ぽんマスの読書録

ぽんマスの読書録

対話のための材料として気になったところを書きとめておきます。

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 こう考えると、ピュシスとしての生命を考えるときには動的平衡の見方でしか本来のあり方をとらえることはできないのですが、実は「動的平衡」は儲からない考え方なんです(笑)

 機械論的に生命を見ると、抗ヒスタミン剤を投与すればその場は効くので、製薬会社はそれで儲けることができます。一方、動的平衡論では、「その治療法は最終的には無力で逆説的に生命にリベンジされてしまうから、花粉症とは騙し騙し付き合っていくしかない」と説くわけです。これは明らかに儲からない考え方ですよね。「動的平衡」や「ピュシスの立場」は資本主義になじまない考え方なんです。

 〈モノ〉として見えないと資本主義社会の中では価値を生みだすことができないのです。「逆限定」が大事だと訴えたところで、「逆限定」という〈コト〉それ自体は商品化できませんから。

 悲しいことに、資本主義社会では、どうしても生命というものを〈モノ〉の延長として考えざるをえないという側面があることも否めません。多くの科学者も、生命や自然を〈モノ〉として研究し続けているわけですから、資本主義社会では「動的平衡」論は常にマイノリティにならざるを得ないんです。

 けれども、動的平衡論のほうが本来の生命のあり方を説明するものであるわけですし、機械論には間違いだけでなく、生命を脅かす危険も実は含まれている。それを私はどうにかしていきたいと 思っているわけです。

 

 

過去は変えられないと思っていた。

もちろん、過去に起こった出来事を変えることなんて不可能だ。でも、その解釈なら変えられる。過去の解釈を変えたとき、自分の中では過去を変えたのと同じことが起きるのではないだろうか。

少なくとも、自分はそうだった。

今まで絡み付いていた鎖は、自分を守るための鎧だった。

両腕を縛っていたものは、 自分が操るための武器だった。

そう思えた瞬間、過去が変わり、世界が変わった。

シャトルを垂直に打ち上げる。 アヒルの羽根で作られたシャトルが空を切り、最高点に達したところでゆるりと宙を舞う。

自由だ。

落下してきたシャトルを打ち上げる。水鳥の羽根は天高く飛び、今は空に浮かんでいる。

 

 

哲学のゲームは、考えの対立が出てきたらその対立をどうやって解くかを、問題にする。また、さまざまな問題をどこからどうやって考えればより深く・一般性のある答えになるか、を問題にする。そうやって、言葉の力を鍛え上げて、開かれた考えをつくり上げていこうとするわけです。イメージ上で開かれた気持ちになっても、それは哲学的な努力に取ってかわることはできない。

 

 

たとえばいわゆる「形而上学」的問いと言われる問いがあります。世界はどうしてできたのか、人間はなぜ生きて苦しむのか、死ぬとどうなるのか、理想的な社会は何か、といった問いですが、これについては、そういった広範な共通了解を取り出すことは原理的にできません。われわれはそれに対して答えがわからないのではなくて、それは、世界観、価値観を核とすることがらなので、そもそも客観的、決定的な答えをもたないのです。むしろ、これは「自由」の領域であって、人間は自分と世界についての関係の了解を多様な仕方でもつことができる。つまりそれは関係了解についての問いであって、決定的な絶対の「真理」と言える答えはないわけです。むしろ、なぜ人間はそういう問いを問うのか、と問うたとき、その問いの本質がはっきりしてくるような問いなんですね。

 

理性は確かに万能ではない。それはあたりまえですね。しかし、実証的な理性で簡単に答えられないような問題――それは広くは「生」の問題と言えると思いますが――にぶつかったときに、それを解くためにどういう思考の形が必要なのか。思考を放棄すれば無力感に陥るだけですね。信念 対立や民族対立をどう超えるか、一人ひとりがどのようにして自分の生き方の方向を定めるか、社会のこれからの方向をどう定めるか、そういった問いですね。これらについて、思いつきではなく 普遍洞察的に考えていく方法が、いま必要とされている。