朔太郎<写真はノスタルヂア> 朔太郎にとって写真とは | 「月球儀」&「芭蕉座」  俳句を書くメゾソプラノ山本 掌のブログ

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第四句集『月球儀』
「月球儀」俳句を支柱とした山本 掌の個人誌。

「芭蕉座」は芭蕉「おくのほそ道」を舞台作品とする
うた・語り・作曲・ピアノのユニット。
    



俳句を金子兜太に師事。「海程」同人・現代俳句協会会員。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カメラマン萩原朔太郎は何をみたか」と

萩原朔美さんの読み解く「朔太郎撮影写真」を

昨日のブログにアップしました。



その朔太郎自身は写真をどうとらえていたか、

昭和14年アサヒカメラに

 

「僕の写真機」を発表しています。

こちらです。

       

 

 僕の写真機
                        萩原朔太郎

 僕が写真機を持ってゐるのは、

 

記録寫眞のメモリイを作る為でもなく、

また所謂藝術寫眞を寫す爲でもない。

 

一言にして盡せば、

僕はその器械の光學的な作用をかりて、

自然の風物の中に反映されてる、

 

自分の心の郷愁が寫したいのだ。

僕の心の中には、昔から一種の郷愁が巣を食ってる。

それは俳句の所謂「侘びしをり」のようなものでもあるし、

幼い日に聽いた母の子守唄のやうでもあるし、

ロマンチックな思慕でもあるし、

もっとやるせない心の哀切な歌でもある。


 僕はそのカメラを手にして、町や田舎の様々な景色を寫した。

ある高原地方では、秋草を前景にして、

 

遠く噴煙してゐる山を寫した。

ある山間の田舎町では、洋品店の軒にさがった、

紅白だんだらの蝙蝠傘を前景にして、

人通りのない晝の寂しい街路を寫した。

それを箱に入れて覗いて見ると、

旅に見た通りの景色が立體になって、

さながら浮き上がって見えるのである。



此所で「實景のやうに」と言いたいが、

わざとそう言はないのは、

 

ステレオのパノラマライクが、

實景とは少し違って、不思議に幻想的であるからである。

此所では前景と後景との距離がパノラマにおける

實物と絵畫のように、錯覺めいた空間表象を感じさせる。

その爲前景の秋草や蝙蝠傘が、

 

強く印象的に迫ってきて、

後景が一層遠く後退し、

 

長い時間の持續している夢の中で、

不動に静寂してゐるやうに思はれるのである。

そしてこの幻想的な印象にも勝って物侘しく、

ロマンチックに、心の郷愁をそそることは言ふまでもない。


 僕の心のノスタルヂアは、第三次元の空間からのみ、

幻想的に構成されるからである。


  『アサヒ・カメラ』昭和十四年十月号より