詩人・萩原恭次郎(1899-1938)をご存知ですか?
前橋の詩人で詩集「死刑宣告」など。
昨日の群馬大橋を渡ったちょっと左・橋の西詰に
恭次郎の詩碑があります。
<萩原>姓ですが、萩原朔太郎との姻戚はありませんが、
「兄」のように慕っていた、とのこと。
書は友人の高橋元吉によるもの、やはり詩人で、
明治からの書店「煥乎堂」の主でもありました。
(いまも営業中)
無題 萩原恭二郎
汝は 山河と 共に生くべし
汝の名は 山岳に 刻むべし
流水に 画くべし
利根川を見下ろすところに詩碑があり、
さくらの大木が川面に枝を伸ばし、
さくらのころはここへ。
車も通らず、川沿いに群馬大橋を見ながら
そぞろ歩くのがとてもいい。
散歩道はこの画像よりずっと整備されてしまって。
(画像はネットからお借りしました)
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萩原恭次郎(1899-1938)
当時の勢多郡南橘村日輪寺(現在の前橋市日輪寺町)の
農家の次男として生まれ12歳まで過ごした。
石倉に住む叔母の養子となり、前橋中学を卒業した。
その後、坪井繁治、岡本潤などを知り
前衛芸術運動の旗手として活躍し、
雑誌「赤と黒」を創刊。
大正11年詩集「死刑宣告」を出版した。
「死刑宣告」は写真版などを多くとり入れたり
活字の大きさを変えたりし、
詩の行も上下左右から始まるといった斬新な手法を取り入れ、4
近代詩に変革をもたらしたと高く評価されている。
その後、アナーキズムに傾倒し、
「黒旗は進む」を創刊したが1号で終わり、
石倉に帰ってその活動を続けた。
1932(昭和七)年「クロポトキンを中心とした芸術の研究」を創刊し、
第1号に農民詩の傑作といわれている「もうろくずきん」を発表。
その後、高橋元吉の勧めで煥乎堂書店に勤めたが
1938(昭和13)年、溶血性貧血のため39歳で没した。
碑文は昭和13年の作。
書は友人高橋元吉のものである。
昭和34年4月に建立された。
昭和34年は恭次郎没後20年である。