やりたいと思った時がやり時 | 希望と光のブログ

希望と光のブログ

思いついたことを書いていきます。

 

~疎外感や孤独を感じている人たちへ~

パソコン教室を営んでいる

和田基博と申します。
 

 

私が高校生の時に思っていたことは、都会へのあこがれから

大学時代は福岡市、卒業してからも実家は商売をやっていたものの、

私には3つ下の弟がいるのですが、ずっと両親が働いてきた

背中を見てきたせいか兄弟二人とも継ぐのは嫌だと

実家には戻らずに、私は東京の大型書店に就職したのでした。



当時の就職先の書店の店舗数は新宿や銀座や各都市に展開を

広げていて、もともと北九州の小倉の店が始まりだったことから、

福岡市内にも何店舗かあったので、そこを希望したのですが、

首都圏しか募集していないとの事で、就職前に上京して

自前で埼玉県の某所に安アパートを借り、全く知らない東京へと

1人新幹線に乗り、希望と不安が入り混じった状態で

通り行く景色を眺めていたことを憶えています。



田舎者らしく大学時代に福岡の天神を見てきた私でも、

高層ビルの高さや人の多さに驚いて、浅草で昼食に入った

蕎麦屋の主人から、天ぷらそばを頼んだ後、

「何処から来たね?」と言われて、雰囲気で「お上りさん」だと

わかるんだと思ったのでした。



それでも働き始めて生活をしていくうちに慣れ始め、

恋人もできて結婚話もするようになったのですが、


B型劇症肝炎で倒れてそれから入退院を繰り返し、

父が病気になったことも相まって、結婚も職場も諦めて

帰郷したのでした。



父の病状がだんだん悪くなるのと比例して

私はどんどん元気になり、父の家業を継ぐことになりましたが、

父は49歳で永眠し、残された母と私は父がやっていた商売を

やっていくことになったのでした。




24歳でB型肝炎を発症して以来、28歳の時には、

もう病院には来なくても良いと当時の担当の医師から

告げられた時には喜んだものの、それからの生活は

暴飲暴食と過度の飲酒により年齢を重ねた時に

また再発を繰り返すようになったのでした。



若い頃の私は、一度大病をしてもそれが治ると

健康には気を遣わなくなり、30歳を過ぎた頃

得意先の方から誘われてジムにも何年か通ったことがありましたが、

運動をした後に酒飲み友達と、ビールやお酒、料理を

美味しく味わうためにやっていたようなことだったと思います。




30代後半でかかりつけ医から飲酒を止められ

アルコールを断ってからでしょうか、親からもらった体を

大切にと思い始め、それでもそのことに気がつけたのは、

父から継いだ会社を畳み、就職や持病の肝炎の事もあって

悩んでいた頃、母親や親類の叔母や叔父たちの

私に対する気持ちや愛情が感じられて

分かった時だったと思います。



それからの私は母を大切にすることが

自分を大切にすることだと思うようになりました。



母は中学卒業で兄弟も多かったせいで進学を諦め

家族のために働き、そして父と結婚し私たち兄弟が生まれ

育てたのですが、父が亡くなり

私が引き継いだ家業も従業員を抱えるまでになり、

母は60歳を過ぎて定時制高校に通い始めたのでした。



孫と同じくらいの年の同級生との高校生活も楽しかったようで、

戦争を体験したものとして他の区域の小学校や中学校で

話してほしいと先生たちから講演を頼まれ、

終戦時9歳だったころの体験を、方言丸出しで、

生徒たちの前で話したこともありました。



その時付き添って体育館の生徒たちの後ろで聞いていた弟の嫁が、

生徒たちが騒ぐことも無く、真剣な眼差しで静かに母の話を

聞いていて訴えるものがあったと話していました。



「勉強する、せん(する・しない)は、自分の勝手。

やけど(だけど)やったら、やったしこ(やったぶん)

自分の財産になる」と語ったそうですが、

勉強といったものは、本人がやりたいときに

自発的に思わなければ、身につかないのは

私が経験してきたものと重なるようですが、

財産という言葉を物質的なものと捉えない考え方が、

中卒という勉強が出来て頭が良い、悪いといったことから、

高校に行きたかったという思い、社会に出てからの、

世間一般のコンプレックスと思わされてきたことが、

母の経験としてあるのかなと息子の私から見ても思います。



私も今はこうしてパソコン教室をやっていますが、

中学生から高校の1年生くらいまでは、ほとんど学校の授業に

興味がなく成績表は並以下の通知表でした。



中学高校と柔道をやっていたおかげか、成績もある程度の

試験点数が取れていれば先生たちは私に何も言いませんでしたが、

大学に行きたいと自発的に思ってからでしょうか、

面白いように取り組んでいった思い出があります。



まあ数学の方程式が解けて、自分で作れればそれに越したことは

無いですが、社会に出て役に立つかと言えば、

一般的には使わない事の方が多くて、生きていく上で大切な

小学生で習った最も必要な事ができれば良く、金銭のやり取りや

四則演算程度で生活するには十分生きていけるのです。



ここから先はパソコンの専門用語がたくさんできますが、

意味を調べたくない人は、そんなのがあるんだな、程度に

思っていただければ幸いです。



80年代当時パソコンなどという言葉はなくて、電子計算機

つまりコンピュータがあること自体、一般には普及しておらず、

テレビなどでみるスーパーコンピュータが部屋にあるイメージを

してもらえれば分かると思いますが、幸い大学でコンピュータが

あったことでコンピュータの講義があり、言語を習ったこと、

C言語系統やPython、JavaScript、Rubyなどの、ある程度

基礎が無いと覚えるのに難易度が高いと思える言語でなくても

VBAでもある程度わかるようになると、今考えれば

かじった程度だとわかるのですが、そのことが

今の私の基礎となっているのです。




私が何かに熱中するとき、人に頼ることはせず

自分で出来ると確信せずとも

自分でもがいてやろうとするのです。



テキストやハード、ハードウェア、

コンピュータの物質的な機械の事ですが、お金を出して手に入れ、

あれこれと自分で納得いくまで、やってみることから

始めたのです。



当時のコンピュータは高額で、モニタと本体、キーボードだけでも

店頭現品限りの激安で80万円で買ったものでした。



おかげで嫌でもN88basicやM-DOS、

(意味を知りたい方はググってくださいm(_ _)m)

を触らないとコンピュータは作動せず、メモリを換装して

バージョンアップさせるのに随分とマニュアルを見ながら

いじくり倒したものでした。




90年代になりオフィスコンピュータから個人向けのコンピュータ、

パソコンが出回り始め、Windows95の発売をきっかけに

パソコンが普及していった事は、ある程度の年齢の方であれば

ご存じだと思いますが、私にとって何代目かのコンピュータは

大人になっていても熱中できる最高の玩具だったのです。



おかげでワードやエクセル、パワポやアクセスといった

マイクロソフトのアプリだけではなく、音声編集、画像処理や

動画編集などまでパソコン教室にやってくる人に対応できる

くらいには独学で出来るようになっていました。



自作や組み立ても随分とやりましたし、ジャンク品を買いあさり、

パーツを集め組立てて動作させるまで行くようになるとOSも

ウインドウズだけではなくMac、リナックスやレッドハット、

より簡単に進化したクノーピクスといったUnix系統のOSまでやるので

面白いように時間を費やしたこともありました。




B型肝炎が原因で働いていた先を退職した後、ハローワークで

学習塾の面接に行った事がきっかけでパソコン教室をやることに

なったのですが、その学習塾のオーナーはパソコン教室もやっていて

機械に詳しいようなのですぐにでも来てくれと

インストラクターとして働き始めたのでした。



教室長を任され他の教室の教室長たちからも不具合や

ネットの接続不良や新規教室の立ち上げ時など

パソコン搬入後にネットワークを設定したり、ブログや

ホームページを作ったりと、随分、受講生のお世話はもちろん、

給料以上の事を時間を割いてやってきたと思いましたが、

仕事は与えられれば、例えば大学生が作ったマクロを

こちらが望むように書き換えてくれとか、オーナーが出来ないことを

私にやらせ残業代は無視してもやり遂げていくといったことが

多々にしてあり、オーナー側からすれば、私だからと

甘えられていたのを自覚はしていましたが、

便利屋になってはいけないと思い、辞めて独立することを

オーナーに申し出ました。



辞められたら困ると随分引き止められましたが、

こちらも生活がありボーナスもなし、月給も昇給しないところに

不満を憶えていることは、オーナーには言いませんでしたが、

後任を雇ったところで引継ぎを終え

自分で開業したのでした。



あとからそのオーナーから生徒を引き抜いただの、テキストの

在庫冊数が足らないので私が持ち出していると決めつけ、

そのテキスト代を払え、払わないと法的手段を取ると

脅してきたのです。



その時見せてもらったエクセルの在庫管理表は、ある期間から

ごっそり削除されていたのでした。



あきれ果て、そこに居たインストラクターと

口裏を合わせている者に、これは何を言っても無駄だろうと思い、

お金よりも大事なものがあると決め込んだ私は、

言われるがままに払いました。



「払えばもう何も言わない」とオーナーと約束を交わし、

これは私の思い込みかもしれませんが、こんなことをしているから

ろくな従業員が来ないのだとも思いましたが、

今まで働かせてもらい学びも多かった恩を考え

さっさと払いきれない額ではないので

10数万円の高いテキスト代を払って縁を切ったのでした。



自分の思い通りにならない時に

人は妬み、恨み、画策してでもその代償、この時はお金でしたが、

払わせようとする人間がいることに嫌気がさし、

教育者たるもの、何を教うる哉、と思い、その後

何も言わせることも付き合う事もしない事を

心に決めたのでした。



一般的に考えてると、この場合はお金を払うべきではないし、

法的手段を取られたら徹底的に抗戦すべきで、

自分がテキストを盗んでいないと訴えるのも一つの手段ですが、

相手からするとお金をまきあげることで相手の気持ちが

納得するならと、ただし相手を軽蔑はしますが、

まあ納得するかどうかは相手の考えることなので判りませんが、

開業するのに、二度と口出ししないという約束代だと、

私はそう考えたのです。



あれから10数年経ちますが、誰に何も言われることも無く、

私は自分の思った通りにパソコン教室を開いているのです。





 

続きは次回以降アップしていきたいと
思いますので
少しでも、何か参考になったとか

興味があるとか気が落ち着いたと
思って下さると幸いです。

 

blogmura_pvcount

 

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ヒーラーへ
にほんブログ村