萩原朔太郎『月に吠える』 装画:田中恭吉
萩原朔太郎 詩集『月に吠える』
今年で刊行100年になります。
朔太郎31歳。
その「序」に詩への思い、
自身への言及が切々と綴られています。
抜粋して、こちらに。
『月に吠える』
萩原朔太郎
序
詩の表現の目的は単に情調のための情調を
表現することではない。
幻覚のための幻覚を描くことでもない。
詩の本来の目的は人の心の内部に蠕動する感情そのものの
本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。
詩とは感情の神経を掴んだものである。
すべてのよい叙情詩には、理屈や言葉で説明することの
出来ない一種の美感が伴ふ。
これを詩のにほひといふ。
詩の表現は素朴なれ、詩のにほひは芳純でありたい。
詩の表面に表はれた概念や「ことがら」ではなくして、
詩の核心である感情そのものに感触してもらひたいことである。
私の心の「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」
その他言葉や文章では言ひ現はしがたい複雑した特種の感情を、
私は自分の詩によつて表現する。
思ふに人間の感情といふものは、極めて単純であつて、
同時に極めて複雑したものである。
人間は一人一人にちがつた肉体と、
ちがつた神経とをもつて居る。
人は一人一人では、いつも永久に、永久に、
恐ろしい孤独である。
私のこの肉体とこの感情とは、もちろん世界中で
私一人しか所有して居ない。
またそれを完全に理解してゐる人も
私一人しかない。
これは極めて極めて特異な性質をもつたものである。
けれども、それはまた同時に、世界の何びとにも共通なもので
なければならない。この特異にして共通なる感情の焦点に、
詩のほんとの『よろこび』が存在するのだ。
詩は一瞬間に於ける霊智の産物である。
ある種の感情が、電流体の如きものに触れて
始めてリズムを発見する。
この電流体は詩人にとっては奇跡である。
私は詩を思ふと、烈しい人間のなやみと
そのよろこびとをかんずる。
詩は神秘でも象徴でもない。
詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との
寂しいなぐさめである。
過去は私にとつて苦しい思ひ出である。
過去は焦燥と無為と悩める心肉との不吉な悪夢であつた。
月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。
疾患する犬の心に、月は青白い幽霊のやうな不吉の謎である。
犬は遠吠えをする。
私は私自身の陰鬱な影を、
月夜の地上に釘づけしてしまひたい。
影が、永久に私のあとを追つて来ないやうに。
「月に吠える」のころの朔太郎