鶴澤寛也という人がいた。「国立演芸場の華」とも謳われた美貌の女流義太夫三味線奏者だった。
鶴澤寛也(1960~2023)
去年の春、本人のツイッターを見ていて愕然とした。
続いて、新聞各紙にも訃報が載った。
彼女は名実ともに義太夫界の顔の一人。その交友は義太夫関係者にとどまらない。文壇、芸能界にも幅広いファン、知己がいた。
故・橋本治さんも贔屓にしてくれていて著書の表紙に起用したくらい。
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新聞記事にある「演歌歌手のコンサート」というのは石川さゆりさんである。数年前、石川さゆりさんがデビュー45周年記念ツアーで女義太夫に挑戦したのは記憶に新しい。その時に三味線を弾いたのは寛也さんだ。また何年か前の寛也さんの自主企画リサイタルの時、すぐそばの席に日銀総裁がおられたこともあった。
娘の寛子ちゃん(仮名)がいうように「心のうちで静かに見送ろう」とその時思った。人が一人亡くなった後の事務的なあれこれの大変さは誰もが知っているし、その上に各方面で愛され尊敬されていた寛也さんの広い交友関係。それを大切にしようとする寛子ちゃんの苦労はちょっとやそっとじゃないだろう。
長年にわたる共通の友人であるやまちゃん(仮名)とも一周忌までそっとしておこうと話し合った。もちろん線香の一本も手向けに行きたいし大好きだったお花も供えたいし、寛子ちゃんに弔意を伝えたい…。でも、でも、そんな「居ても立っても居られない気持ち」はあくまで「僕の気持ち」。寛也さんはなによりも母一人子一人だった寛子ちゃんの心身の平安を願っているはず。寛子ちゃんに負担をかけたらいつの日があちらで再会した時に寛也さんに叱られる。「何かしたい」という気持ちをグッと抑えておとなしくしていた。
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そして一周忌を過ぎてやまちゃんの幹事で開催されたのが昨晩の「一周忌・鶴澤寛也を語る会(仮称)」。寛也さんが何よりも大切に愛していた愛娘の寛子ちゃんを囲んで、やまちゃんとやまちゃんの後輩のつるちゃん(仮名)、そして僕の4人でビブリオ芙蓉の間に集まった。お酒や酒肴は食通のやまちゃんが揃えてくれた。
16時に寛也さんへの献杯から始まった会。飲むほどに酔うほどに話は弾む。寛也さんの学生時代の話、若手時代の話、義太夫の話、歌舞伎の話、さらに細かく大道具の話、床山の話、そして寛也さんの「推し活」の話などなど。今までそんなことを思ったことはなかったんだけど寛子ちゃんが寛也さんに似ているの。お酒の飲み方とかふとした仕草とか電話のかけ方とか歩き方とかそっくり。じじいたちはつい目がしらが熱くなってしまった。
よく飲んだなぁ。途中お酒が足りなくなってせきやさんに買いに行ったらもう閉まっていてしかたなくコンビニで買ったとか。僕もボトルを空けてしまったよ。ジンジャエールの。
気が付いたら23時30分。7時間30分のロング宴会。
あわてて記念撮影して解散。
膝に手を添えないと立ち上がれないやまちゃんとワシ。
楽しかったなあ。一晩中でもしゃべってられそうだった。
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皆を見送り、メールのチェックをしながら考えた。
「最後に寛也さんに会ったのはいつだったか」。
調べたら最後に会ったのはコロナ直前のクリスマス。寛也さんの発案で、やまちゃんの還暦祝い。昨日と同じくビブリオ芙蓉の間に3人で集まった。
寛也さんが着ているのは毎年、クリスマス限定のセーター。
そしてこちらがその日の酒肴。
寛也さんがタンドーリチキンやらサラダやらいろいろ作ってきてくれた。やまちゃんはお酒やワインや一流店のチーズやローストビーフを持参。おでんは僕の提供。出来合いだけどね。大事な友人二人のために心を込めてパッケージの封を切り、心を込めて鍋にあけ、心を込めてIH調理器の「加熱」のボタンを押した。
その夜も最後は終電が迫りバタバタと解散した。人間、ちょっとやそっとで学習しない。
「来年はオレと寛也さんの還暦祝いね」などと言って別れたがその直後にコロナの感染拡大となり、約束を果たすことはできなかった。
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今まで何度も書いているがそもそもは大学時代の歌舞伎仲間。大学の頃、僕は歌舞伎研究会に入っていた。当時は今のように若者が歌舞伎を見たりはしない古典芸能冬の時代だったが、いくつかの大学には歌舞伎研究会があった。それらが集まった親睦団体が「関東学生歌舞伎研究連盟」だった。大仰な名前だが、まじめに研究して論文を出しちゃうような大学もあれば、自分たちで歌舞伎をやっちゃう大学もあった。
年に何度かあった「関東学生歌舞伎研究連盟」略して「研連」(自民党みたいだね)の飲み会でのことだ。40年以上前のこと。
津田塾大歌舞伎研究会のあかね嬢が言い出した。
「岐阜県の瑞浪市で美濃歌舞伎があるらしいの。江戸時代の古い芝居小屋を使って。わたし、行ってみたいんだけど、誰か一緒に行く人いない?」
ふだんから皆で歌舞伎を見に行くようなことはよくあったが、それは歌舞伎座や国立劇場や新橋演舞場。岐阜県とは思いもよらない。それに美濃歌舞伎って?
「知らないの? 歌舞伎って東京や大阪の大歌舞伎だけじゃないのよ。全国には地域の人によって守られている地歌舞伎とか地芝居とか言われる歌舞伎があるの。もう絶滅したものも多いけど、瑞浪の美濃歌舞伎は健在なんだって。ゴルフ場の社長さんが古い芝居小屋を移築して、社員さんたちに芝居をやらしているんだって」
20人ぐらい歌舞伎好きの若者が集まった宴である。その話題で大いに盛り上がった。おもしろいねー、まだ残ってるんだ、へぇすごいねぇ。いつか見てみたいね。
で、それいつあるの?
「明後日」
(シーーーン)。急すぎるよ。
「だって今朝の新聞に載ってたんだもの(プンプン)」
急だし遠いしお金はかかるし、行けるのはよっぽどの物好きかよっぽどのお調子者だよ・・・。
で揃ったのが言いだしっぺの津田塾のあかね嬢、いつもクールでクレバーなK大のやまちゃん、日本舞踊の名取・M大のK嬢。そしてお調子者といえばこの人、20歳の僕だった。
言い出しっぺのあかね嬢は思いつきはいいのだが、旅程を考える才能は皆無な人だったので、プランニングは後年「地獄のツアコン」「ダンドリ職人」と異名をとる僕が立てた。旅行プランを考えるのは昔から得意。山の中のゴルフ場にある芝居小屋だ。車で行くしかない。やまちゃんに愛車・スカイラインを出してもらい交替で運転することにした。時は1981年10月31日。
岐阜県瑞浪市のゴルフ場「日吉ハイランド倶楽部」の敷地の片隅に芝居小屋「相生座」はあった。今は香川の琴平座が有名だけど、当時はこの相生座のほうが有名で、先代の猿之助丈が「蝋燭芝居」をやったこともあるという。本当は消防法の関係でできないのだけど、それは地方のこと。なんとかなったという。 それから戸板康二の「名探偵雅楽」の「奈落殺人事件(うろおぼえ)」をここでロケしたこともあったとか。主演はもちろん中村勘三郎丈。先年、亡くなった現在の歌舞伎ブームの火付け役の勘三郎丈のおとっつぁん。「もしほ」の勘三郎。
由緒あるその劇場での地芝居見物だ。その日は地元の老人会の慰安観劇会だった。勧進元の日吉ハイランドが地元のお年寄りを招待してお芝居を見せるというイベントに車で乗り付けた若者4人が入り込んで芝居を観ようという図々しい魂胆なのだ。大丈夫なのか。
マチネー興行なので前日の夕方に出発。中央高速で西に向かう。途中、信州高遠の旅館で一泊。翌朝、西に向けて再出発。午後、たどり着いたのが、ゴルフ場・日吉ハイランド倶楽部の敷地内にある相生座。回り舞台やスッポン、両花道のある本格的なもの。
当日は老人慰問歌舞伎公演で地域のお年寄りを招待したイベントだった。僕らがついた時にはすでに小屋内はお年寄りで一杯だった。前座というんだろうか、前説というんだろうか、オープニングアクトというのか和服姿のおばさんが二人、演歌のレコードに合わせて踊っていた。歌謡舞踊というのかな。すっかり酔っ払ったおじいちゃんが花道に上がって一緒に踊りだしたりして、もうカオスだった。
芝居の幕が開いた。演目は・・・・・。実は芝居の演目も内容も何も覚えちゃいないのである。面目ない。周辺のことはこんなにリアルに覚えているのにね。
芝居が終ったのは、夜になってからだった。これから帰るのも大変でしょうと支配人さんに声をかけていただき、ゴルフ場のクラブハウスに宿泊。興奮さめやらず、今日見たお芝居のことを夜更けまで話した。翌日は、日吉ハイランド倶楽部本部に行き、社長の小栗克介氏を訪問。移築の苦労や芝居にかける情熱をいろいろ伺った。「昨日の○○役の役者さんがかっこよかったです」などと話していたら、「それ私です」と営業部長さんが立ち上がった。そう、お茶を入れてくれたお姉さんも、静かに事務を執る人たちも、颯爽とグリーンを行くキャディさんもみんな昨日は白塗りの役者だった。
芝居小屋を見学させていただいた。回り舞台や奈落の下など、その貴重なものを全く自由に見学させてくれた。もちろん初めて見るもので大興奮。
帰りの車中、
「村芝居って言ってもお百姓さんが氏神様のお祭に奉納するようなのじゃなかったね」
「うん、みんなゴルフ場の社員さんだからね」
「でもさ、日本の会社って良くも悪くも村社会じゃない? カリスマ性ある小栗村長の下、村民一丸となって芝居を作り上げるんだから、まさしく村芝居だよ」
「うん、そうだね」
などと話し合った。
その津田塾のあかね嬢が後の鶴澤寛也さん。その後、一緒に地歌舞伎の調査をし、行けるところに行った。
卒業後はそれぞれの道を歩いた。あかねちゃんは大阪の鶴澤寛八師匠に弟子入りして鶴澤寛也となり、やまちゃんと僕はサラリーマンになった。その後も機会を見つけて会った。特に僕はツマの実家と寛也さんのおうちが近くで大阪でお会いすることも何度もあった。
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僕は昔から余計な一言が多い方で何度か絶交されかけた。
まだ学生時代。瑞浪美濃歌舞伎と同じメンバーで師走の京都南座の顔見世歌舞伎を見に行ったとき、旅館での部屋飲みの割り勘の計算を「数学科だよね」とあかねちゃんに任せたらちょっとした計算ミスがあって混乱した。その時僕は「割り勘の計算くらいできないの? それでも数学科」と冗談半分で詰った。それにやまちゃんが「混乱のかげにあかねあり」と追い打ちをかけ、それが妙にツボって大爆笑したら、しばらく口をきいてくれなかった。
僕とやまちゃんが山形に黒森歌舞伎を見物にいった時、旅先からあかねちゃんに絵葉書を出した。そのころちょっと流行っていた「不条理レター」。僕とやまちゃんの対談形式でテキトーなことを書く。記憶のママに書くと下記の感じ。Tが僕でYがやまちゃん。
T 山形っとていえばミサシ料理だね
Y 今年はちょっと相場が崩れているみたいだけどね
T たしかに。今のところは小康を保っているといえないこともないが。
Y まぁ明日は我が身、ということだよね
T そうそう。つまるところは五十歩百歩ということで(一同爆笑)
そんなハガキ。次に会った時に「なによぉ、あれ」って笑ってくれるかと思ったら、目が三角になっている
「ちょっとあなたたち酷いわね。わたし、すっごく傷ついたんだからね(怒)」
え? そんなぁ。どんな解釈をしたの? その時もしばらく口をきいてくれなかった。
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近年では寛也さんは都内にお稽古場を借りていた。僕の職場から近かったので時々遊びに行っていて、稽古場の近くの中華屋さんに連れて行っていただいたことがあった。寛也さんお気に入りのその中華屋さんは大そうおいしかったのでしばらく経ったときに一人で行った。お店の人が僕の顔を覚えているかどうか微妙だったんだけど会計の時、聞いてみた。
三味線の姉さんは今もお店によく来ますか?
「はい、昨日もお越しいただきました。失礼ですけどお友達ですか?」
いえ、弟です。姉がいつもお世話になっております。
ほんの冗談だったんだけど次に寛也先生が行ったときにお店の人が「先日、弟さんがお見えになりました」と言って露見。もちろん𠮟責のメールをいただいたわけだが・・・・・、なんで僕だとわかったの。
「あなたの他にそんなことする人いないわよ」
なるほど。寛也さんの周りはちゃんとした人ばかりだものね。
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でもいいこともしているんだよ。寛也さんは和装モデルとしても活躍していたがそのきっかけをつくったのは僕。ある落語会のチケットを3枚もらったので、寛也さんと人形作家で写真家の石塚公昭さんを誘った。それで終演後に3人で飲みに行ったのだがそれがきっかけとなって作品「乱歩 人間椅子」のヒロイン・佳子のモデルを務めた。石塚さんはシャイな人なので僕が仲立ちをした。石塚さん、居酒屋で何かもじもじしていると思ったがその後、メールが来て「お連れになった鶴澤寛也さんが、いま準備をしている『乱歩 人間椅子』の佳子のイメージにぴったりなのでモデルになってほしい。つきましては仲立ちして欲しい」と。僕は編集者だからそういう仲立ちはものすごくうまいよ。
無事、撮影は行われて写真集に収められた。
そしてギャラリービブリオを開業した2012年には写真展を開催させていただき、その作品を宣伝のメインビジュアルに使わせていただいた。
写真展のオープニングにはその時の着物を着て駆けつけてくれた。
とにもかくにもその写真が評判になり、和装モデルのオファーが来るようになったのだった。
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あ、そうだ。僕の入院中にはお見舞いに来てくれたんだ。それはほんとうにありがたかった。一度目はまだ意識がちゃんと戻ってない頃で、妻の押す車いすで一緒に談話室に行き話をしたらしいのだがほとんど覚えていない。その時はお見舞いに今治タオルをいただいて入院生活でずいぶん重宝した。ドクロ柄だった。もちろん現物はとうに擦り切れてしまってタオルとしての役目を全うし手元にないが旧ブログに写真が残っていた。
脳の疾病で死にかけた人のところにドクロ柄かよ? なんていうどうでもいいことよりも僕の好みを優先してくれたことがうれしかった。
リハビリ病院に移ってから。季節もののハロウィンバケツを持ってきてくれた。今も仕事場で愛用している。ホチキスと付せんとかクリップとかなくしやすいものを入れている。
この時はお仕事の帰りで、泥大島の渋い着物に頭もステージ用に結い上げたどうみても粋筋のこしらえで、入院仲間のおじいさんたちが色めき立って面白かった。かえったあとに「あの方はどういう人か」と問われたら「なじみの芸妓だ」と答えようかと思っていたんだけど誰も聞いてくれなかった。
ああ、40数年の付き合い。思い出がダダ洩れ。やたら長文になってしまった。
上で書いたように最後にお会いしたのは2019年のクリスマス。その後もメールのやりとりは時々していて最後は2022年の11月。父が永眠した年でお出しした年賀欠礼のハガキをご覧になってお悔やみのメールをくれたのだ。
「お葉書いただきました。そうだったんですね。ご長命とはいえ寂しいことと思います。ご家族みなさまによろしく。お互い体をいたわりつつ過ごしましょう。お父様のご冥福をお祈りいたします。」
まさかその4か月後に寛也さんの訃報に接することになるなんて…。
そしてこの時期には寛也さんの病状はかなり深刻な段階に入っていたと昨日、娘の寛子ちゃんに聞いた。そんな時に「お互い体をいたわりつつ過ごしましょう」と相手を気遣うその心根を思うともう、泣けて泣けて…。
書きたいことはいろいろあってまだまだあってこうしていてもいろいろなことをどんどん思い出してしまってきりがないのでここまでにしよう。いつかまた機会があったら寛也さんのことは書きたいと思う。
鶴澤寛也先生、丸山あかねちゃん、42年間ありがとうございました。楽しいことばかりでした。どうか安らかにお休みください。
1981年11月2日、瑞浪・相生座の奈落の下にて
・・・・明日より開催・・・・・・・
4月12日(金)~14日(日)
「春の三人展 ~書の表現~」
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・・・・もうすぐ開催・・・・・・・
4月25日(木)~5月6日(月・祝)
柳家一琴切り絵展「切って候」
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5月6日(日)
「柳家一琴ビブリオ落語会」
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5月26日(日)
「パギハチヨーエン ジョイント・ライヴ3」
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・・・・・企画協力・・・・・・・
5月29日(水)
YO-ENワンマンat Nishi-ogi
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・・・・・・・・・・・・公開中・・・・・・・・・・・・・・
当ビブリオが「美術協力」したミュージックビデオ「私の孤独」「わたしはわるい人間だもの」、YOUTUBEで無料公開中です。
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・・・・・会場限定発売CDを通販受付(ギャラリービブリオBASE店)・・・・
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ギャラリービブリオ公式サイト
https://www.gbiblio.jp/
国立駅前。展示、ワークショップ会議にご活用ください。レンタルスペース、貸会議室も。
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中の人はこんな人です。
↑↑久保新二&しのはら実加「下町禁足地」にゲスト出演。 詳細は画像をクリック!