実録!鬼ヶ島は実在した!!

節分の夜には豆をまきまき。
歳の数だけ豆を食べつつ、進軍です。
ニューマンでの豆まきが、ジオン軍以上に戦車最大の敵『坂』によって阻まれ、作戦の実行が不可能になった戦車大隊。
ではこのあとは……

どこかの都市で豆まきを!
ということで、どれにしようかな(推測)で決定された、豆まきの都市はダーウィンです。
さすがに戦車の在庫も付き、無料戦車の片道切符。どれだけ弾を撃ち込めるか。豆鉄砲を喰らわすことができるのか。

ダーで豆まき.JPG


戦車大隊は街を目指し出発です。
日付が変わってしまったので、節分の豆まきとはちょっと言えないかもですが、本日最後の豆まきです。
さすがにほぼ全員が無料戦車なので、全力で走っても遅い…wでも遅いなりに足並みがそろっております。

鬼ヶ島が見えた.JPG


街が見えたときには、街の外周の際の所にズラリと並ぶ鬼の姿。
ゲルググSをはじめとして、角付き機体、鋭いツメを生やした機体がてんこもり。さっきニューマンにいた鬼の姿もたくさん見えますw
みなさん楽しそうに鬼の面をつけて、もっと豆をまけ~、まかないとお前を食べちゃうぞ~!と、無料戦車を追い回します。いやんw

鬼だらけです.JPG


あっという間に私の無料戦車もダーウィンの土になり、あとは最後の集合地点ハンガーへ集合するだけです。
タクシーを捕まえて、ハンガーへ。なれない運転手だったのでかなり道に迷いましたが、なんとか破壊されずにハンガーまで到着できました。

ダーウィンでも裸のつきあい.JPG


他の参加者の皆さんも、だんだんとハンガーに集合してきます。
今回も誰からともなく裸族化……ジオンの方も裸のおつきあいくださる方もいて、どんどん戦車イベントの締めはコレ!という感じになりつつありますね。

今回は4回も出撃した戦車大隊。
占領戦の時間帯に作戦行動ができれば、破壊された戦車の数が多くて、しょぼーん…かもしれないですが、どれだけの鬼が倒されたかがわかって楽しさ倍増できたかも?
戦車&戦闘機だけでの占領戦などに、そのうち参加してみたいです。次の作戦は、すべて大隊長の胸の内……たくさんの戦車と一緒に行動できるだけでも楽しいですが、次の作戦も楽しむためにがんばって参加しよっと。
参考元サイト
http://calcifer.seesaa.net/article/33133645.html

鬼伝説の真相

鬼(オニ)とは

 鬼は伝説上の存在で、災いや厄をもたらすものと一般的に理解されています。また一部地域では鬼瓦とか守り神としても信仰されています。日本各地に伝説が残っている事から、完全に想像上の存在とする説には異論も多く、かつて日本に存在した異民族や、日本に漂着した異邦人であったという説を唱える人も居ます。 
 しかし平安時代以前に、鬼に繋がるような異形の外国人がそんなに多く日本に来れたかと言うと、それは非常に疑問が有ると言わざるを得ません。西洋人が大航海を始めるのはもっとずっと後だからです。よってやっぱり空想の存在であると決めつける人も居ます。 

 日本各地の鬼伝説に関しては余りに多すぎるので、その全てを詳しく説明するのは容量的に不可能と言っていいでしょう、分厚い本になってしまいます。その中でも有名な物には、秋田のナマハゲ、岩手の三ツ石、京都の酒呑童子、瀬戸内の桃太郎、岡山の温羅、沖縄のムーチー(鬼餅)、伊豆諸島の源為朝、佐渡のオンデコなどが有ります。 

 「鬼」は一般的には平安時代に中国から伝わったと言われますが、鬼ヶ城と温羅(おんら)伝説は平安期以前のものと考えられます、また秋田のナマハゲも「おに」と言う言葉を使っていません。鬼と言う言葉が伝わる前に「おに」が存在していた可能性が高いと考えられます。鬼の文字が入った諺も多く有りますが、ほとんど全てが肉体的な表現を伴っています。 

 「鬼」と言う文字は中国から伝わった漢字で間違い有りませんが、オニという日本語は何処から生まれたのでしょうか。一般的な説では実体の無い闇のような存在である「穏(オヌ、オン)」がオニに変わったと言われますが、これは曲解だと言わざるを得ません。東北のズーズー弁的な発音ではオニを「オヌ」と発音します。オヌの後に別の言葉が付く場合は「オン~」と発音します。これは佐渡の「オンデコ(鬼太鼓)」でも実例が有り、さらにこの発音は「オン・ラ(温羅)」に繋がり、鬼伝説として一致を見せます。 
 そして更に「オヌ」と発音する妖怪は、日本には鬼しか存在しないのです(注1)。ズーズー弁と出雲弁は似ており古代の標準語だったと言う説も有ります。つまりオヌ、オンがオニに変わったと言っても、表面的な発音が古代出雲系から大和系に変わっただけで、実は中身は変化してない、というのが正しいでしょう。 

注1 怪 異・妖怪伝承データベース(http://www.nichibun.ac.jp/youkaidb/)で「オヌ」で検索した。 

源為朝の鬼ヶ島伝説

 鎌倉時代に書かれた「保元物語」は源為朝が主人公と言えますが、この中にも鬼が出て来ます。おそらく最も最近の鬼伝説では無いかと思われます。伝説の詳細は省きますが、伊豆諸島に島流しになった為朝が鬼ヶ島を見つけ「宝をよこせ」と言うと、鬼に「昔は有った今はもう無い」と言われています。 
 ここに出てくる「鬼ヶ島」とは今の「青ヶ島」だと思われます。これを作り話だと言う人も居ますが、保元物語の鬼ヶ島の記述は、当時誰も知らなかった青ヶ島の特異な地形にそっくりです。 

 また為朝は当時「女護が島」と呼ばれていた八丈島で政治改革を行います。女護が島には女だけが住み、青ヶ島には男だけが住む習慣だったらしいのです。そして年に一度だけ男が女の元に通います。それを女は浜にワラジを並べて待ったと言います。これを為朝は「男女が別に暮らすのは誤りだ」と言い放ち、反対を押し切り嫁を貰い一緒に暮らすのです。 

 物語は、為朝が鬼を手下にした事を知った朝廷が慌てて征伐隊を繰り出し、為朝は屋敷の中で自害して終ります。しかし実は為朝が逃げて沖繩に渡り、その子孫が琉球王朝の始祖になったと言う伝説が、琉球王朝の正史に伝わっています。もちろん真相は不明ですが。 

 この為朝鬼伝説では、男と女に別れて生活していた島が有り、鬼ヶ島と女護が島と呼ばれていました。男鹿半島の近くにも女鹿という地名が有ります。そして桃太郎伝説の本家と言われているのが瀬戸内に有る数々の伝説であり、その中でも男木島と女木島が有名です。どうやら鬼と男と女の地名には深い関係がありそうです。 

 かつて女護が島と呼ばれていた島が八丈島以外にもあります。謎の海底遺跡で有名になった「与那国島」がそうです。ここにも変わった伝説が多く有ります。身長3メートルを超す「サンアイ・イソバ」とう女酋長が居たとか、昔は女しかいなかったとか、浜にワラジを並べて男を迎えたとか、大きなワラジを作り海に流したとか、個別に見れば妄想が生んだ取るに足らない伝説に見えます。しかし与那国には八丈島に有った男ヶ島が見当たりません。男ヶ島が沈んでしまったと考えれば、与那国の変わった伝説に説明が付きそうです。 

オニはアマの兵士

 オニ伝説と男女別の地名には関連性が見受けられます。それは偶然とは思えません。男ヶ島の無い与那国の伝説の変化は、偶然では無く必然を伴っています。 

 オニとは今は滅んだ「アマの兵士」だったのでは無いでしょうか。 

 アマは強い兵士を生み出すために工夫をし、兵士階級の男女を分けて育てる事でそれを実現した可能性が有ります。兵士の強さは力の強さであり身体能力です。これらは訓練する事で有る程度は鍛えられますが、持って生まれた遺伝的な要素に大きく影響されます。 
 つまり力が強く身体能力の高い男女をペアにすれば、その子供も高い身体能力が期待できます。これは訓練による戦闘能力を底上げし向上させます。これを何代も繰り返せば、更なる戦闘能力の向上が確実に期待できます。 

 しかしながら、これはそう簡単では有りません、男女の恋愛には好みがあるからです。また男女が一緒に暮らしてしまえば、雑婚を防止するのは難しく出生管理が上手くできません。 
 これを解決する方法には、優秀なサラブレッドと同じように血統を厳しく管理する必要が有ります。おそらくアマは兵士にも同じ様な管理を導入し、妊娠と出産を強制的に管理したのではないでしょうか。 

 つまりアマの兵士階級は厳格に男女に別れて生活をし、男は年に1度だけ女の所に通う事が許されたと思われます。ただし全員では無く選抜された男のみです。体の大きい者、力が強いもの、試合をして戦闘に優れた者を選び、短期間だけ女の元に行かせます。 
 女もそれを待ち望みます。出会いは年に一度で数日なので、好き嫌いの感情は入り込む余地はほとんど無く、ただ本能に任せて性交したでしょう。相手を選ぶ事は出来なかったと思われます。年に一度と言うのは妊娠出産が1年弱で終りますから、女達は全員が妊娠可能であり丁度いい期間だと言えます。 

 産まれて子はすぐ男女に分け、幼少から訓練を始め優秀な兵士に育てます。これを何世紀も繰り返せば、自然と身体能力が優れた兵士が生み出されたでしょう。しかも男女や家族のしがらみも無く、戦闘に特化した集団にすることが可能です。身長は3メートルを越え最大の者は4メートルに達したかも知れません。この男女別の兵士の居留地はアマゾネス伝説にも繋がります。 

 オニの強さを決める試合も有り、今の「相撲(すもう)」と呼ばれている物の原形になったかも知れません。相撲の行司には陰陽師に通じる点が有ります。そして陰陽師こそ鬼業(オンギョウ)であり、オニを指揮する役職だと思われるからです。 
 相撲の最高位は横綱と呼ばれ、かつてはその名誉は国王に匹敵したと言われてます。今の横綱ではちょっとイメージが重なりませんが、もしオニの横綱ではどうでしょうか。人を完全に超えたその戦闘能力には、王の権威すら霞んだ事でしょう。 

オニの居留地

 アマは日本にこれらの兵士を連れてきたと思われます。そして各地に兵士の居留地を作りました。それは男鹿半島、八丈島、与那国島です。他にも有るかも知れませんが、ちょうど日本を取り囲む形に存在しています。しかもかなり周辺に分けて配置されています。アマはオニを最強の兵士であると認めると同時に、かなり警戒していた可能性が有ります。 

 ナマハゲという言葉はどこから着たのでしょうか。色々説が有りますが、ナマハゲの語源は「生剥ぎ」でないかと想像します。生剥ぎとは頭の皮です。昔の日本には戦争の手柄の証拠として首を切り持ち帰る習慣があり、これは中国や南米や北米にも見られます。アメリカインディアンには頭の皮を剥ぐ習慣があります。これらに関連があると思われます。 
 つまり男鹿半島に駐留してきたアマの兵士が、戦で倒した敵兵の頭の皮を剥いでるのを見たのがナマハゲの語源でないかと想像します。何故頭の皮かと言うと、首を切ったのでは重過ぎて持ち運びに不便だからです。オニは強いですから一人で何百人も倒したかも知れません。 

 男鹿半島に少し離れた鳥海山麓に女鹿という地名が有り、ここには「あまはげ」というナマハゲに似た伝統が有ります。無言で子供をさらう伝統行事で、こちらを女版ナマハゲという人も居ます。能登半島にも「あまめはぎ」という伝統行事が有りますが、子供が各家庭を回って歩くもので鬼にはちょっと遠い気がします。また能登には佐渡と同じような鬼太鼓の伝統も有るようです。 
 北陸から東北にかけての日本海には、倒されるだけでは無いオニと思われる伝説が多く存在します。日本海をオニが頻繁に行き来していたと思われます。また日本は占領された土地でしたから、一部の鬼は居留地近くで数多くの悪さをしたでしょう。 

去るオニ、放置されるオニ、反乱するオニ

 岩手の鬼は悪さをしてましたが、最後はやっつけられ二度と来ないと言う約束手形を三ツ石に付けたと伝えられています。秋田のナマハゲは年に一度自由を与えられ、村を襲い娘を攫ったため、村人が懸けをして追い出したと言う伝説が赤神神社に残ってます。本当は村人が懸けに負けそうだったのですが、天の邪鬼が機転を利かせニワトリのマネをして鳴き声を上げ、これを聞いたオニが負けを認めて去って行ったと言うのです。 
 これと似た伝説は、紀伊半島南端の「橋杭岩」にも残っています。ここでは「役行者」対「天の邪鬼」ですが、天の邪鬼がニワトリのマネの鳴き声をして同様に勝っています。 

 伝統は南米や北米の先住民には戦闘時に身体と赤く塗る習慣が残っています。本当に真っ赤になります、しかも女の場合は身体を黒(青)く塗るようです。古代のオニも戦闘時には身体を赤く塗っていたのではないでしょうか。これが赤オニや青オニ、赤神として伝説になった可能性が有ります。オニは女も戦闘します、並みの男の兵士より遙かに強い兵士です。生まれと育ちが違います、完全な戦士の血統です。 

 秋田や岩手で去って行ったオニですが、他の地域では様子が違います。西日本では節分とか嫌われる対象として長く存在しました、伝統行事にも鬼を追い出す行事が多く存在しています。平安時代にも京を騒がせた酒呑童子と言う鬼伝説が存在しています。この地域のオニは逃げません、家来になるか殺されるかです。そして宝を奪われます。 
 しかし八丈島などでは放置され平穏に暮らしたようです。為朝が家来にした鬼に戦闘命令を出しても、戦うのを嫌だと拒否したと言う伝説も残っています。一方与那国では男ヶ島が消滅し女だけになり、それが元で苦難も味わったようです。 

 去るオニや暴れるオニが居た事から、どうやら日本に来たアマの軍隊に異常事態が発生した事が窺えます。天の邪鬼という存在がカギになりそうです。ともかく北のオニは撤退し、南と西の離島のオニは放置されたようです。 
 北のオニは九州や瀬戸内沿岸に集められた可能性が高いですが、収拾が付かないようになっていたのかも知れません。本国が崩壊したため占領地の反乱に備えてオニを召集したけど、極東のアマ司令部には全てのオニを管理する能力がもう無かったのでしょう。寒さが嫌いでオニが勝手に北から瀬戸内方面に移動した可能性もあります。 

 オニは戦う事しか出来ない生まれながらの戦士です、しかしその存在は悲劇的です。人道などと言うものは存在しません、オニの生きる道は鬼道のみです。その待遇に不満を感じ反乱するオニも少なからず存在したでしょう。鬼ヶ城の伝説はオニが城主のようです。 
 離島のオニは見捨てられのだと考えられますが、それは逆に幸せだったかも知れません。 

獅子伝説

 鬼に似た伝説の存在は他にも有ります、「獅子(しし)」もその一つです。中国の伝説では神獣で有り、ライオンに似たタテガミを持つ犬だとされています。実はこれとそっくりの犬が実在します。チベタンマスティフと呼ばれているチベット原産の犬です。背高が1メートル以上になる場合も有る大型種です。今は純血種は居なくなったそうですが、ちゃんとタテガミの有る優良な個体の場合は1億円以上の値が付く事も有るそうです。 

 普通中国で獅子というとシーズーと呼ばれる毛の長い小型犬です。これもチベット原産の固有種です。毛の長い犬はマルチーズも有名ですが、これは地中海のマルタ島が原産です。マルタ島と言えば鬼を連想させるミノタウロス伝説の有る島です。 
 最も小型の犬と言えばチワワです。これはメキシコ原産で、スペイン人が最初に目撃しマヤ文明と共に滅んだと思われていましたが、野生化したものが後に見つかり今に至っています。 

 最大の犬はマスティフで背高が1m、体重が100kgを超えるものも居ます。古代ローマのコロシアムではライオンと戦わせた事もあったらしいです。極めて主人に忠実で子供が悪戯しても動ぜず、番犬として最も優れていると言われています。ヨーロッパの貴族は広大な屋敷の見張り番として、マスティフを何頭か庭に放していたと言います。この犬こそ貴族の象徴でした。 
 この犬はシュメールが原産と言われており、シュメールには子牛のような巨大な犬の守り神の伝説が有ります。これらの犬とアトランティスは関連がありそうです。何しろシュメール、マルタ島、マヤ、チベットですから。 

 昔のマスティフはもっと巨大であり、数頭で眠らずに神殿の番をしていた可能性が有ります。ギリシア神話の「ケルベロス」は地獄の番犬で、頭が3つ有る眠らない巨大な犬の事です。巨大な犬の伝説も世界各地で一致を見せています。 

アトランティスの生命科学

 アトランティスでは強い兵士を生み出すために遺伝的な手法と使っていたと考えられます。それは犬にも当てはまったのでは無いでしょうか。 
 犬が家畜化されたのは2万年前頃の東北アジアだという説が一般的です。シベリアンハスキーがその子孫で、オオカミをソリを引くために飼いならしたのが起源と言われます。 

 犬はアトランティスに伝わり、大型化され番犬とし重用されるようになり、毛の長い愛玩犬と超小型の愛玩犬も生み出されたと思われます。この犬の調整はかなり優れた遺伝的な手法です。 
 現代も犬の種類は多いですが、基本はこれらの犬を掛け合わせた結果に過ぎません。チワワとマスティフでは体重は100倍ほども違います。同じ原産種からこの差を作り出す事は、現在の技術では不可能だと言えるでしょう。アトランティスの生命科学はかなり進んでいた可能性が高いと考えられます。 

 アトランティスは人間の小型種も生み出していたかも知れません。ミャンマー奥地にはタロン族という身長が100~130センチメートルの民族がいます。チベットに近い国境付近で絶滅しかけています。巨人も小人も雑種化すればその特徴を無くして行くでしょう。オニもこうやって消えて行ったのだろうと思われます 

 南米アンデスには金髪の民族が居たと言う伝説も有ります。また金髪碧眼の神の伝説がインカとマヤに存在します。中世期のヨーロッパの貴族は金髪のカツラを競うように被りました。金髪にステータスを感じ憧れていたのです。魔女や妖術使いなどが鼻が高い伝説になってるのも、何かの影響かも知れません 

 オニ、小人、金髪、大きい鼻などの肉体的特徴は、アトランティス時代の階級の象徴であり、その名残りが世界各地の伝説に残っている思われます。 

参考元サイト
http://www.pipi.jp/~exa/kodai/oni.html

▼天下五剣

天下五剣(てんがごけん)とは、数ある日本刀の中で室町時代頃より特に名刀といわれた5振の名物の総称。

なお、具体的に刀剣古書籍において、「天下五剣」の名称が用いられた事実はない。本阿弥光遜、日州ほか明治~昭和に活躍した刀剣研究家が「天下五剣」の名称を用いている事実(その著書に記載あり)から、明治以降、自然発生したものと考えられる。

日本刀研究家の佐藤寒山は、天下五剣は由緒伝来も加味されて選ばれているので、もし5振の最も優れた名刀を改めて選ぶとすれば、この通りにはならないだろうと述べている。また、数珠丸恒次については、古備前派の恒次ではないか?との見解を示している。

童子切安綱、三日月宗近、大典太光世、鬼丸国綱、数珠丸恒次。
この五振りは天下五剣と称され、それぞれに非常に面白い逸話などがある

●童子切(童子切安綱)

出典iwano.biz

東京国立博物館が所蔵

童子切安綱(どうじぎりやすつな)刃長79.9cm・反り2.7cm・銘『安綱』。作者・安綱(やすつな、生没年未詳)は、平安時代中期の伯耆国大原の刀工。大原安綱とも言う。作られた年代は、日本の刀が直刀から反りのある日本刀(湾刀)に移行する平安時代中期と推定

天下五剣の中で『鬼を斬った』刀は二振りで童子切安綱と鬼丸国綱の二振りである。童子切安綱の物々しい名前の由来は、酒呑童子なる鬼(山賊)を源氏の源頼光がこの太刀を使い退治したことからつけられた。 多分にフィクションを含んだこの話だが、それでも『童子切』と呼ばれ続けたのは、この太刀が持つ見事な迫力の為だろう。

ちなみにこの童子切安綱、過去に試し斬りされたことがあるのだが、そのときは六つ胴の切れ味を誇った。鬼退治という話は数多くのものが存在し、この童子切安綱も、鬼丸国綱、鬼切(鬼切丸)とよく誤認識される。

●鬼丸(鬼丸国綱)

御物として皇室の所蔵となっている

皇室御物である日本刀。鬼丸国綱(おにまるくにつな)とも呼ばれる。京粟田口派の刀工で、粟田口六兄弟の末弟である国綱の作。刃長78.2cm、反り3.2cm。

もう一振りの鬼を斬った刀、鬼丸国綱。こちらの有名な話はこの刀の持ち主だった北条時政が病に倒れたときの話。天下を平定した鎌倉幕府。初代執権であった時政はあるときから夢に鬼が出てくるようになり、病に倒れる。 いろいろ手を尽くして鬼を払おうとするがうまくいかず、逆にひどくなる一方だった。 そんなある夜、時政の刀(つまり後の鬼丸国綱)が夢に老人の姿で出てきてこう言った。

「わが身が汚れている。このままでは汝を救うことができない」と。

翌日、刀を清めさせ、抜き身で部屋に立てかけておいた刀はひとりでに倒れた。そのとき、この刀は部屋にあった火鉢を支えている小鬼の像の首を落としたのだ。それ以来、時政の病は快方に向かい彼はこの太刀を鬼丸と名付けた。

●三日月宗近

東京国立博物館が所蔵。

三日月宗近(みかづきむねちか)刃長80.0cm、反り2.7cm。平安時代の刀工、三条宗近の作

天下五剣の中でも最も美しいとも評され、「名物中の名物」とも呼び慣わされた。将軍家の秘蔵の名刀として継承され、永禄8年(1565年)、松永久秀と三好三人衆が二条御所を襲撃して将軍足利義輝を殺害した(永禄の変)際には義輝はこの三日月宗近を振るって奮戦したと伝えられている。変の後に戦利品として三好政康の手に渡ったとされ、政康から豊臣秀吉に献上された後、豊臣秀吉の正室高台院(寧子)が所持し、その後遺品として徳川秀忠に贈られ以来、徳川将軍家の所蔵となっていた。

●大典太(大典太光世)

前田育徳会が所蔵

大典太光世(おおてんたみつよ)刃長66.1cm、先身幅2.5cm、元身幅3.5cm、反り2.7cm平安時代後期の筑後の刀工・典太光世の作。

豊臣秀吉が伏見城に宿泊したときである。前田利家たちが話をしていると誰かが怪談話を始めた。

「千畳敷の間の廊下を歩いていると刀の鞘をつかまれて進めなくなる。」
利家はその話を笑い飛ばし、自分がいって確かめると言い出した。その証拠に廊下の端に他の大名の扇子を置いてくると話が決まったところで利家は秀吉に呼び出される。 その話を聞いた秀吉は利家の勇気に感服し大典太を持たせたのである。利家は難なく千畳敷の間の廊下を渡りきり、証拠の扇子を置いた。秀吉は褒美として大典太を利家に授けた

●数珠丸(数珠丸恒次)

尼崎市の本興寺に保管

数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ)刃長81.1cm、反り3.0cm 平安時代の刀工、青江恒次の作

信者から献上された日蓮が、この刀の魅力にとりつかれ、数珠を付けて魔よけに使っていたことからこの名が付いた。

日蓮没後は他の遺品とともに身延山久遠寺に保管されていたが、享保年間に行方不明となった。1920年ごろ、宮内省刀剣御用掛の杉原祥造が再発見した

参考元サイト
http://matome.naver.jp/odai/2140569365879865101

神代と上古代
  日本刀はその名前が示すとおり、我が国独特の鍛刀法で製作した日本の刀剣類を指します。
 国内で一般に日本刀と呼ぶようになったのは明治以降のことで、それまでは太刀、あるいは刀
 とよばれていました。特に平安朝以前の直刀には剣(けん)劔(つるぎ)太刀(たち)横刀
 (たち)などの文字が使用されています。
  わが大和民族は天目一箇命(アマノマヒトツノミコト)を刀匠の祖神と仰いで、以来三万有
 余人の名のある刀匠の輩出を見て今日に及んでいます。大和民族は神代から鉄剣時代であって
 石剣時代や銅剣時代といわれる時代はありませんでした。
  大和民族が日本本土に上陸した際には、すでに当時の新兵器である鉄剣を使用していたのに
 対し、土着民達はいまだに石剣時代でした。この武器の相違が日本平定の大業を非常に容易な
 らしめた原因の一つです。
  神代の名剣として古事記や日本書紀に記載されている天之尾羽張(アメノヲハバリ)は伊奘
 諾命(イザナギノミコト)が佩き、味耟高彦根命(アヂスタカヒコネノミコト)が武勇を振わ
 れた神戸剣(カムドノツルギ)、更に神武天皇が大和の賊を平定した韴霊剣(フツミタマノツ
 ルギ)が有名です。とくに天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)は天目一箇命が天照皇大神の
 おんために天(アマ)の香山(カグヤマ)の鉄で鍛えた剣であると伝承され、また人皇第12
 代景行天皇の皇子日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の際、草を薙ぎ払い風向きを変え
 て危難をまぬがれてから草薙(クサナギ)の剣と呼ばれ,三種の神器の一つとして我が国最高
 の神剣とされています。
 ●天皇家における三種の神器は、鏡と勾玉と剣●
  〔 八咫鏡(ヤタノカガミ)、八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)、天叢雲剣 〕
  その後、人皇の御代にはいると綏靖天皇記に倭鍛冶部の刀匠、天津真浦に、また崇神天皇記
 には天目一箇命の後裔に剣を造らせたと記してあります。これらはいずれも大和民族特有の刀
 剣です。また崇神天皇は大和鍛冶部に命じて造らせた剣十柄、弓二張などを常陸国の鹿島神宮
 に献納されました。これは我が国で刀剣類を神社仏閣に奉献した最初のものです。
  垂仁天皇の三十九年天皇は、太刀佩部(当時の軍閥であった物部、大久米部の内から精鋭の
 一部隊)を創設し、皇子五十瓊敷命(イソタマシキノミコト)を将軍に任じ、さらに大和鍛冶
 部に属する川上伴に、一千振にも及ぶ大量の剣を造らせて、非常事態に備え、宮中の警備に当
 らせました。これが後世に授刀舎人(ジュトウノトネリ・宮中護衛職)となりました。これら
 は伝統の大和鍛冶部を重んじたものであり、まだ外国から鍛冶の移住がほとんどなかったこと
 を意味しています。
  継体天皇の二十一年、筑紫国の国造であった磐井一族が反乱を起した時、天皇は物部麤鹿火
 (モノノベノアラカビ)に追討の勅命をくだされ、その出陣の際、剣を授けられました。これ
 が節刀(将軍が出征の際天皇より賜る刀剣)の始まりです。日露戦争の時東郷元帥が海軍司令
 長官として出征の際、明治天皇より賜った一文字吉房の太刀はこの例に倣ったものです。
  一方我が国と韓国方面との交通は神代からひらけていて、素戔鳴命(スサノオノミコト)が
 大蛇を退治した「蛇韓鋤之剣・オロチカラサビノツルギ」はその名が示すとおり、韓国の作と
 考えられるものも交じっています。また神功皇后の時代に百済からわが皇室に日月護身剣、七
 枝剣、丙毛槐林剣等が献上されています。この前後の時代には『高麗剣』(コマツルギ)と呼
 ばれる名剣が数多く名を残していますが、これは外国から刀剣が盛んに輸入されたいわゆる刀
 剣舶来の時代を意味しています。
  また新井白石は伊勢神宮の有名な玉纏横刀(タママキノタチ)、須賀流の太刀なども外国の
 剣だと説いていますが、これらのことは舶来の剣が我国古来の剣より優秀であったことを意味
 しています。なおその証拠の一例として推古天皇が蘇我氏の武勇を賞賛された御製に『ますけ
 よ蘇我の子等は、馬ならば日向の駒、太刀ならば句礼の真鋤』とあります。当時、馬は日向国
 (宮崎県)に産するものを最上としました。
  句礼(クレ)とは中国の揚子江南岸の地で隆盛をきわめた呉の国のことです。中国では銅剣
 を多く使用していましたが、呉の国は鉄の産地であり、非常に切れ味の良い鉄剣を造っていま
 した。古代においては剣は真鋤(マササビ)ともいいました。
  しかしこれらは刀剣に限らず、他の美術工芸品についても同様に舶来品が国産品より優秀な
 ことがいえます。
  しだいに日本の国力が充実するにつれて刀剣の需要は増大し、輸入だけでは間に合わず、そ
 こで優秀な刀匠自身の渡来をを招くにいたりました。古いところでは応神天皇の御代に百済の
 昭古王の推挙によって卓素という名匠達が渡来しています。また推古十年来目皇子(クメノオ
 オジ)が兵二万五千を率い、筑紫国を基地として朝鮮(新羅国)に進駐された際、忽海漢人(
 ワシウミノアヤト)たちを大和国より呼び寄せ、多数の兵器を造らしめて船出しています。こ
 れらの鍛冶は勿論日本人ではなく、また剣なども漢国(中国)の鍛錬法によったもので、日本
 固有の鍛冶法ではありません。このことは彼等の技術が大和鍛冶部より優秀であったことを意
 味し。更に当時すでに外国から鍛冶が渡来していたことを証明しています。彼等のグループを
 韓鍛冶(カラカジ)と呼び、神代の昔から引き続き皇室に直属していた倭鍛冶と相対して繁栄
 していきました。
  一方、政治的方面での大和民族の発展は景行、応神、推古天皇を経て熊襲、蝦夷などの征服
 を一段落し、皇威四海に輝き中央集権が確立するにつれて、各地の豪族のもとにいた鍛冶は、
 ちょうど戦国時代の英雄が中央に上り、天下に号令しようと志したのと同じ心境で大和、山城
 の皇城の地に鍛冶集中の傾向を示したのです。すなわち、東国蝦夷の御用鍛冶である舞草、月
 山、宝寿等の一派が、北陸沿岸に沿い、各地にその技法を伝えながら山城、大和国に進出し、
 また中国、韓国の影響を強く受けた九州鍛冶も、山陽道を経て途中に周防、備後、備中、備前
 鍛冶の遠源を作りながら上京し、さらに大国主命(オオクニヌシノミコト)以来、豊かな原料
 と需要に恵まれて安住していた伯耆鍛冶の移動、それに官府直属の大和鍛冶が入り乱れて互い
 に覇を握らんものと短を捨て長を学び、技を競い合い、世界無比の日本鍛錬法の完成へと発達
 していきました。
  そして国の制度上では、大化改新の際には兵部省が設けられて兵隊や兵器を支配しました。
 また文武天皇の大宝元年には有名な大宝の改革が行われ、鍛冶戸を各所に置き、兵器の増産を
 奨励しました。すなわち、従来世襲の国造の部に属していた鍛冶の制度を廃して民業とし、毎
 年一定の数を定めて良剣を買い上げ、各刀匠の技能をいっそう発揮するように努めたのです。
 ちょうどこの時、大和国宇多郡に天国が出現し、大宝律令にしたがって自分の銘を製作刀の忠
 (コミ)に刻み、今日のいわゆる日本刀と称する反りのある鎬造の太刀様式を最初に造りまし
 たので、彼は在銘日本刀の元祖と仰がれています。
  いいかえれば、大宝以前の刀剣は、全く反りのない平造、または切刃造の直刀で銘は無いの
 です。すなわち、天国は新形態の太刀様式の基礎を造った最初の刀匠です。
  また、平家重代の名剣小烏丸は、天国の作とされています。この太刀は、平将門が乱を起し
 た時追討の功によって、朱雀天皇より平貞盛が賜り、子々孫々相伝えてきましたが、その後旧
 津島藩主宗家に移り、更に明治十五年同家より皇室に献上し、現在御物となっています。
  むかしは天国と銘があったと伝えられていますが、1260年あまり経過した今日では、銘
 は錆てか全く不明です。この太刀は長さ88cm弱で、手元から2/3程度が鎬造の冠り落しで
 それから上は両刃の剣の形をしていて、全体に弱い反りがあり、一般の直刀とは趣を異にして
 います。天国の弟子の天座、天藤等はよく師の遺業を継いで有名です。また奈良の正倉院には
 当時の数々の名剣が保存されています。

参考元サイト
http://www.n-p-s.net/history.htm

バスケットボールの歴史

バスケットボールはアメリカ、マサチューセッツ州スプリングフィールドのYMCA(キリスト教主義に立ち、教育・スポーツ・福祉・文化などの分野の事業を展開する非営利公益団体のこと)の大学講師、ジェームズ・ネイスミスによって考案されました。

初めての公式試合は1892年1月20日にそのYMCAの大学で行われました。ネイスミスは、ニュー・イングランド地方の長い冬に室内でできる激しいスポーツを求めていました。そこで体育館のギャラリーに桃の籠を下げて、そこにサッカーボールを入れあうという今のバスケットボールの原型ができたのです。

考案当初は、人数制限がなかったりとルールが定着していなかったので、100人近くの人数でプレーする学校や、ギャラリーからゴールを妨害する観客がいたなどの問題があったそうです。バスケットボールは当初から人気があり、スミス大学の体育教師だったセンダ・ベリンソンによって女性用バスケットボールがはじめられ、その年のうちにアメリカの各地でプレーされるようになりました。

その後、1932年6月に国際バスケットボール連盟通称FIBAが結成され、男子は1936年のベルリンオリンピックから、女子は1976年のモントリオールオリンピックからバスケットボールがオリンピック正式種目として採用されました。FIBAによると、1998年の時点で世界のバスケットボール人口は4億5000万人、FIBAに加盟した国と地域は2006年8月に213まで増えました。

日本へは、スプリングフィールド大学を卒業した大森兵蔵が1908年に東京YMCAで初めて紹介しました。その後、1930年には日本バスケットボール協会JABBAが設立されました。現在の日本のバスケットボール人口は600万人に達し、一昨年には日本としては初のプロリーグ「bjリーグ」が発足しましたが、他国に比べると遅く、アジアの各大会で苦戦を強いられてきています。漫画「SLAMDUNK」の連載が日本でのブームの立役者をなり、この漫画の存在は日本のバスケには欠かせない ものとなっています。