落ちしなければならないのだ。
 源義仲にとって破局的な時はすぐにやってきた。11月29日平教盛・平重衡の率いる平家軍が播磨国室山で源行家軍を撃破した。源義仲・源行家連合軍は完全に平家に敗れ去ったのだ。このような情勢の中12月源頼朝は、源義仲追討のため、弟の源範頼・源義経を代官として上京させた。1184年1月20日、源範頼・義経軍が勢多・宇治で源義仲軍を打ち破り、源義仲は巴御前と供に奮戦したが近江粟津で敗死した。

 一ノ谷の合戦
都落ちした平氏は、一旦九州まで落ち延びたが、再び東上して1184年(寿永3年)1月にはかって平氏が遷都した摂津福原に戻り、播磨との国境に一ノ谷の城郭を構え源氏に備えた。2月に入ってからは京に攻め入る程の勢いを見せ、公家以下京都市民を恐れさせた。京都には源範頼・源義経の軍がおり、後白河法皇の平氏追討の宣旨を受けて一ノ谷攻撃に向かった。範頼・義経は二手に分かれ、範頼は小山朝政・畠山重忠・梶原景時らを率いて大手へ向かい、義経は安田義定・土肥実平・熊谷直実らを率いて搦手へ向かった。戦いは2月7日早朝より始まり、義経は鵯越え坂らか奇襲し平氏を混乱させ、範頼も攻防戦を繰り返し一ノ谷に追いつめ、四時間の激戦の末平氏を駆逐した。
 合戦で敗れた平氏は会場に浮かぶ船に逃れた。熊谷直実は美麗な鎧兜をつけ、連銭葦毛の馬に乗った武者がただ一騎海に乗り入れるのを見つけた。直実はこれを呼び戻し、相手を組みしいて、頸をかき切ろうとすると、自分の息子と同じくらいの16~7歳の少年であった。不憫に思い名を聞くと「名のらずとも、首実検で誰々かが見ればわかる」としか言わなかった。やむなく直実は頸をかき切った。義経の前での首実検で清盛の甥の平敦盛とすぐに知れた。(直実はこの時の事で世の無情を感じ、出家したと平家物語にある)

 屋島の合戦
一ノ谷の合戦で敗れた平氏は四国讃岐の屋島に陣を取り、水軍を持たない源氏を再び脅かすようになった。1185年(元暦2年)2月18日、源義経は摂津国渡辺から暴風の中僅か百五十騎を率いて海を渡り、阿波国椿浦に上陸した(通常三日の行程を、暴風を利用して4時間で渡ったという)。上陸後は土地の武士を味方に付けながら、19日に屋島の平家を攻めた。激しい矢合戦となり奥州から義経に従ってきた佐藤嗣信が戦死したのもこの時である。
 その後、源氏には梶原景時を大将として援軍が来るというので、平家は全軍船を揃えて長門国へ向かった。

 壇ノ浦の合戦
源平最後の合戦は1185年(元暦2年)3月24日に行われた長門国壇ノ浦で行われた海戦であった。平氏五百余艘に対して、源氏は義経が味方にした伊予の河野水軍・摂津の渡辺水軍など八百余艘で立ち向かった。
 戦場となったのは海流の流れの早い関門海峡で、朝の6時頃から始まった。平家の抵抗も激しいもので、源氏の大将源義経が平家の武将平教経に追い回され、八艘飛びといわれたように、船から船へ飛び移る戦いぶりであった。午後になり潮の流れが逆になり、平家は不利となり戦死する者も多く、平知盛が安徳天皇の御座船に最期の時が来たことを伝えた。清盛の妻二位尼は、まだ8歳の天皇に、海の下にも都があると慰め、自分は宝剣を抱いて海中に没した。天皇は按察局に抱かれて入水し、局は海中に浮いて助けられたが、天皇は没したままだった。以下一門が次々入水し、平宗盛・平時忠など助けられた者もいたが、ここに平家は滅亡した。

 源平の合戦に勝利した源氏は、したたかな後白河法皇と権力闘争をしながら、次第に権力を掌中に収め、鎌倉幕府を創建して行く。  


参考元サイト
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/jyueinonairan.html