天岩戸・戸明神社お礼参り
~疎外感や孤独を感じている人たちへ~
パソコン教室を営んでいる
和田基博と申します
明日は月曜日の休みの日、明日は何もせずゆっくり休もうと布団に入り、
ぐっすりと眠りに着きました。
朝、目が覚めると6時30分を過ぎたあたりでしたが、テレビをつけ
ぼんやりと1時間ほど眺めていましたが頭に入らず、このまま布団の中で
ダラダラするのがもったいなく思えました。
テレビの電源をオフにして消し、除菌消臭剤を振って布団を畳みました。
窓に明るい太陽が差し込むのを見て、勝手口のドアを開け、手印を結んで
「アーマーテーラース~」と十言の神咒です。
太陽を言霊ごとに片眼を開けて見つめ、終わるころには太陽の残光があって
目はかすんでいましたが、何でもできそうなくらいに自信が湧いてきて
太陽のエネルギーを第三チャクラに取り込んだのです。
神棚の水を替えお参りして祝詞を奏上、三宝荒神にもお参りして、
その勢いで外に出てお堂で先祖供養のお勤めまで一気にやってしまいました。
今日は勢至菩薩の日で開経偈から般若心経、不動明王の慈救の呪と火界呪のマントラ、
阿閦如来のマントラ、七福神のマントラ、三宝荒神のマントラは
神棚で奏上しましたが、ここでも思考に出て来たので唱え、
邪念が入りそうだったので錫杖を振りながら天狗のマントラを長めに唱えました。
ここで大切なことは諸尊、仏教での神は畏れ多く敬うものでもありますが、
般若心経を唱えながら、亡き、父や祖父母など生前かかわりのあった
人に対する思いです。
最後にすべての根本までのご先祖様は、いうなれば一つでワンネスであることを意識し、
冥福を祈り、残りたるものを見守りお助け下さいと言う供養です。
結局日頃と変わらず瞑想やワーク、ヨガとストレッチまでやり、
仕事のメールやネットの更新を終えると11時を過ぎて
お昼になろうとしている時間でした。
ポジティブな気持ちのままウォーキングシューズに、守護と心の安心を粗塩に込めて
玄関を出ました。
気持ちもすっきりとしていて、今年の3月に北九州市若松区の天岩戸、戸明神社へ
お参りしていたのでお礼参りに行こうと車に乗り込み出かけました。
お腹は空いていなかったのですが、途中幸袋地区に高校の同級生がいる食堂へ行って、
近くに来たから寄ってみたと、トンカツ定職を頼んでお昼を食べました。
いつもは、お昼は軽く済ますのですが、自分のためにご褒美のつもりで
重めの食事です。
1時間ほどかけて戸明神社へとやってきました。
参拝者も駐車場に2台ほど車が止まっていましたが連休とはいえ、
参拝者は少なかったのでゆっくりと時間を取って
祝詞を上げようかなと思っていました。
鳥居の手前で年配の女性がデジカメで何かを写真に撮っていましたので、
こんにちは!と挨拶しました。
「ベニシジミがいるのよ!」笑顔で嬉しそうに答えられ、そこを見ると
小さな蝶が、ツガイでしょうか、2羽チラチラと舞っています。
神の使いです。
鳥居之祓を奏上し参道の石段を登って行きました。
境内を見渡し、初参拝の時に感じた既視感を改めて感じたのでした。
社務所には宮司さんでしょうか神職の装束を着た方がいらっしゃいましたが、
まずお礼参りをと拝殿で一礼、賽銭を入れようと小銭入れを開けるとからっぽで、
お札を取り出して賽銭箱へ入れました。
不思議なもので、お賽銭でお札を入れても何かの機会に突然臨時収入があり、
神様が戻してくれたと感じることも多いので、そういう時は惜しまずに
お札を入れるようにしています。
神がくれるのは金銭が目的ではなくそういう運だと感じます。
お賽銭でも神社や仏閣の維持運営のために、突き詰めると
人が必要なだけで神にはお金は必要ないのですが、出来れば賽銭も
出来る範囲で良いから多めに入れた方が良いと感じるのです。
引いては多くの参拝者のためとなりますが、それをご利益と引き換えにするのは、
違っていると思うのです。
大抵の場合、ご利益というものは個人のエゴともなり、自分がそれなりの
努力も手間もかけないで、お金が欲しいとか高額の宝くじが当たりますように
というのは、筋違いだと思った方が良さそうです。
願い事が叶うのは神にとって必要な事だから叶うと思っていて、
必要は必然にそうなるように感じるのです。
正しく願い、それなりの事を一生懸命やらずとも、やった上で、という前提があり、
それが難しいのは分かっていますが、それが成るように成るという意味だと
私は理解しているのです。
いくら頑張って努力しても成らないのは、そのやり方や前提となる考え方が
違っていたりするものです。
だからLight Workerとして求められるのは、見返りを求めない無償の愛です。
それでも人間はそんなに聖人君子の精神でいるばかりではいられないのも
事実だと感じますし、他を押しのけてもという場合だって日常生活でも
生きている限りあります。
エゴを発しても好かれるか嫌われるか、許せるかどうかという事だと思うのです。
赤ちゃんや子供は基本的にも絶対的にわがままです。それを無邪気と言いますが、
それでも親は子供を嫌ったりはしませんが、それは大人として
その子のわがままを受け入れることが大人である由縁です。
大人になっていないものが親になったときネグレクトしたり、イジメや虐待、
殺してしまった、また自殺へ追い込んだという最悪の結果といった
社会的な問題を生み出していますが、そこには何らかの因果があり、
しかし親の子供に対する愛は人間というより生き物として、
魂の部分は基本的に無償です。
二拝した後祝詞を奏上しようかと思った時、拝殿に参拝の仕方が書いてあり、
そこが気になって参拝方法通りに祝詞を奏上しました。
それは「惟神(かんながら)」がない略拝詞でしたが、物足りないと思わずに
心を込めて「有難うございました」と述べると、感謝の気持ちが湧いてきたのです。
祭神は天手力雄大神(あめのたぢからおのおおかみ)と
天児屋根大神(あめのこやねおおかみ)で天手力雄大神は
記紀にある天岩戸開きで天岩戸(あまのいわと)の中に閉じこもった
アマテラスを外の世界に引きずり出した力持ちの神です。
拝殿横には祀った神像があり、参拝に訪れた力士の写真が貼ってありました。
参拝を終え、鳥居をくぐって一礼した後、神社前の池の畔で
法螺貝を辺り一帯に向けて吹き鳴らしました。
続きは次回以降アップしていきたいと
思いますので
少しでも、何か参考になったとか
興味があるとか気が落ち着いたと
思って下さると幸いです。
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