最近読んだ本 呉智英『現代人の論語』 | どうもこんにちは 番長です

どうもこんにちは 番長です

本編の重大なネタバレはなしの方向で

みなさんどうもこんばんは!番長です!JPY!

たしか前回の記事で1月に3冊目標で本を読みたいとか言ってましたけど

それはちょっと無理があるスケジュールだったかもしれません

この1冊を読むのに3週間くらいかかってしまいました…

もっともこの本が難しかったのが理由…というか

小説とちがい考えなければならない部分が多く

どうしても一気に読み進めることができなかった、という事情もあるわけですけどね

 

年末に孔丘を読み終わり前回その記事を書いたわけですが

記事を読んだ方にこの「現代人の論語」をお勧めしてもらいました

その方も同様のことを言ってくれましたが…

今が論語についての本を読むほぼ唯一のチャンスではないかと感じたため

次に読む本をこれに決めたという経緯があります

 

本編に入る前に…

この本については最後の最後にあとがきで驚かされたのでそのことを書きます

この本は教育関係の専門雑誌である「総合教育技術」に連載されたものを本としてまとめたものだそうです

現代人向けの論語入門が教育の専門雑誌に連載されていた

ということが俺にとってはかなりの驚きでした

志学という言葉もありますし

孔子が学ぶことと教えることにとても強い情熱を持っていたことは間違いないので

言われてみればそんなに突飛な話ではないのかもしれないですが

言わば論語考のような内容のためまったく想像していませんでした

その連載を楽しみにしていた先生がどれくらいいたのか気になってしまいますね

 

この本は50講構成となっており

それぞれ論語の1章をピックアップしてその章について解説する

というような内容でした

1講1講本を閉じて自分の中で咀嚼して考えをまとめる

というような過程を挟んでいたため

読み進めるのにはかなり時間がかかってしまいましたが

それだけに楽しんで読むことができたと思います

 

どのようにこの記事を書いていくかいつものように迷ってましたが…

今回はいくつかのテーマを絞って書いていこうと思います

やろうと思えば1講1講について俺の思うことを書く

という形式にもできたかもしれません

それくらい考えることが多かったですね

 

○論語について

俺は自己啓発本のようなものはまず読みません

なぜなら仮に自己啓発本を読むことでお仕事ができるようになり

人格的にも成長し立派な人間になれるんだとしたら

この世界は素晴らしい人であふれかえっているはずだと思うからです

また自分のこれまでの人生で形作られた人格が

何冊かの本で変わるとはとても思えないんですよね

そういう意味では…創作の中の好きなキャラクターにプラスの影響を受ける

という方がよほど可能性があるような気がします

実際にいおりんだったらどう言うか どう考えるか

というような考え方で行動を決めたこともあったりします

 

そこでこの本についてなのですが…

著者は「論語は現代人向けの格言集や自己啓発本ではない」

というようなことを書いていました

今から2500年前の孔子と弟子たちの言行録なので

きちんと考えればとても当たり前のことなのですが…

俺はまさに論語を自己啓発本のようにとらえてしまっていたんだと気づかされました

だからこれまでまったく読む気にならなかったという面もあります


著者は冒頭で

「論語に関する本は世にあふれているが実際は論語は読まれていない」

というようなことを書いています

これが本当かどうかはわからないですし確かめるすべはありませんが…

この本を読み始めてまず最初に強く感じたことは

論語を正しく読み 孔子の思想を正しく理解することは不可能である

ということです

これは論語や孔子に限ったことではないのですが

結局2500年前に交わされた言葉の真意を理解するのは土台無理なんです

そういう意味では論語は読まれていないと間違いなく言えると思います

 

しかし限りなく解像度を上げることはできるんですよね

当時の時代背景に関する知識を深めたり論語や孔子の研究について造詣を深めたり

そういったことで論語を読むということに関して精度を上げることはできると思います

ただしこれは一朝一夕でできることではありません

論語を読むということのために多大な時間と労力を割かなければなりません

その点俺がこの本を紹介してもらったことは非常に幸運だと感じました

著者による十分高い解像度の解釈を読ませてもらえるからです

世にあふれる論語の本はどうなんでしょう

この本の著者ほどの解像度を持って解説してくれているものでしょうか

 

ひとつ注意が必要なのは

その解釈が正しいのか間違っているのか判断がつかず

また著者の独自解釈があっても気が付けないということです

この本の前書きには誤解釈や誤認の例がいくつか出てきますが

この本の中にそれがないとは言い切れません

そこはある意味鵜吞みにするしかないというか…

ただこの部分は本当にこの解釈でいいのかな…と思える部分はいくつか出てきました

俺の知識なんてないに等しいので俺が間違っているのだとは思いつつ

俺は俺で自分の解釈をしてもいいよね とも思っています

論語を正しく理解することが目的なのではなく

あくまでも読んで楽しむということが一番の目的ですからね

 

○分派した理由について

前回の孔丘の記事でも少し書きましたが

もう少しはっきりとした理由がわかったような気がするので改めて書いてみます

 

前回の記事でも書いたような気がするんですが

孔子の思想の中で一見相反するような言動があり

おそらく孔子の頭の中では矛盾なく並立していたのだろうということですね

37講では「汎く衆を愛する」ことと「己に如かざる者を友とすること無き」こととが矛盾しているとされ

これによって弟子の子夏と子張との考え方の違いが示されています

 

また33講では子路と冉有に別々に「聞いたことはすぐに実行すべきでしょうか」と問われた際

子路には「父や兄がいるんだからすぐに実行すべきではない」と答え

冉有には「聞いたことはすぐに実行すべきだ」と答えたという話があります

これは子路は先走ってしまう傾向があるためたしなめるアドバイスをし

冉有は引っ込み思案なところがあるため進んでやるようにアドバイスした

というようなことだったらしいのですが

傍から聞いてたら言ってること全然違うじゃないか

と思ってしまいかねません

たしか政治について問われたエピソードにも同じようなケースがあったように思います

国情がちがうからアドバイスも変わる というような…

 

とにかくこういった相反するような言動が

弟子たちによる思想の解釈にも違いをもたらしたのは間違いないように思います

 

また弟子たちの入門時期による影響もありそうな気がしました

孔子の名が高まるにしたがって入門者とその入門理由に違いが生まれていったということですね

得体のしれない巷間の礼学者であった孔子に入門した弟子たちは

孔子の人柄に惚れ込んで付き従ったわけですが

各国に名前が知られた著名な学者となった孔子に入門した弟子たちは

自らの栄達など利己的なものが動機であり

その質にも大きな違いがあったとのことでした

そのあたりを考えると孔子の思想の本質的な部分を理解していたのは

やはり顔回くらいだったのではないかと思うのですが

その顔回も孔子と比べると致命的に足りない部分があったように感じます

 

ここまで儒教が分派した理由を前回の記事や孔丘の上巻の記事から引き続いて書いてきましたが…

そもそもの話として孔子は当時

自分の教えていることがひとつの思想として成立するなどと考えていたのでしょうか

著者は孔子、釈迦、ソクラテスの3人が人類史上初めての思想家であると書いています

そんな歴史上初めて生まれた思想家である孔子には

自分の教えがひとつの「思想」として後世に伝わるなんて想定していなかったと思います

あえて言うなら礼楽のようなかっちりとした正解があるものについては

正しく継承されていって欲しいと考えていたと思いますが

自分の思想的な部分が継承され分派されるかもしれないなんてことは考えるわけもなく

その責任のようなものを孔子に求めるのは完全に筋違いであるとも思えました

つまり孔子個人に対する評価と分派したこととは切り離して考えるべきだということですね

俺が自分で提起した問題ではありますが…これが結論となりました

 

○天と命について

論語にも天への言及は少なく

孔子の教えの中にも天命についてのものはなかったようですが

孔子がもっとも重要視していたのはここなのではないかと思いました

 

天や天命のことに言及すると形而上のものとなってしまい

何ら具体性がなくなってしまうことから弟子には教えることがなかったものの

自分は天命に従って生きているんだという自負はそうとうに強いものであったように感じます

このあたりは前回の孔丘の記事でも書きました

 

この本ではその孔子が天や天命に対して疑問や不条理さを感じたことが書かれています

どういったことでそれを感じていたかといえば

高徳の愛弟子が病に苛まれたり倒れたりする様を見たことによります

自分は天命に生きているから天に見放されることはない

ならばなぜ徳行の弟子を不治の病で苦しませるのか

なぜ仁を体現したかのような弟子が早逝してしまうのか

ここに不条理を感じたわけですね

 

この部分についてなぜ、などと考えても無意味かもしれないですし

どれだけ考えても正解などありえない部分なのですが…

天が与える命というのはなんなのかということを考えてみたいです

 

早逝した仁を体現したかのような弟子というのは顔回のことですが

顔回を亡くした後の孔子は「天は私を滅ぼした」とまで言い嘆きます

また論語の中には顔回の死に関する章が5か所もあるそうです

 

顔回は1を聞いて10を知る才を持ちながら

どんなに貧困にあえいでも徳の道に生きることを楽しむことができたという

孔子が妬むほどの仁の体現者だったようです

その顔回の早逝は顔回にふさわしいものだったのか

この部分について孔子は天を呪ったのではないかとまで書かれています

 

もしも本当に天が存在し命を下すとすればこれはどういうことなのか

本当に不条理なことであったのか…

 

○孔子の受けた天命とは

孔子は自分が天命に生きていると確信していた、と著者は書いていますが

それでは孔子が受けた天命とはいったいどういうものだったのでしょうか

これはむしろ孔子本人よりも後世に生きる俺たちの方が理解が早いかもしれません

儒教の創始者としての天命であると言ってしまって間違いないでしょう

 

この点孔子が当時どう思っていたか、と考えると

おそらく中華のために古の礼と楽を復興、整理し

それを後世に伝える というようなものを天命と考えていたように思います

これが天から与えられた使命であり

孔子はそれが一応の完了を見るまで自分が死ぬことはないと思っていたでしょう

 

少し話がずれますが…古の礼と楽とは

天のふるまいを形而下において表現するためのものであったと思います

つまり古の礼と楽を復興しそれを整理することは

ダイレクトに天とつながるものであると孔子は考えていたのではないでしょうか

 

孔子はこれを自分が受けた天命であると確信しており

有力な弟子たちはともにその天命に向かう戦友のようなものだと認識していました

だからこそ高弟の死や病を天に裏切られたとまで感じたのでしょう

しかしこれは孔子の勘違いであり

孔子の受けた天命はより大きなものであったということではないでしょうか

 

天は大きな天命を下したものには大きな苦難を与える傾向にあります

周の文王は殷の受王によって幽閉され息子の肉を与えられましたし

始皇帝は幼いころ趙への人質として辛い幼少期を送っていたようですし

劉秀は兄を殺した勢力に恭順しなければならないタイミングがありました

 

このことから孔子にとっては長い放浪も愛弟子の死も

天が与えた苦難だったのではないかと考えました

前回の孔丘の記事でも書きましたが

苦難がなければ論語はもっと薄っぺらいものになっていたかもしれず

人類史上初の思想家のうちの一人として名を連ねることはなかったかもしれません

そういう意味では孔子にその自覚はなかったにせよ

まさに自身が確信していた通り天命に従って生きていたのではないでしょうか

放浪についても愛弟子の早逝についても天の不条理ではなく

天が孔子に課したものであったのではないかと思います

 

もっと言えば…顔回は貧苦に楽しむことができました

これは稀有な才能で孔子からも妬まれるほどでしたが

それではその顔回に後世に残るような大きな業績を残すことができたでしょうか

貧苦に楽しむというところには現状を打破しようという強さはあまり感じられません

たとえ無限の才が与えられたとしても

それをどう活かすかという部分がおろそかになってしまっては

天命を下すに値しないと判断されてしまうということではないかと思います

ここは自分のことを考えるととても心苦しいですね…

いや自分にそんなたいそうな才能があるとは思ってないですが

どちらかといえばどんな環境でもそこそこ楽しめる人間だと思っていたので…

 

○天とはなにか

ここはもう本の内容とは完全に逸脱します

俺の妄想にすぎないので飛ばしてもらって大丈夫です

 

ここまで考えてみたところでどうしても疑問に思うのは

天とはなんなのかということです

もしも本当に天が存在し命を下し事を為させるのだとしたら

不条理だとは言えなくとも悪趣味だとは言えると思います

なぜ英雄に試練を与えるのかということですね

 

天命を下しなにかを為させようとするならば

順風満帆でいいと思いませんか

なぜわざわざ肉親を食べさせたり家族の仇に従ったりしなければいけないのでしょうか

 

ここで俺が思い至ってしまったのがランス10のルドラサウムです

天とはルドラサウムのような存在ではないかと思ってしまいました

 

ルドラサウムについて少し説明します

俺はランスシリーズは戦国ランスとランス10くらいしかまともにプレイしてないので

誤認や誤解釈があるかもしれませんが大目に見てください

 

ルドラサウムはランスシリーズの舞台となる世界における世界そのものです

たぶん神よりも上位の存在で…神にとっての神みたいな存在です

そのくせこどもみたいな…よく言えば無邪気な性格をしており

悪意があるのかないのかわからないですが人間が苦しむさまを見て楽しむのです

人間を苦しませるために無敵の魔王を生み出し

あまりにも一方的過ぎてつまらないから

人類が一定割合減るごとに強化される勇者システムを生み出し

その争いを見て楽しむという悪趣味ぶりでした

こう考えるとルドラサウムというのは

英雄に試練を与える天を皮肉る形で考えられたのかもしれないですね

 

ルドラサウムは自分が楽しむために人を苦しめていたので悪趣味かつ不条理でしたが…

天は何のために英雄に試練を課すのでしょうか

もしも天がこの記事を見ているのなら

そろそろそういうのはやめて順風満帆に大きなことを為させるようにしてあげてください

あえてひどい経験をさせるのって悪趣味だと思いますよ

そういう天にこそランス10をやってもらいたいですね

 

 

この本の記事としては項目が少なすぎるような気はするのですが

このあたりにしておこうと思います

なんかもっと書きたいことがあったような気がするんですが

思いついたの書き始めたら本当に終わらなくなってしまうような気もしますし

ここまででももう6,000字超とか…自動で文字数カウントされるのって複雑ですね

しかし50講のうち10講分も記事にできてないのでは…

とはいえ一番書きたかったのは天と天命についてなので

その部分に関しては書きたいことがすべてかけたのではないかと思ってます

 

いっそのこと1講から50講まで短い記事を全部書いちゃおうかな…

今日のこの記事は9時くらいから書き始めてるので4時間もかかって書いてるみたいですが

1講分ならホントにすぐ書けちゃうような気もするし…

ブログの更新も頻繁になりますしね

ちょっと検討してみます

 

それじゃあみなさんおやすみなさい!JPB!