水天宮へ年末のお礼参り | 希望と光のブログ

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~疎外感や孤独を感じている人たちへ~

 

パソコン教室を営んでいる

和田基博と申します。

 

 

 

 

 

 

久留米市の北野天満宮を出た後、筑後川を渡り

 

水天宮へやってきました。

 

 

 

祭神は天之御中主で、全国水天宮の総本宮です。

 

 

 

駐車場に車を止めると赤ちゃんを抱いた家族連れが

 

3組ほど来られているのが目にとまり

 

この小さな命を思って参拝に来られていると思うと

 

暖かい気持ちになったのです。

 

 

 

一の鳥居まで歩いて戻り鳥居之祓いを奏上して

 

参道へと入っていきました。

 

 

 

数人お参りに来られている人たちが境内を撮影したりしていましたが、

 

楼門をくぐると、拝殿の脇には、小さな子を連れた若い女性がいましたが

 

参拝者は誰もいなかったので拝殿への石段を上ると、

 

体にビリビリした感覚と髪の毛が引っ張られ

 

クラウンチャクラが開いている感覚を覚えたのです。

 

 

 

 

拝殿前に立つと、正面の扉がクローズアップされ、

 

周りの景色は意識できなくなるほどに引き込まれる感じ

 

その奥に何かを感じ、これを言葉で説明しようとしても

 

思考と感情に現れるものなので、どう表現していいのか難しいのですが、

 

気持ちが高揚し明るい気持ちになったのでした。

 

 

 

 

スピリチュアルなことで神仏や龍神を見たという記事を見て、

 

具現化されたもの、それはその人の観念の世界、

 

その人が経験して見てきたものなどからイメージを

 

作り出しているとも思うのです。

 

 

 

私の感覚からすると、ただ何かのエネルギーを感じているのは

 

間違いではない、と感じるのです。

 

 

 

 

そもそも神の働きというのは、分りやすいところでは、

 

いつも目にし体に感じている、いうなれば自然の働き、

 

風が吹く、太陽が当たるといった当たり前と思えるものを

 

いうのではないかと感じるのです。

 

 

 

 

 

本当に当たり前かと云うと、科学的に、大気の組成、

 

重力や温度差で風が吹く、空気の粒子が動くと言うことで

 

理解すれば説明できますが、科学的に説明のつかないことは

 

いくらでもあると私は考えます。

 

 

 

 

神社で突然強い風が吹いて神風と感じた、幽霊を見た、

 

見えはしないけれど感じる、龍神を見た、感じたというのは、

 

嘘と判断するのも、そういった科学的実証主義、目に見える

 

物質主義の人たちと同じではないように思うのです。

 

 

 

 

ただ何かを感じた時、ああ、あると有無を言わさず感じられるのです。

 

 

 

 

祝詞の一つ龍神祝詞にも「自在自由に己が姿を変じ給いて」と

 

あるように変化するのが神だと言霊にもあります。

 

 

 

 

感じるものにとって必要だから神は変化するのです。

 

 

 

 

お礼参りとお祀りしたお札を納めにきたことの感謝を述べ、

 

天津祝詞、神社拝詞を奏上しました。

 

 

 

祝詞を奏上し終わると、また扉が元通りになる感覚、

 

目に見える現実世界を意識すると言いますか、

 

それが、神が働いているという言い方になるのです。

 

 

 

 

パラダイム、観念として感じるもので、

 

あまり思考で理解しようとしても

 

意味がないとも感じています。

 

 

 

 

 

神社や仏閣で参拝するとき、緊張しすぎて声が出なかったり、

 

恐怖を感じるというのは、その神仏の姿や拝殿や

 

目に見えるものが恐ろしいと恐怖を感じるのではなく、

 

自分の内にある神を閉じ込めてしまっているからだと

 

感じるようになっていきました。

 

 

 

 

 

神は元々畏れ多く敬うもの、

 

ウソをついたり悪いことをすると罰が当たるぞ!

 

と小さいころから教わってきましたが、

 

神は恐れや不安を嫌い、

 

本質は明るく楽しいものであるということに

 

気づかされたのです。

 

 

 

 

マントラ、真言や祝詞を唱えるとき、

 

意識しようと意識せずとも、

 

不安や恐怖を感じるのは、罰が当たるのではないか、

 

何か痛いことが起きるのではないかという

 

道徳心、倫理観での恐れ、何かの罪悪感

 

また逆に思い上がりや冒涜、嘲り、馬鹿にするといった

 

思い上がりの気持ちがある時、詰まるところ

 

尊敬、敬い、感謝を忘れている時なのではないかと

 

私は思うのです。

 

 

 

 

 

好き嫌いという嗜好はもちろん自分にも相手にもありますが

 

相手から気に入られて好かれれば、神でも人でも相手を立てる、

 

敬う気持ちがあれば、どんな神や人だって縁が繋がり、

 

深くも浅くもそれなりに付き合えるのです。

 

 

 

 

だから毎日どこかの神社や仏閣に出かけて参拝しても

 

飽きることもなければ、呼ばれれば

 

また行ってみたいという

 

明るい気持ちになれるのです。

 

 

 

 

心なしか祝詞を奏上する声も大きめになり、

 

脇にいた子連れの女性が聞いていたと分かり

 

子供さんに声を掛けようかと思いましたが、

 

下を向かれたままでしたので

 

笑顔で会釈をして社務所へ向かいました。

 

 

 

 

古札を渡して新しい札を授かり

 

4月にお札を授かって何度か行きたいなと感じてはいましたが、

 

それよりも他の神社へ呼ばれたと感じることが多く

 

今回の年末のお礼参りとなったのでした。

 

 

 

本殿を眺めていると本殿の裏辺りに何かを感じたので、

 

裏へ右回りに回ってみました。

 

龍神の手水舎と境内神社を通り過ぎ、水神社の前に来ると、

 

あ、ここだとすぐに呼ばれたのを感じたのです。

 

 

 

よく参拝している神社の

 

碓井の水神社、大将陣社、

 

川津と西川津、庄司の水祖神社の神と同じ

 

龍神の女神さまです。

 

 

 

 

略拝詞を唱え、水波能女神に龍神祝詞を元気よく

 

明るく奏上しました。

 

 

 

 

神社の横を流れる筑後川を見てそれから空を見上げ、

 

宇宙の中心に意識を向け、天之御中主に感謝をしたのです。

 

 

 

天之御中主の祝詞、大元造化三神報恩の祝詞もあるのですが、

 

長すぎて時間がかかり他の参拝者の邪魔になるといけないので、

 

もっぱら自然の中や村社の境内で誰もいないときに

 

唱えるようにしています。

 

 

 

 

自分が此処にいる意味、生きている意味を説いた祝詞でもあり、

 

本津、御恩に報い、なのです。

 

 

 

 

神恩感謝。

 

 

 

 

 

 

 

 

続きは次回以降アップしていきたいと

思いますので

少しでも、何か参考になったとか

興味があるとか気が落ち着いたと

思って下さると幸いです。

 

 


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