『生命の実相』第十巻 霊界篇下 第1章 5-6 | 山人のブログ

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食事、瞑想、生きる喜び。

また別の日の霊界通信、彼の手の自動書記は次のように綴った。

「わたしの親しき子よ――

「お前はまた、例の気狂い的現象がはじまるだろうかと思って、溜息をついてお前の机に向かっている。わたしはもうここに来ている。お前は書かねばならないのだ。ほらお前は首をふった。がお前はこの手が何を書き出すだろうかと興味をもって待っている。

「実にただごとならぬ日のつづきだった。夢に夢見る心地なのも無理もない。しかし、お前は予想以上に無関心でわりあいのんきにしている。それも不思議ではない。なぜなら、わたしがお前を守っているからだ。お前はわたしの欲するようになる。お前が街へ出かけるときに、わたしはお前に随いてゆく。わたしはお前に暗示を与える。わたしはお前を机の前に坐らす、そして気を静めさす。

「お前の聞いたところのことは神秘な事実だ。しかし、まだそれはお前の心を完全に捉えてしまうことはできない。お前はそんなにも無神論者なんだ。わたしがお前に神の祝福の微笑みのことを話したとき、お前の心臓はなるほどおののいたのであった。しかしそれは言葉どおりお前の心臓がいくぶんおののいたのであって、それ以上のことではなかった。お前はまだ少しも、お前の経験した偉大な驚絶すべき摩訶不思議な現象の真相を理解してはいないのである。お前がそれを理解し、たましいの深いところで了解するようになるにはまだいくらかかるであろう。しかしそれはそれとしておこう。なぜならわたしはお前に話さねばならぬことがたくさんあり、われわれは仕事にとりかからなければならないからである。……

「あまりに深く考えすぎるな。そして、わたしの邪魔をしてくれるな。わたしはお前の疑問をすべて知っている。その疑問は、適当な時期が来たときに順次にみんな答えるであろう。わたしは何ものも忘れはしない。わたしは絶対に確実な心性機関を備えている。何ものもわれわれの記憶から消滅するものはないのである。一つの疑問に回答すべき適当な時期が来たときには、わたしはその疑問をお前の意識の表面に浮かび上がらせるだけである 。

「われわれスピリットの力の偉大さよ。今お前は聴かねばならぬ。しかし、忍耐して待て。われわれはまだ長時間仕事をしなければならぬのである。

「まず第一に、わたしはお前に告げる――テーブルの傾斜現象は真実である。わたしはお前の顔を、お前の思想を読む。お前はこの現象にわれわれがたずさわることを実に恥ずかしいことだと思っている。それはお前がこの現象の真実性を信じないからである。……

「テーブルは踊る!そうだ。それはできるのだ。お前はそれを見、それを自分自身で体験した。テーブルを動かすのは人間の霊魂(スピリット)だ。いな、わが伴侶よ、今は、わたしはそれをやらない。だがしばらく我慢してくれ。テーブルを動かすのは霊魂(スピリット)であって、人体磁気でも、潜在意識でも、筋肉の働きでもない。それは、科学が賢くも研究してさぐり出したところのどんな他の力でもない。お前にテーブルを通じて話したのは死者の霊だ。それは遊戯(ゲーム)だ。不可解の遊戯(ゲーム)だ。だからそれをなすことを許されるのだ。

「やがて人間は、われわれ霊魂たちが肉体の死後生きており、幸福であることを知らされるようになるだろう。人間が数人あつまって、一つのテーブルを取り巻く、そして両手をその上に置く。するとテーブルが傾き出して、その脚がコツコツ音を立てる。これは霊魂が来て人間に話しかけるのだ。この現象の真実性をお前に信ぜしめることは、今はまだ困難なように感じる。しかしお前が、わたしがお前に話さなければならぬだけをいっさい聴いてしまったなら、テーブル傾斜現象がたいした現象ではないが、自然な現象であることを悟ると思う。

「テーブル傾斜を実験してみても、現象が起こらないことは度々ある。ある人はテーブル傾斜現象を起こす者を愚劣な馬鹿者だと考えているし、またある人はそれを実験する機会がないために、そんなことは事実起こらないものであると考えている。しかしこの現象はみんな説明しうることなのだ。やがて、何もかもお前に説明するだろう。しかし、幾千という疑問を一度に出してわしを悩ましてくれるな。わしがすべての疑問にすぐ答えようとするならば、その説明が明瞭を欠くことになるからだ。……

「人間はやがて、神が実在したまうことを知るようになるだろう。そしてわれわれ霊魂も生きており、われわれと話を交えることができるということも知るようになるだろう。

「なぜ地上の人間が幾十世紀の間も、霊魂の死後存続ということについて知らされていなかったかという問題を、多くの人々は提出するが、この疑問に、君たちが理解しうる限りできるだけ明瞭に答えよう。地上の生活の真意義は生活することであって、この生活を捨てることではない。地上の人間は生に執着し、死を厭う。死は生の抹殺であるからだ。……

「人間は人間であって、生きられる限り地上で生きねばならない。なぜなら、人間の生活は地上のそれであって、そのほかのものでありえぬのだ。生には法則があり、世界にも法則があり、それは変えることのできないものだ。というのはこの法則は神の(おきて)(たま)えるものだからだ。人間は人生に生活し、揺籃(ようらん)に始まって墓に終わるまでの間苦しみ闘う。今までかくのごとくありしごとく、これからも常にそうであるだろう。太陽は昇り、太陽は没する。日光は輝き、心臓は(ふる)える。数千年このかた、人間は生命と人間自身と、光とこの世界と、それから理解しうるあらゆる事物とを研究してきた。人間は生命の法則、地球の軌道、遊星の運動、植物や動物の生命を研究して知ったのである。無限時間を通じて、すべてこれらのことは不変であった。人間は地上の帝王となり、彼は地的なあらゆる事物を予告することもできるようになっている。いつこの病人は死ぬか、また生理的になぜ死ぬかをも知っている。人間は、地上に群がるいっさいの事物を了解することができたのである。ただ知らないのは『死』とは何か?『生』の前に何があるか?『死』の後に何があるかということだけだ。これは本来人間のかかわり知る部分ではなく神の領域である。これらのことは人間には了解を絶した事柄であるから、人間から観れば神秘に見えるのだ、わたしが内々お前にこれから話そうとするこれらの問題を、お前は真には(〇〇〇)決して理解することはできないであろう。お前はわたしの言葉を説明するために、お前の人間的な知恵を使うだろう。そして疑問が起こるだろう。なぜならお前は人間であって、地上世界の法則によって生きているからだ。お前は地上に生をうけたところの『生命』であって『地上』の法則に支配されている。お前の理解しうることはこの地上の法則にかなうことだけであって、この法則以外の法則に支配されている事柄を決して知ることはできないのだ。人間は『神』を真には理解することはできぬ。なぜなら人間は完全円満をつかみえぬからだ。もし『完全円満』に達しえたならば、人間はもう人間ではないであろう。人生は過去のごとく今もあり、永劫を通じてそうであって決して異なるものとはならないであろう。

(著者注)ここに書かれている「人間」とは肉体人間のことであって実相人間のことではない。

「しかし、神が活在したまうこと、および、人間の霊魂が永遠に生き通しであるということをお前は知ることを許されている。お前はいっさいを知ることもできるであろう。なぜならわたしはお前にいっさいのことを秘密にしないからだ。お前が神秘の存在を信ずることができるように、奇跡を信じ、奇跡を知ることができるように、わたしはあらゆる方法を講ずるであろう。しかしお前は何事をも本当には知ることは決してできないであろう。なぜなら、お前は理解することができない事物を決して知ることができないからだ。

「この世界において奇跡が起こらず、人間の感覚の世界において奇跡が起こることができないのは、この理由によるのだ。この世界においては、太陽は地球の四方からは昇らず、月は帽子を(かむ)ることはないであろう。なぜならそんなことは、この世界の法則と人生の目的とに背反するからだ。実在の世界に(〇〇〇〇〇〇)()()()()毎日幾百千の奇跡が起こっているけれども人間はそれを理解することができないのだ。今お前の手にもったペンでわたしの筆跡で手紙を書きながらそれを奇跡だと思っている。それはたしかに一つの奇跡ではある。お前はたましいの奥深いところではこの奇跡の存在を信じている。しかしお前がたといそれを信じ、それが真実であると自覚してさえも、お前にはそれは不可解のことであるのだ。お前はこれを証明することができぬし、世人はこれに反駁することができるのだ。この地上の世界においては、そして人間の生活においては、いかなる方法によるも反駁することができないというような奇跡や、人間の知的反省によって懐疑を呼び起こさないような奇跡は起こりようはないのだ。かくのごとくあって、ほかのごとくはありえないのだ。奇跡を見ることを許された人間は、同時にまたそれを疑うことをも許されているのだ。

真理と神の微笑(〇〇〇〇〇〇〇)と宇宙の数々の神秘(〇〇)を見ることを許されている人間は、同時に、疑う力を与えられているか、理解する力を奪われているかどちらかである。なぜなら、肉体の人間は地上だけの生命であり、地上の生命は肉体人的でなければならぬからである。超人間的生命は一個の神である。肉体人的なるものは超人ではありえない。なぜなら超人となったらもう肉体人ではないからである。

「お前は、これらの事柄にあらわれている無限大の知恵について、なんらかの概念を得たであろうか?それともまた、この世界はこのようであっては進歩しないと考えて失望したであろうか?世界は大いに進歩するであろう。新時代は始まるであろう。神は人類の上に微笑み給うであろう。しかし、すべてこれらはお前の想像するところとはまったくちがう過程によって来るであろう。なぜならそれは神の御心のうちにあり、お前は神のみこころを想像しえないからだ。

「言葉が走りすぎた。われわれは、哲学者になってはならないのだった。わたしはお前になぜ奇跡が起こらないかを、人間の言葉によって説明して聞かしてあげよう。奇跡は地上の生活の敵であるからだ。もし人間が朝寝床で目を覚まして、神の造った世界構図と永生と永遠のプログラムとを見うるならば、わが子よ、お前の想像力で考えよ。何事がはたして起こるであろうか。誰がそれに耐えうるであろうか?人間はそれまでにまず地上の主でなければならない。彼自身の生活を生きなければならないのだ。地上を自己に服従させなければならないのだ。しかしながらもし神が実在し、人間はただ神の意志を傀儡(かいらい)のように行なうほか、何ものでもないということを人間が知りでもしたならば、人間はその時一個の虫に化してしまうであろう。もし、人間が自分が思想も行動もどれ一つとして自分のものであるものはなく、すべては定められていて、それ以外には微塵も行動の自由がないということを知るとしたら、人生ははたしてどうなるであろうか。人類の歴史を見るに、人間が聡明とになるにしたがってその知見はますます広くなり、人生の法則をますます深く理解するようになっているではないか。人間は高くのればのるほどその人格、能力はますます進歩している。人間は偉大となればなるほど自己自身をいっそうよく知り、自己の力を自覚する。弱き人間、愚かなる人間ほど無自覚で神秘現象を信じやすいのだ。最も高き教養ある人間は、それだけかえって神秘現象に反対する。なぜなら彼は神秘を否定するために戦わねばならないし、また戦いを続けるであろう。容易に神秘の存在を許さないのが、彼の高く進化せるしるしであるからだ。もし実際「神秘現象」というものが起こるならば、それは神が彼自身の御業を自分でかき乱しているともいえるであろう。それは最も高く進化せる人間に対する神の争いともいえるであろう。だから愛子よ、安心せよ、お前が心に思っているような意味では決して奇跡は起こらない。

「人間とはなんぞや?という疑問をお前は起こしているね。嗚呼!わが友。わたしがお前の疑問のすべてに答えなければならぬとしたら、いつまでたってもそれは尽きるということはないであろう。お前は待たねばならないのだ。なぜなら、われわれは今はただ『テーブル傾斜現象』とその他の物理的現象のことをいっているのだからだ。できるだけ、今はこの問題だけに限ることにしようね。しかし、わたしは『人間とはなんぞや?』の問題にもある程度まで解明の光を投げることを避けはしない。お前の疑問に答えよう。さすれば、お前がわたしを理解してくれるかどうかがわかるであろう。

人間とは神から放射された(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)理念(イデア)である(〇〇〇)だから人間は神に属し(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)生命の世界(〇〇〇〇〇)に住するもの(〇〇〇〇〇〇)()()()()彼の信ずるがごとくには(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)地上の住者でないのである(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)。しかし彼は地上の住者だと信ずるであろう。なぜなら彼は神の定めたまいしように生を送るようになっているからである。人生は永遠に変えることはできないということはまったく正しい。なぜなら人生の法則は変化すべからざるもので、高級な人間ほど理解しえないものの存在を信じないようになっているからである。あらゆる疑問の中を最も鋭いメスをもって突き進み、あらゆる事物の奥義をさぐりあてる人間は選ばれた人であるのだ。

「神秘を知ったと信ずるところの人間、それは、必ずしも偉大なる人間ではない。なぜなら、彼必ずしも真にその神秘を本当に理解したとはいえぬからである。

知恵貧しき人々は奇跡を見て(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)神の存在を知るのである(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)。しかしながら、彼とて真に神秘を理解したのではない。神秘は、人間の知恵では把むことができぬからである。かえって知恵なき弱き人間はそのために神を容易に信ずることができるのである。

「こういったからとて、わたしは貧しきものは幸いなるかなという聖書の言葉を、ここに繰り返そうとするのだと思ってはまちがいだ……。」

マグナッセンの持ったペンは彼自身がどう思おうと頓着なく、遠慮もなく自動して、まごう方なき亡父の筆跡を示しつつその手紙のつづきを書いてゆくのであった。

「わが子よ、われわれは知恵ある者をも賞め讃えないし、愚かな者をもいやしめようとは思わないのだ。なぜなら彼らはすべてかくあるべくしてかくあるのであるからだ。知恵なき者もやがて知恵を得るであろうし、知恵ある者もかつては知恵なき者であったからだ。かくして人間はいよいよ高く向上するのだ。知恵において優れたるものは、その知恵によって神から与えられたる使命を果たし、愛においてすぐれたる者は、愛によって神から与えられたる使命をはたす。しかし最も知恵においてすぐれたる者もやがてはまた、最も深き愛を獲得するであろう。また愚かなる者もやがては最上の知恵を獲得するであろう。そしてあらゆる人類は(〇〇〇〇〇〇〇)永遠のタイムを通じて(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)等しき高さに向上する(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)

「お前の問いに引きずられて、われわれはまだ完全に知っていない問題を語りすぎた。われわれは話をもとに戻さねばならない。しかしそれまでに、自分は言うことを忘れていた一つの事を言いたして人間とはなんぞやの問題に結論を与えておこうと思う。われわれの生命それ自身は至聖なものだよ(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)生命の(〇〇〇)本源は至聖なものだよ(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)。なぜ――いずこへ――いずこより――この偉大なる不可知的本源は、至聖なもの、そして人間の霊もこれと等しく至聖な、無窮のものであるのだ。

「われわれが、人を指して偉人だの賢者だのと呼ぶのは、その人の神性を指していうのではなく、その人が地上に生きている間の彼を指さしていうのだ。すべての人々には神性が(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)宿っている(〇〇〇〇〇)。しかしこれを感ずる者はすべての人間というわけにはゆかない。大知者といえども、自己に宿っている神性を自覚しないでその地上の生涯を終わることがある。これは彼の運命だ。しかし、神がその人の上に微笑みを投げかけ給う者のみは、自己の神性を感ずることができるのだ。もし、大知者の上に神が微笑みを投げかけ給うならば、彼はどうなると思う?彼は霊が神であることを感ずる、しかし依然として彼の頭脳には神は理解されないだろう。なぜなら、肉体人間の頭脳には神は理解しがたきものであるからだ。

「が、ひとたび神が彼の上に微笑みを投げかけ給うたならば、彼はもう決して魂の歓びを失うことはできないのである。この法悦(〇〇)こそ奇跡でなくてなんであろう。なんじら愚かなる人間が奇跡だなどと考えている現象よりも、魂の法悦こそ幾層倍もの深遠な奇跡であるのだ。」

霊媒現象の説明

「が、それはそれとして、今われわれが説明せねばならぬ、テーブル傾斜減少の問題に移ろう。ではわが親しき友よ、われわれはテーブルの脚を動かして、その動かし具合で通信する。するとある人々は霊魂の存在を信じようとし、ある人々は霊魂の存在を信じまいとする。そしてわれわれは別に彼らを信ずるように引き込もうと努力したりはしないのだ。霊魂の存在を信ずる(〇〇〇〇〇〇〇〇〇)ようになっている者は(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)必然的に(〇〇〇〇)信ぜねばならぬようになっているのだ(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)。またこの現象を嘲笑する人も、それはまたかくあるべくしてかくあるので誠に自然のことであるのだ。

「お前たちは、イカサマ交霊会の、いろいろと馬鹿げた現象の記事をたびたび読んだことがあるであろう。それもそのはず、地上はあまりに多数の痴者(フール)と嘘つきとがいるからだ。で、お前たちは異常な現象だといえば常に嘘だと想像するのだ。しかしわれわれ霊魂のなすところには、必ず一定の目的がある。目的のないことをわれわれはすることがないのである。死後のわれわれの生命についてわれわれがあまりくわしく話さないのは、それを話すとかえってお前たちのためにならないほどに、それはきわめて興味ある神秘的な存在であるからだ。

「二人の人間がテーブルに対かい合って霊魂を招く。だといって彼らに霊界の秘事を語らねばならぬ何らの理由もないではないか。なんらかの理由で、そのうちの一人が霊魂の存在を信ぜねばならぬならば、われわれのうちの一人がそのテーブルに来るのだ。もしその人が信ぜねばならない運命の人ならば、われわれはどんなことをしてでも彼に信ぜしめる。……もし自分がなんらか正当なる目的があって、スキンダーゲードのテーブルの脚に、ナポレオンの霊魂と称して出現する必要があるならばナポレオンとも顕われよう。またニューカッスルのテーブルの脚に、レオニダスの霊魂として出現する必要があるならばレオニダスとも顕われよう。われわれはなんでもするし、どんなことでも工夫することができるのだ。しかし、われわれは決して悪事をすることはできない。われわれはただ善事のみを知る。われわれのすべての企て、すべての仕事はただ神の目的に順うにある。この言葉はお前には不可解とも聞こえよう。しかしわれわれは続けねばならない。なぜならお前はそんなにもよい気分でいるからだ。今お前の静まった心を掻き乱すものとては何もない。

「われわれはテーブルの脚に入り、薄明かりの中でごとごとと音を立てて、わざと不正確な文字を綴って見せたり、外国語を綴って見せたりする。すると、愛すべき人間は慄えながら、われわれに最もよく解ると思えるその外国語で尋ねかける。本当は何国語を使ってもそんなことはどうでもよいのだということを知るべきだったであろう。われわれは彼らの(おも)いを読む。彼らの生命を見る。われわれは彼らの全生命を通じて彼らの思想を読み取るのだ。われわれはあらゆる国語で思い浮かべた、言葉に顕わさない問に対しても答えることができるのだ。われわれは何もまちがった綴りの文字しか知らないのではないのだ。われわれはまた疲れてもいないし、(ものう)くなってもいないのだ。われわれは常に愉快だ。しようと思えばテーブルを粉々に粉砕することもできれば、壁を叩きわることもできる。われわれは不透明な耐火性の壁でも貫いて自由に出入りすることもできるのだ。これが真理だ。心霊現象に真理があるならば、これをおいてほかにはないのだ。

「しかし、われわれが心霊現象で芝居をやって見せるとき、われわれは、われわれの法則を守るのである。いな、われわれの法則ではない、なぜなら、前にいったことのあるように、われわれはわれわれに与えられたる拒むことのできないわれわれの本性に順うほかないからだ。われわれがなすところのすべての行為は、いちいち目的があるのだ。わしが最初ボーンホルムの一俳優の家庭でテーブル傾斜現象を起こして、死んだデンマーク詩人の霊魂として顕われたのは、そこに出席していた一人の人間の心に反響を喚び起こし、その人間があの詩人の心を動かし、やがてあの詩人がお前を訪問してテーブル傾斜現象を実験して、フランスの戦死軍人の霊と名のってテーブルの脚から通信して見せるための準備行動であったのだ。

「われわれが正確な文字を綴ったり、しかつめらしい文句を書いたりしたのも、また目的があってのことであるのだ。それは、お前たちの内心に求めていることであるから、われわれはお前たちにそうして見せたまでのことだ。われわれは常にお前たちの求めているとおりに顕われるか、お前たちが理解を受けるように顕われるかするのだ。お前は知らねばならぬ――お前が真に必要もない問いを問うとき、お前は神託めいた答えを受けるだろう。お前たちがわれわれに予言を求める時には、われわれはいかにも神秘めかしく様態ぶってでたらめを答えるだろう。しかし、われわれは決してお前たちを傷つけはしないのだ。われわれはお前たちの毒になるようなことは何もいわないのだ。われわれはお前たちのことを十分理解(のみこ)(りかい)んでやっている。しかし、テーブルの脚はいかなる場合にもわれわれが人間に教えてはならない秘密を漏らしはしないのだ。

「ともかく、われわれは続けねばならない。なぜなら、われわれは心霊現象について語るべきことがたくさんあるからだ。われわれはこの世界を惑わしている各種の心霊現象について大急ぎで説明してゆこう。そうだ、それらの心霊現象は実際この世界を惑わすために工夫せられたものなのだ。」

心霊現象の通有性

「肉体滅後の人間の存在については、疑うものは、なおこの世に絶えないであろう。なぜなら、心霊現象は起こるが、解釈のしようによっては霊魂存在の確証とはなりえないからである。われわれは『テーブル傾斜現象』において、テーブルの脚で通信を始めて霊界の音ずれを現実界の人々に送る。しかし同時にある点で、疑えば疑うようなギャップを造ってあるのである。お前が『心霊現象』を主題にした出版物を(ひもと)いて、その書物の始めから終わりまでを仔細に検査してみるならば、わたしのいうことが本当だということが分かってくるであろう。ギャップはきわめて小さいこともあるが、必ずそのどこかに隙があって、ここが詐術かもしれぬと疑えば疑えるであろうし、一種の潜在意識のいたずらだとも解釈できるであろうし、ヒステリーの狂的発作だともいうことができるであろう。

「されば、全世界をして信ぜしめるにたる、太陽のように明瞭な心霊現象というものは一つも無いのである。このことはいつまでたっても本当である。お前も心霊現象の本を少しは読んだことがあるであろう。その記録は必ず(まが)い物らしくして、本当の真理を語っている部分さえも、贋いものだと証明することができるのがほとんど常である。わたしは今までの心霊現象に、いまだかつて霊魂が出現しなかったというおうとするのではない。なぜならわたしは全知全能の者ではないからだ。わたしは全き真理を語るがためにここに来たのではないのである。全き心理は何人も理解することができぬであろうから、わたしはたんにお前の理解しうることだけを語る。それ以上を語ることは許されない。というのはお前の理解しうる以上のことは、お前にとって近づくを許されない神秘であるからである。人間の霊魂は全知全能の『神』の縮図となって空間を飛翔しているのではない。人間の霊魂は、ひっきょう『人間の霊魂』でしかないのである。それは、肉体に宿っていた時と同じような個性をもっている。それはわたしの知っている限りにおいて悪ではない。それは神を知っている。神を知っているところの霊界のわれわれは、ある点では地上の最もさかしき賢者よりも賢者である。しかし、霊界の住者も人間の肉体に憑かるときには、その作用として肉体人間性をもつにいたるのであって、その霊魂が自分自身の肉体のうちに宿っていたときと同様以上のことはできないのである。

「だから、霊魂にはいろいろある。(かく表現することを許せ。)そして、いろいろ不規則な心霊現象を起こすのだ。しかし無目的な現象は何一つとして起こらないであろう。なぜならそれは起こる可能性がないからである。お前は無邪気な霊界の住者が、何か異常現象を起こして地上の人間を驚かそうとするのだと思うかもしれぬが、しかしお前はすぐその異常現象が打ち消されるのであることを知らねばならない。なぜなら、われわれは万事を承知した上でないと心霊現象のゲームに加わらないからである。わたしとして、こういうのは心苦しいが、わたしは今思いきっていわねばならない。あまりにこのごろは価値のない降霊現象が多すぎる――霊魂の物質化現象や、最も愚昧なる心理学的説明を付したる読心術や、催眠術などが簇出(ぞくしゅつ)するが、むろん、霊魂の物質化は本当に物質化したのではない。そして、読心術や催眠術は、心理学の説明するような現象としては存在しないんだよ。

「お前は、今驚いている。――お前はこの問題に興味をもっているね。愛するわが子よ、もっと驚け、いくらでも驚かすぞ。わたしは生前にお前に霊的訓練を与えることを怠っていた。わたしは生前には霊を知らぬ愚か者であった。いまわたしはそのつぐないにお前に霊的訓練を与えようとして来たのである。」

霊媒現象の解説

「愛するわが子よ。では、霊媒とはなんであるかを説明しよう。霊媒――こうわたしが書くとき、お前の心が、妙にこぐらかった考えで一ぱいになっていることをわたしは感ずる。観察者の誤解、霊媒の詐り、ヒステリー性の発作――こんな考えでお前の心が一ぱいになっているのは無理ではない。霊媒のうちにはずいぶんニセ物がまじっている。真性の意味において『霊媒』なるものはないのである。そこには完全なる憑依というものはない。この現象の大多数は、潜在意識中の観念と、観察者の誤解と、霊媒の自己欺瞞との混合物である。われわれ『霊界の住者』自身はかくのごときものには超然としているのである。われわれは人間のすることは人間にまかせて、その現象を徹底的に支持しようとは思わないのである。われわれ霊界の住者は心霊現象において、人間の心理的遊戯の仲間入りをするのであって、そこにわれわれの特殊の場面があるのである。」

「たとえば、お前が、全然赤の他人を霊媒として、死霊の憑り台とする場合を考えてみよう。お前は、一種の荘厳な態度で、またいくぶん馬鹿馬鹿しい態度で、霊媒に臨むであろう。それを見てわれわれ霊魂たちは微笑せざるをえないのである。もしそうでなかったならば、われわれ霊魂たちは心霊現象全体について責任を負わねばならないであろう。がわれわれはこの問題についてはあまり興味を感じないし、またこの問題を嘲笑し去ることによって、多数の人間を悲しますことは本当でないから、あまりに深く立ち入って批判しないことにする。

「さて、われわれ霊界の住者(ヽヽヽヽヽ)が霊媒を扱うのは、われわれが『テーブル傾斜現象』を起こすのと同じようにしてである。何か人間たちが新しい工夫を考案するならば、われわれは『人間はなかなか味をやるな』と思って、そのゲームに加わるのである。霊媒はふつういわゆる『恍惚(トランス)状態』といわれているところの失神状態に入るとき、テーブル傾斜現象の際のテーブルの性質を発揮してくれる。しかし『()()()()()()は別に神聖な現象ではないのである(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)。この状態は人間自身が、みずからを欺くために、いなみずからの信念を強めるために、創作した一種の状態であるのである。

「おまえ自身を見よ。お前は霊媒ではない。しかし見よ、お前は明るい光の中に机の前に坐って、別になんらのトランス状態のようなヒステリー的徴候を示さずに、お前の手でわたしの言葉を書いているではないか。われわれはこの現象を、もっと後にくわしく説明しようと思う。それはきわめて興味が深い。ここにはたんに、霊界通信を送るべき真に必要を感ずるならば、どんな種類のふざけた真似も『トランス状態』も、うす暗がりも不要だということを大急ぎでいうにとどめる。すべてかくのごときものは過去の幽霊物語の遺物でしかないのである。

「お前たちは、霊媒に対して問いを発する。霊媒はテーブル傾斜現象のテーブルの脚であるかのように無意識で答える。霊媒は、われわれが彼に囁くとおりの言葉を話さねばならない。それはテーブルの叩音(タップ)と同じように、またそれは今お前がわたしの言葉を書いているのと同じようにである。すべてかかる現象が起こるのは、われわれ霊界の住者が、霊媒の意識の中に、あるいはテーブルの脚の中に、あるいはお前の後頭部の中にわれわれの思念を送るからである。が、テーブルの脚が想念を混同して混雑した合図を鳴らす。それと同じように霊媒も混雑したことをしゃべるのである。また室内の中を漂っている意識の波の中に在るところの、本来わかり切った事柄をしゃべるに過ぎないのである。なぜならわれわれは『無』から『有』を創造することはできないからである。もしわれわれが人間の心のうちに想念を喚起することができない時には、テーブルの脚によっても霊媒によっても、はたまたお前の手によってもわれわれは思想を伝えることができないのである。肉体を脱した人間の霊魂というものは、ひっきょうかくのごとき性質のものであるのだ。」

「なおくわしくこのことを説明しよう。仮に、不幸な英国婦人が自分の息子が欧州大戦で死んだので、その霊魂をある霊媒に招霊(よびだ)(しょうれい)して問答した場合を例にあげて考えてみよう。霊媒は、この母が知っているとおりの息子をあらわして答える。またこの母のみが知っていて、ほかの人がどうしても知るはずのない事実を話したとする。これは奇跡であった。だが、害のない奇跡である。なぜなら、これは科学的に説明できる精神感応現象で、奇跡でもなんでもないからである。しかし、その母にとっては実に奇跡であったのだ。彼女は泣く。しかしこの時、神は彼女の(ハート)に祝福の微笑みを投げかけ給うのだ。

「この現象の真相を語られば、ひっきょうかくのごときものである。神の子の母親に、微笑みを投げかけ給うたごとく、今後幾百万の他の母親にも祝福の微笑みを投げかけ給うであろう。方法は複雑しているが、そうであるほかはないのだ。またいつかわたしはお前の手によって、お前の知らない、決して知るはずがない事件をお前の母親へ宛てた手紙で書くであろう。その時、お前の母親はその胸に神の祝福の微笑みを感じるであろう。しかし科学はその現象を一笑に付するか、遠感現象(テレパシー)だと説明するであろう。かくのごとくあり、かくのごとくあるさだめ(ヽヽヽ)であるのだ。

「では、われわれ霊界の住者をして、霊媒現象の機構を説明せしめよ。母親は霊媒に対かって、死んだ自分の子供を招霊して尋ねる――例えば、どんな状態でいるか、どこにいるか、周囲に何が見えるかと。幾十百の母親はみんなこれと同じようなことを尋ねる。すると、霊界の住者の一人が霊媒の『思想の座』に入り込んで、そしてそれに対する答えを与える。テーブルで答えても、お前の自動書記の手で答えても同じ過程である。

「この母親は、霊界について、また神について、なんらの知識ももっていないであろう。霊媒自身も何も知らないであろう。お前たちもまたどれほども賢くはないであろう。そこでわれわれ『霊界の住者』は何をなそうとするのであろうか?われわれはただ一つの真理――神の活在ましますこと、死者の霊の生きていること、そして彼らは幸福であること、――この一つの真理のみを語ろうとするのである。しかし、母親はもっといろいろなことを聞かせて欲しいのである。彼女の心に、愛するわが子の状態を知りたいという願望があらわれる。その願望が霊媒の心に映る。霊媒の思想の波が混線する――おそらく霊媒は心の単純な無知な人であるかもしれない。お前たちの方でも霊媒に対する正しい取り扱い方がわからない。霊媒から出た答えは、いきおい混線したものとならざるをえないのである。そこで霊媒から出る答えはナンセンスとなる。このナンセンスには死者の霊魂のいいそうな言葉と、母親の思い煩いと、霊媒の無恥とがこぐらかっているのである。もし母親がお前を霊媒として尋ねたのであったならば、お前から出る答えは全然ちがったものになっていたであろう。われわれは今しばらくの間それについて話さねばならない。

「かくのごときものが、われわれの霊魂の性質なのだ。前にもいったように、わたしはお前の思想の中に入り込む。ある場合はまた、霊媒の思想の中に入り込む。しかし霊媒は全能の神ではないのであるから、われわれは『無』からは何者をも造り出すことはできないのである。もしお前が心の底ふかく、ある想念を強く喚起するならば、わたしもそのとおりの想念を思うほかはないのである。もし霊媒がある想念を思い起こすならば、その思想の中に入り込んだわれわれ霊魂もそのとおり思うほかはないのである。そこで母親に対して答えんとする霊魂の答えは、霊魂自身の想念と、霊媒自身の想念とが、混線せざるをえないのである。それが霊魂の性質なんだよ。われわれは全然自分独特の思想だけを霊媒を通じて表現することはできないんだよ。

「では、われわれ自身について、お前に書かせている、この自動書記現象について語ろうと思う。かくのごとくすることによって、わたしがお前に書かせようとした心霊現象の最後の完全な説明に達することができるであろう。

「わたしは、たとえば空を一閃するところの稲妻のように、お前に(きた)って、お前の思想の中に自分自身を置いたのである。こうしてわたしはお前の手をもって手紙を書くことができる。これは死者の霊魂が現世の人に対して話すために採りうる方法のうち、最も完全な最も美しき方法であるのである。

「お前はわたしの霊の霊である、われわれのたましいは、相互に共通の理解をもっている。わたしはお前の父であり、お前はわたしの子であるのだ。だから、お前の魂の底に喚び起こされるすべての想念は、わが想念にピッタリしている。お前の魂の内奥のリズムは、わが魂の内奥のリズムにピッタリと合うのだ。わたしは自分の魂の許に帰るかのごとくお前の許に来ることができるのである。お前はわたしがお前の霊魂であるかのごとく、わたしの声で話すことができるのである。

「しかしお前は肉体の人間であり、わたしは霊魂である。肉体の人間は、わたしを理解せず、わたしは肉体の人間を変化することはできない。だから、わたしがお前に話すときには、わたしの方から肉体の人間に近い性質を真似ねばならないのだ。お前の方を聖化することはできないんだからな。すでに霊魂の人間は聖化しているにしても、肉体の人間(ヽヽヽヽヽ)は要するに肉体の人間(ヽヽヽヽヽ)なんだからな。

「しかし、聴け。長き時を経てお前はついにわたしのもの(ヽヽヽヽヽヽ)となったのだ。なんのために?いかにして?ということはまた後の機会に譲る。今はそれを語るに適当な時期ではないのだ。しかしお前はわたしの(ヽヽヽヽ)もの(ヽヽ)だということをお前も感ずるであろう。どこへおまえが行こうとも、わたしがお前の近くにいるとき、わたしがお前に何かを語りたいとき、それをお前は感ずることができるであろう。お前がペンを取り上げるときお前の疑惑は消える。ペンが自動し出すとき、お前は自分自身が書くのでないことを自覚している。なぜならお前は、お前の手が書きつつあることについてなんらの予想ももっていないんだからな。この手紙がなんの目的で書かれるかお前はちっとも知らないんだからな。しかしお前の手はわたしの考えを書く。文字が書かれてしまってから、はじめてお前はその文字の意味がわかるのだ。お前自身の書きものと、わたしが書かせるものとの区別はそこにあるのだ。もしお前自身がこの手紙を書いているのであれば、お前は文句をあらかじめ心に予想する。しかし、書き手がわたしである場合には、お前はほんの一瞬間待っているだけでよいのである――なぜならわたしの思想がお前に感応しているからである。

「なにというすばらしさ。お前が今日筆をおいたとき、お前は非常な驚きに満たされるであろう。お前は絶大の驚異をもって今書きながら見ているこの文句を読み返すであろう。これはお前にとってはまったく新しい創作だ。なぜなら書かれていることはお前の思想ではなく、わたし自身の思想であるからだ。

「わが語るところは真実で、またきわめて明瞭である。お前が、わたしの言葉を書きつつある間に、もし、お前が本来わたしの思想でないことを思い浮かべるならば、お前の手は停止する。そしてわたしはその思想を肯定するか拒絶するかするのである。お前は覚えているだろう。先刻わたしが『神』のことをお前に書いた、するとお前は非常に感動した。しかしお前は外に走る自動車の音を聞いたとき、ふと赤い消防自動車のことを思い浮かべた。その時はわたしは書くことをしばらくやめていたのである。お前の意識の中から自動車のことを()い出してしまわない間は、わたしは『神』のことを書くことはできなかったのである。しかしもし、わたしが驚異すべき事項に筆を走らせたときお前に疑惑が雲のごとく湧き起こるならば、わたしはすぐその問いに答えうるし、その疑惑について語ることができるのである。

「お前はヒステリックな感受性をもっていず、また霊媒的特性もない。だから、わたしがお前の思想を誘導し啓発することができない事柄を、お前に説明することはできないのである。霊魂の作用とはかくのごときものであって、人間たちは今まで理解するところなく霊魂というものを推察していたのである。

「わが親しき子よ、わが書くところは信じ難いであろう。誰もまだ、われわれのこの経験がいかに特異のものであるかを知ってはいないのだ。が、この点において、わたしとお前とは少しばかり知ることを許されたのだ。お前は詩人である。わたしは生前『気狂い音楽家』であった。無数の可能性が自分のうちには宿っている。が、その可能性のどの一つも生前には完全に発達せしめることができなかった。なぜならわたしは愛する妻と四人のかわいい子供たちの生計をささえるために、学校と翻訳仕事に没頭していなければならなかったからである。わがたましいは落ち着く暇もなく、本来芸術家で音楽家で、詩人であったわが生活は、打ち砕かれた。わたしは駄作を奏でていたが、魂にやどっている高貴なる憧憬は、わたしの生活のいよいよにがいものにした。わが愛する子よ、お前もまた詩人である、お前のたましいは音楽で満ちている。お前のうちには無数の可能性が宿っている。しかしどの一つも本物にはなっていないし、完全に発達させていないのだ。が今、わたしはお前を掴んだ――今後すべては変わるであろう。

「わが霊性はお前に来り、お前のたましいの中に今座を占める。わたしは、お前とともに書くことができるのである。お前は詩人であり、無数の可能性をもっているからだ。わたしはお前の才能を高め、その潜在能力を強めることができるのだ。前にもいったようにわれわれは全能の神ではないから、『無』より『有』を創造することはできないけれども、お前のたましいのうちに宿している微笑みを、全身全霊で爆発さすことはできるのだ。お前のたましいに宿している詩想を詩にまで組み立てさすことはできるのだ。妙に感ずるかもしれないが、これは本当だ。やがてわたしはお前にこれを証明するであろう。

「わが愛する子よ。わたしがお前の手を支配して『神の祝福の微笑み』について書きはじめるとき、お前のたましいは打ちふるえ、さめざめと啼泣する。それは、わたしがお前のたましいをかきたてて、それをしめやかに打ちふるわすからである。お前はなんともいえぬたましいの法悦で満たされる。そして涙で瞳を埋めながら、いまだかつて予想だにしたことない法悦味を書くのである。もしお前のたましいのうちにこの法悦がかきたてられられなかったら、この法悦をかくのごとく書きあらわすことはできないであろう。もし『神』がなんじの上に祝福の微笑みを投げかけたまわなかったならば、お前のたましいはこんなにおののかず、お前の眼はこんなに涙で(おお)われることはなかったであろう。神の祝福――わが子よ、これが始めであり終わりである。われわれは『神の祝福』を全世界に告げなければならぬ。気づかれないように、じょじょに、全地上に次のごとき福音を囁きかける――わが子よ、今わたしがお前にそれを囁きかけているかのように。

すべての人類よ(〇〇〇〇〇〇〇)神は活在したまう(〇〇〇〇〇〇〇〇)。なんじもまた神の祝福の微笑みを見るであろう。

「母よ、涙に泣きぬれたあなたの眼をあげよ。あなたの子は死んではいないのだ(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)。彼は今も生きていて幸福である。

「妻よ、良人を失いし者よ。汝の良人は(〇〇〇〇〇)今もなお生きている(〇〇〇〇〇〇〇〇〇)、そして霊界にて神を知れるぞ!

「愛人を失いて嘆く娘よ、なんじの愛人は(〇〇〇〇〇〇〇)死んではいないのだ(〇〇〇〇〇〇〇〇〇)。神は彼の上に祝福の微笑みを投げかけていられる!

「――この驚くべき福音を全世界につたえることは、わが来りし使命である。この福音は全世界に広がるであろう――かくのごとくして、地上に新しき時代は来るのだ。わが子よ、わがペンに翼を与えよ。わたしは天翔って全世界にこの輝く真理を宣べ伝えたい――神は活在ましますのだ、生きとし生けるものにして死するものは一つとしてないのだ。みんな神を見る日が来るのだ。若きも、老いたるも善なるも、悪しきも、みんな神の祝福の微笑み(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)を見る日が来るのだ。

「わが子よ、もうわたしはゆくよ。お前のたましいの喜びとほほえみとをわたしに投げかけよ。お前のたましいが微笑するとき、お前の眼は涙で曇り、神の祝福の微笑みがお前の上に輝くであろう。

では、さようなら                                          なんじの父より」

ここまで書いてペンを持っていたマグナッセンの手はハタと止まった。

彼は自分の手が不思議に何者かに動かされてこう書きつつある間に、自分の魂が不思議に法悦の歓びで満たされるのを感じた。涙がこみ上げてきて流れとなって頬を伝う。「神の祝福の微笑み」という父の声が、ありありと耳元で囁くような気がするのだった。

マグナッセンは立ち上がった。そして涙をふいて、部屋の中を見廻した。燈光が原稿紙の上に落ちて、ストーブの中で石炭が音を立てていた。何も別に変わっていなかった。壁に沿うて書架には書物がズラリと並んでいて、机の上の瓶花は赤い花の色を壁の面に反映させていた。彼が起ち上がった椅子は依然として元の位置にあった。彼は再び腰をかけたが、また起ち上がった。

「神!神はある。神の祝福の微笑みを受けよ。」――こう彼はつぶやかずにはいられなかった。彼は顔をあげて、窓から外の夜の暗さを刺し通すかのように眺めていた。

「神はある。神はある。これをすべての人々に宣べ伝えよ。」まだ何者かが彼の魂の中で囁いているように思われた。

「だが、」と彼は思った――「こんなことが、はたしてほかの人たちに理解できるであろうか。否々!世界幾千万の人々が神を信じているではないか。何もこれは新しい特殊のことではないのだ。自分だけが、今まで神を知らなかったにすぎないのだ。が、そうではない。もし誰か神を知っているものがあれば、自分だって知っていたに相違ないのだ。誰かが知りうるものは神秘だということはできないではないか。では、すべての人間もまた神を知り得るに相違ないのだ。」

彼は自分の考えていることが支離滅裂になってきたことを感じた。彼はまた目を転じて窓外の暗黒をしばらく凝視していたが、また机の上を見やった。そこには現在この自分の手で、亡父が書いた筆跡が載っていた。彼はまた椅子に腰をおろして持つともなしにペンを持った。またペンは自動して亡父の筆跡で書いた――「愛するわが子よ、神は今、なんじに祝福の微笑を送りたまう。」彼はまた泣けてきた。法悦の涙で一杯に濡れた顔を蔽いながら彼は長い間すすり泣いていた。神ははたしてあるか。今後、彼にどんな事件が待っているであろう。