【短歌と僕と】栗原寛 | ☆bar星男☆

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水曜日担当のくりはらです!

「朔日」(さくじつ)という短歌結社に所属して、短歌を作っています。

高校の国語の先生(担任だったり、授業を受けたりしたことはなかったのだけど、何故かよくお話していた方)のご主人がこの会の代表で、大学入学と同時に、ほぼ“自動登録”のような形で入ることになったのが、1997年の4月(あ、歳がバレますね。笑)。

だから、短歌との最初の出会いはむしろ「受け身」でした。

でも、短歌の定型というものは、よくわからない自分自身の中にようやく見えてきた輪郭なのかもしれない!と思ったとき、偶然が必然に変わって、現在に至ります。

おなじみ、「5・7・5・7・7」ですが、これは、31文字、というよりは、31音律、といったほうがいいという人もいて、僕もそう思っています。

素敵な短歌は、内容や表現も然ることながら、声に出してみたときの心地よさ!これもあったら最高です。
リズムの良さ、言葉の響きの美しさ(母音・子音)などなど、さまざまな要素がありますが…。

俳句のように季語こそ要らないものの、あくまで「散文」ではなく「韻文」の文学なので、「たまたま57577に乗っただけの散文」とは、やはり違うものでありたい、と願っています(言うはやすし、行うは難し、長い道のりです…)。

18歳から26歳ころまでの歌を(とりあえず)まとめた第一歌集『月と自転車』には、こんな歌が入っています。

 抱きしめることも抱きしめられることも知りゐるはだへ 少年は立つ

 炎天の校庭 体操着のきみと僕と引きたる真つ白な線

 指の隙に魚を棲まはせ男でも女でもなく生きてゆきたし

 死にたしと思ふ心と生きたしと思ふ身体と空を見てゐる


ここにあげたものの他にも、今ではもうこんな風には作らないよなー、と苦笑せざるをえないような歌が数多く残ってしまっていますが、そのころの自分をこういった形で残せたのは、まぁ、よかったのかな…と今では思っています。

そうそう、短歌は「一人称の文学」と言われて、書かれていることはすなわちその作者のこと、という考え方もあるのですが、必ずしも、歌に現れる人物が作者自身であるとは限らない、という流れもありますよ。「私性」の問題は現代短歌の議論のポイントのひとつです。

それに、すべてが事実、とも限らない。
俵万智さんの言葉を借りれば、

 確かに「ほんとう」と言えるのは、私の心が感じたという部分に限られる。その「ほんとう」を伝えるための「うそ」は、とことんつく。
(『チョコレート革命』あとがきから)

というわけです。僕が歌を作るときも、そうですね。


短歌は「心のアルバム」、そして、「マラソン」であるとは、僕の師のそのまた師・木俣修が言っていた言葉。

ゆっくりでもその歩みを止めないでいけたら、と思います。

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