「まさか、まさか中村屋が・・・」板東三津五郎丈のトーク(2013年3月8日) 21日、月命日に | 「月球儀」&「芭蕉座」  俳句を書くメゾソプラノ山本 掌のブログ

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第四句集『月球儀』
「月球儀」俳句を支柱とした山本 掌の個人誌。

「芭蕉座」は芭蕉「おくのほそ道」を舞台作品とする
うた・語り・作曲・ピアノのユニット。
    



俳句を金子兜太に師事。「海程」同人・現代俳句協会会員。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日21日は十代目板東三津五郎丈の月命日。

 

(1956年1月23日-2015年2月21日)

 

 

「新歌舞伎座と歌舞伎の未来」と題した

 

三津五郎さんの講演。

 

2013年3月8日のこと。

 

十八代中村勘三郎丈の旅立ちから3ヵ月でした。

 

 

 

 

とても三津五郎さんの貴重なお話し。

 

自分のためのメモをブログに初めてアップいたします。

 

 

 

その壱 (長いので中村屋のところまで)

 

 

講演会「新しい歌舞伎座と歌舞伎の未来」 

3月8日午後、新宿の朝日カルチャーセンターでの坂東三津五郎さん講演会。

 

参加人数が多かったので会場は住友ホール。

 


家元は「です、ます」の丁寧な口調で話していらっしゃいました。


撮影録音は禁止で、

 

メモをとり、どうにかミミズ書きが解読できるうちに、

 

レポートにしました(笑)。

 

 



○ 前の歌舞伎座の思い出

・舞台の上から見る劇場内の景色が一番良いのが、歌舞伎座だった。

・大きな役をやるとき、自分以外の力が

 

自分を動かしてくれたように感じたことが何度かある。

 

それはどれも、歌舞伎座でだった。ほかの劇場ではない。

 

そしてそれは、自分が役に真摯に取り組んでいるとき。

 

もしかしたら、劇場に宿った魂が上から舞台を見下ろして、

 

「あの子に力を貸してやりましょうかね」「そうですね、がんばってますしね」とか、

 

「いやいや、あの子はまだまだダメですよ」などと会話しているんじゃないかと感じる

 

(「 」のやりとりは一人芝居の感じで演られて)。



・役者のほかにも色々な人が歌舞伎座にはいた。

 

子供のころ、中村屋(十八代 中村勘三郎)と一緒になって

 

機関室(歌舞伎座内の電気、ガス、水道、ボイラーなどを管理する場所)から

 

ドライアイスを持ち出して、歌右衛門のおじさまが入る直前に

 

風呂場にいれて煙でもうもうにして叱られたことがある。

 

 

揚幕をいつも開けていた「こーさん」は、

 

芝居に詳しくて役者の好みに応じて開け方を変えてくれた。

 

先輩役者が自分のことをほめていたと伝えてくれたりもした。

 

今では楽屋にパンや飲み物の自動販売機があるが、

 

それがない当時は小さな台にそうしたものを並べて売ってくれるおばさんがいた。

 

今では役者の写真をロビーで売っているが、それがないころは

 

2階で役者の似顔絵を色紙に描いて売っているおじさんもいた。

 

そして楽屋口には有名な口番の田代さんがいた。



・役者以外でもみんな「歌舞伎座は日本一」と誇りに思って働いていた。

 

そういう人たちの魂、役者たちの魂が諸々、59年分詰まっていた劇場だった。



○ あってはならないことが次々と

・その歌舞伎座がなくなり、わずか3年間で新開場となる。

 

その間に歌舞伎界では本当によくない色々なことがおきてしまった。

 

前の歌舞伎座閉場のときは京屋(雀右衛門)さん、

 

成駒屋(芝翫)さん、天王寺屋(富十郎)さんたちが、

 

自分たちは新しい歌舞伎座には立てないかもしれないねえとおっしゃっていて、

 

僕たちは「そんなことはありませんよ。立ってください」と言っていた。

 

けれどもお三方ともお亡くなりになってしまった。



○ そしてまさかまさか、中村屋が……

(このあと、中村屋との思い出を長く詳しく語られる。

 

そのほんのさわりだけ)


・いまだに信じられない。まだいるだろうと思っている。



・小2で一緒に白波五人男をやった。

 

本当なら人気からいって中村屋が弁天のはずが、

 

彼は南郷力丸をやりたがったので僕が弁天に。

 

そして日本駄右衛門がなんと、芝雀さん。いちばん背が高かったので。

 

本人は一生の汚点だと言っているけれども。

 

なぜ中村屋が弁天ではなく南郷力丸をやりがたったからというと、

 

ほかはみんな前髪つきだが

 

南郷だけは青黛(せいたい)を塗る丸羽二重の大人の髪だから。

 

そういう役は本来は大人にならないとできないので、早くやってみたかったのだと思う。

 

子供の頃からそういうことまで考えていた。

 


・城めぐりの旅を一緒にした話。



・「関西歌舞伎を育てる会」に中村屋の交代で中日から出たことがある。

 

それがきっかけで関西歌舞伎とも縁ができて仕事の幅が広がった。

 

つねに中村屋が先を走っていて、

 

そのあとを必死で着いていったおかげで今の自分がある。



・そして一緒に、納涼歌舞伎を始めた。

 

自分たちが歌舞伎座の舞台を開けるのが夢だった。



・中村屋は手術前に電話してきて、

 

新しい歌舞伎座で8月に納涼をやろうとその演目の相談をしてきた。



・(納涼歌舞伎の演目を相談した話をしてから、

 

家元はしばし沈黙・・・ やがて)

 

「……まあ、不思議な感じですよね」。



・中村屋は天才肌の役者、独特の間の良さや、

 

客を一瞬でつかむ天賦の才の人だったが、

 

同時に誰よりも稽古する人だった。

 

踊りも芝居も。また鳴りものも。三味線でも鼓でもあっという間にうまくなるが、

 

それはそれだけ稽古していたから。



・彼と50年間一緒にやってきた者として、

 

「平成中村座の人気者」というような文脈だけで彼を語ってはいけないと思う。

 

彼の芸の真髄を伝えていきたい。



・三社祭はもう一度くらい一緒にできるかね、と言っていた。

 

もう少しすれば(先代勘三郎と七代目三津五郎のやった)「峠の万歳」の

 

あの枯れた感じが出せるようになるかな、

 

まだ早いが楽しみだと言っていた。そのままになってしまった。

 

「夕顔棚」のおじいさんとおばあさんもそう。



・自分を深く理解してくれる共演者を失ってしまった。



・後輩を指導するにあたっても、2人の持ち味が違うので、

 

気づくこと、注意することが違う。

 

2人が違うことを言っていても、互いへの深い信頼があるから

 

「彼の言うことはちゃんと聞きなさい」と指導できる。

 

2人は全く違う方向から臨んで、

 

歌舞伎をいい方向に導いていければと思っていた。

 

それがこれからの歌舞伎にとって心配なこと。

 

                      (続きます)