正月二日の日の年始参り その2 | 希望と光のブログ

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思いついたことを書いていきます。

 

~疎外感や孤独を感じている人たちへ~

パソコン教室を営んでいる

和田基博と申します。
 

 

鶴頭山千手観音堂を参拝した後、飯塚市舎利蔵(しゃりくら)の村社、

六所宮を訪れました。



舎利蔵の地名の由来は仏舎利、お釈迦様の遺骨に謂れがあるようで

福津市にも同じ地名があり舎利山勝宝寺で知られていますが、

明星寺、建花寺、蓮台寺、大日寺という仏教に関する地名が

多いことからも歴史的に天台寺院が栄えた時代のつながりが

あるのかもしれません。



このお宮は鳥居が左右にあって、左は六所宮、右は須佐宮と

書いてあり、境内神社で素戔嗚尊(スサノオノミコト)が

祀ってあります。




着くと誰もいませんでしたが、注連縄や飾りが新しくなっていて

地元の方が新年を迎えてお参りされたのがわかります。



法螺貝を持って鳥居の前で一礼し本殿で、昨年のお参りと

新年の参拝を述べてから祝詞を上げ、

清々しい気持ちでホラ貝を吹いて、

お参りできたことに感謝しました。



しばらく境内内で凄く癒される気持ちを感じて、

誰にも左右される事の無い自分だけの時間と空間を満喫し、

それから神楽殿の後ろにある須佐宮の祠に行き、

賽銭箱が無いので段を上がって置こうとすると

そこにも賽銭がいくらか置いてあり、

その横に一掴みの賽銭を上げました。



祝詞を上げ、神社を出ると、民家は下の方に見え高台になっていて、

しばらく眺めていると雲間から太陽が眩しく差し込んできて、

神に感謝をし、法螺貝を吹いたのでした。



時に普段の生活においての感謝は幸福感を増す魔法であり、

それは恩義とは異なり、その義務を負う事もなく、

自分からスピリチュアルな事を何かの制限や自分の考えではなく

魂からその関係性を求めていくものだと思うのです。




さあ3か所参ったし帰ろうかと本道まで降りて来ると、

なぜか自分の意志とは違い、思わず

自宅とは反対方向の大分八幡宮へと向かったのでした。



道を左折して石畳の参道へ入ると渋滞していて、

大分八幡の駐車場は境内とお宮の先の方にもあり、

結構な台数が止められるのですが、お正月なので

参拝者も多いのです。



少しずつしか進まないのは仕方がないからと

境内駐車場まで来た時に、出てくる車と入る車が見合って

進んでいない事が分かりました。


駐車場の入り口にも鳥居があり、その右横が進路になっているので

道幅が狭く、離合するのに難しいのですが、

知っている人でしょうか鳥居を車で通り抜け、

駐車場へと進めているのが分かりました。



しばらく待ってようやく駐車場へ車を止め、参拝者で賑わっている中、

二の鳥居から山門と一礼をしてくぐり、本殿前に並びました。



自分の番が来て賽銭を上げ住所氏名年齢、新年の詣でに来たことに

感謝の意を述べ、祝詞を上げました。


神棚にお祀りしようと、いつもは閉まっていた札所に行き、

「こちらのお札を下さい」とお札を授かりました。



巫女さんはどこかで見たことある顔だなと思っていると、

昔お会いしたことがある宮司の歌手の娘さんの顔を

思い出しましたので、混雑しているので尋ねはしなかったものの、

その巫女さんの若さから察するにその娘さんの

子供さんではないかなと思いました。



山門を出て、年末に来た時に見た露店の焼きもちを思い出し、

その露天に行くと若い女性三人で売っていて、

そのうちの一人と目が合いましたが、私が微笑んでも

じっと私の目を見ていましたので

何かを感じられたのかはわかりませんが、「お餅下さい」と

声をかけ、母方の実家にお土産と、

食べるために1つ買ったのでした。



時に私が知らない出会った人が男女に限らず、

じっと私を見ているという事がずっと以前からあって、

そこから感じることは、悪意は感じない場合、言葉が

要らないようなというと可笑しな感じですが、そんな何かの

縁を感じていたりするのです。


これは魂の領域なので意識して考えてみても

理屈ではわからないのです。



支払をして「有難う」とこちらから礼を言い、お餅を貰って

車に乗り込み、食べてみました。



太宰府天満宮の梅が枝餅と同じような感じで美味しかったのですが、

梅が枝餅は太宰府に行けば、参道でなくてもお店もあり

何時でも買えるのに対し、この焼き餅がまた露店で出すかどうかは

判らないので、こういった時にしか食べられないのです。


物欲的に言えばそんなに食べたいかという事ではなくて、

行った先のその場所で雰囲気を味わいながら食べるという事が

大事だと考えているのです。


誰でもそうですが、今は今しかなくて、誰でもどんな人だって

幸せになること、幸せでいることが人としての望みなのです。



そして自分にかかわった人や物事が良い方向へと

思えるようになることが幸せなのではないかと思います。



しかし都合の良いことが良いこととは限らない事は

誰でも経験を重ねると判ると思いますが、自分が生きる上で

向上していく努力をしている時を持つことが

良いのではないかと私は考えます。



スピリチュアル的な見方をしても、努力している人は、

見える、見えない存在の誰かが、または神や宇宙は

良くも悪くも見てくれているのです。



まあ、そんなに重く考えなくとも、生きること、

生きていくこと自体が、例えば、怠け癖がついている人で、

朝起きる、歯を磨く、顔を洗う、風邪を引いている時、

何かのケガや病気をしている時、身内や近しい人が亡くなるなどで

辛く悲しくあっても、誕生日にプレゼントをもらった、

恋人が出来た、子供が生まれた、孫が出来た、家族が増えた

など楽しい嬉しい出来事であっても、

嬉しい、楽しい、辛い、辛くないは別にして、

何かの努力していかないと生きてはいけないのです。


     

生きていること自体が学びだと考えると、

生きるのに楽になるのかなと考えたりもします。



 

続きは次回以降アップしていきたいと
思いますので
少しでも、何か参考になったとか

興味があるとか気が落ち着いたと
思って下さると幸いです。

 

 

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