散文詩「鴉」は
三好達治の第一詩集『測量船』におさめられています。
三好三十歳のこと。
筑摩『定本 三好達治全詩集』からひきますが、
文語・旧漢字になっておりますが、
ここではルビができず、
旧漢字だと字がつぶれてしまうので、
新漢字にいたしました。
この筑摩の詩の配列やうつくしい明朝体で、
柔らかな革、ベージュの表紙。
三好の年譜を石原八束がまとめていますが、じつに詳細。
素敵な本です。ちなみに厚さ5センチ。
<鴉> 三好達治
風の早い曇り空に太陽のありかも解らない日の、人けない一すぢの道の上に私は涯しない野
原をさまようてゐた。風は四方の地平から私を呼び、私の袖を捉へ裾をめぐり、そしてまた
その荒まじい叫び声をどこかへ消してしまふ。その時私はふと枯草の上に捨てられている一
枚の黒い上衣を見つけた。私はまたどこからともなく私に呼びかける声を聞いた。
――とまれ!
私は立ちどまつて周囲に声のありかを探した。私は恐怖を感じた。
――お前の着物を脱げ!
恐怖の中に私は羞恥と微かな憤りを感じながら、余儀なくその命令の言葉に従った。
するとその声はなほも冷ややかに、
――裸になれ! その上衣を拾つて着よ!
と、もはや抵抗しがたい威厳を帯びて、草の間から私に命じた。私は惨めな姿に上衣を羽
織つて風の中に曝されてゐた。私の心は敗北に用意をした。
――飛べ!
しかし何といふ奇異な、思ひがけない言葉であらう。私は自分の手足を顧みた。手は長い
翼になつて両腋に畳まれ、鱗をならべた足は三本の指で石ころを踏んでゐた。私の心はまた
服従の用意をした。
――飛べ!
私は促されて土を蹴つた。私の心は急に怒りに満ち溢れ、鋭い悲哀に貫かれて、ただひた
すらにこの屈辱の地をあとに、あてもなく一直線に翔つていつた。感情が感情に鞭うち、意
志が意志に鞭うちながら――。私は永い時間を飛んでゐた。そしてもはや今、あの惨めな敗
北からは遠く飛び去つて、翼には疲労を感じ、私の敗北の祝福さるべき希望の空を夢みてゐ
た。それだのに、ああ! なほその時私の耳に近く聞こえたのは、あの執拗な命令の声では
なかつたか。
――啼け!
おお、今こそ私は啼くであらう。
――啼け!
――よろしい、私は啼く。
そして、啼きながら私は飛んでゐた。飛びながら私は啼いてゐた。
――ああ、ああ、ああ、ああ、
――ああ、ああ、ああ、ああ、
風が吹いてゐた。その風に秋が木葉をまくやうに私は言葉を撒いてゐた。
冷めたいものがしきりに頬を流れてゐた。