萩原朔太郎「死なない蛸」は
最後の詩集『宿命』(1939年)に載っています。
<死なない蛸 >
或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢ゑた蛸が飼はれてゐた。
地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻璃天井の光線が、
いつも悲しげに漂つてゐた。
だれも人人は、その薄暗い水槽を忘れてゐた。
もう久しい以前に、蛸は死んだと思はれてゐた。
そして腐つた海水だけが、埃つぽい日ざしの中で、
いつも硝子窓の槽にたまつてゐた。
けれども動物は死ななかつた。
蛸は岩影にかくれて居たのだ。
そして彼が目を覺した時、不幸な、忘れられた槽の中で、
幾日も幾日も、おそろしい飢饑を忍ばねばならなかつた。
どこにも餌食がなく、食物が全く盡きてしまつた時、
彼は自分の足をもいで食つた。
まづその一本を。それから次の一本を。
それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、
今度は胴を裏がへして、内臟の一部を食ひはじめた。
少しづつ他の一部から一部へと。順順に。
かくして蛸は、彼の身體全體を食ひつくしてしまつた。
外皮から、腦髓から、胃袋から。
どこもかしこも、すべて殘る隈なく。完全に。
或る朝、ふと番人がそこに來た時、
水槽の中は空つぽになつてゐた。
曇つた埃つぽい硝子の中で、
藍色の透き通つた潮(しほ)水(みづ)と、
なよなよした海草とが動いてゐた。
そしてどこの岩の隅隅にも、もはや生物の姿は見えなかつた。
蛸は實際に、すつかり消滅してしまつたのである。
けれども蛸は死ななかつた。
彼が消えてしまつた後ですらも、
尚ほ且つ永遠にそこに生きてゐた。
古ぼけた、空つぽの、忘れられた水族館の槽の中で。
永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――
或る物すごい缺乏と不滿をもつた、
人の目に見えない動物が生きて居た。
朔太郎は散文詩のことを次のように。
「散文詩と呼ばれるものは、
一般に他の純正詩(抒情詩など)に比較して、
内容上に觀念的、思想的の要素が多く、
イマヂスチツクであるよりは、
むしろエツセイ的、哲學的の特色を多量に持つてる如く思はれる」。