皆様こんにちは。沙貴 誉(さき ほまれ)です。
前回のブログを投稿した直後に、「もしかして内容が飛躍しすぎていて意味不明だったかも?」と少し心配でした。分かりにくい内容だったらすみませんでした。
というか、今回もそんな感じになる可能性があるような。
分かりにくかったら、本当にすみません。
それでは、本題です。
少し、前回の内容と重なります。
意見に違いがある事自体は何も悪い事ではない。
違う意見は許さない、という世界の方が怖い。
と私が思う事は前回にも書きましたが、もちろんそうではない異なる意見を持つ人々も存在します。
ややこしくてすみません。
つまり、全く逆の考え方ですね。
それに気付くに至った経緯には幾つかの背景があるのですが、そのうちのひとつに、私は幼い頃から結構、
「自分は正しい。自分は善。自分と違う意見は間違いで悪、だから受け付けない。自分に対して異論・反論のある者は許さない、徹底的に排除する」
という信条を持つ人々を、実際に見て来た事があるから。という事情があります。
こういった人々は、前回のブログで述べた①②③を兼ね備えている場合が、圧倒的に多いかなと個人的には感じます。
酷く高圧的で横暴で暴力的で、人を見下す人々も存在します。
私には疑問がありました。
何故こういった人々は、自分とは意見の異なる人や気に入らない人、立場の弱い人を、見下して全否定したり、執拗に責めたり、悪人に仕立て上げたり、精神的にも肉体的にも暴力を振るうのか。
私なりに分析すると、こういった人々は劣等感がとても強くて、他人を踏みつける事で劣等感に蓋をして、自分は優れていて絶対的に正しいと勘違いをして、優越感に浸っているのだろうな、と。
そして前回にも似たような事を書きましたが、究極的にはそういった人々は自分の心を守るために、相手を責めて攻撃する事によって、安心感を得ていたのだろうな、と思うようになりました。
こういった「自分は正しい~排除する」とは、どういう人物像なのかと言うと、分かり易く説明すれば、独裁者タイプなのだと思います。つまり、厳しい言い方かもしれませんが、ヒ●ラーのようなものです。
自分が正義で、自分の気に入らないものは悪。
というような考え方をする、独裁的なタイプの人物像です。
自分の気に入らないものは傷付けても踏みにじってもOK、と考えるような人たちです。
だって、自分は正しくて、正義のヒーローで善人で、神サマのように完璧な人間なのですから。
自分だけは何をしても許されると思っているのです。
ただそうは言っても、実在する独裁者、例えばヒ●ラー個人を批判するのは、簡単なんですよ。
悪人と確定している人ですから。
悪人と確定している人を悪として裁くのは、決して難しくはない。
人類が同じ過ちを繰り返さないためにも、ダメなものはダメと、現世でも社会的な裁きは必要となってきます。
ただ私が思うに、ヒ●ラーを語る時には批判するだけではなく、
「でも自分の心の中にこそ、小さな独裁者はいないか?」
と、内省する事も大切なのではないか?。
とも思うのです。
何でも自分の思い通りにならないと気が済まない
自分は絶対に正しい
自分は善人で皆が尊敬し讃える人間だ
自分は誰よりも人気者で一番目立ちたい
気に入らないものは全て排除したい
気に入ったものは何としてでも手に入れたい
嫌いな奴は全員消えてしまえ
悪い奴には何をしたっていい
自分さえ良ければ他人なんかどうだっていい
…。
そのような、身勝手で排他的で冷酷な心が自分の内面にないかを問う事も大切なのではないか、とも思ったりします。
現世では誰もが修行中の身なので、誰の心の中にも小さな独裁者は住んでいると思います。
私にだって決して他人事ではありません。
だからといって、その心の中の小さな独裁者を「お前邪魔、要らねぇ」と排除してしまったら、本当に心が独裁的になってしまうので、自分の心に愛という栄養を与えながら、小さな独裁者という闇を愛のある光に変えていけたらいいなと、理想論かもしれませんが私はそう思っています。
小さな独裁者にならないためのひとつとして、私は異なる意見も冷静に受け止められるようになれたらいいな、と思っています。
豆腐メンタルの私には、ハードルが高くて時間も掛かるかもしれませんが。
今回のブログの内容も、前回のように話が飛躍しすぎていて意味不明で分かりにくかったらすみません。
誉のブログを読んで下さる皆様には、本当に感謝しかありません。
ありがとうございます。
最後までお読みいただきありがとうございました。
愛と平和と喜びが皆様と共にありますように