大内義隆公はなぜ北九州に渡るつもりが長門市の只の浜に着いたのか?、、う~~ん、それはね~、、 | ポテトめガネの創業者 亀ちゃんのブログ

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その私が日常で感じた事やメガネ業界に入ってからの奮闘記やら
いろいろと書いています。たまにふざけた事も書いてます。

みなさんこんにちわ!、、、、亀(山本)です。


昨日から1550年頃に山口を統治していた大内義隆公の事を書いているんですけど、、、、、、ああ、そうそう、多分皆さんは山口といえば毛利家やろ~、って

思っていませんか?


あのですね、この頃の毛利家はまだ広島の山奥のいち豪族にしか過ぎない、

そんな頃の話なんです。

でも、その毛利家も元就の代になり一気に中国地方を支配するんですけどね、

山陰の尼子家を滅ぼし、石見銀山を手中にし、さらに山口を支配して

関門海峡の利権を手に入れるんです。


でも、私が書いているのはその前の大内義隆公が山口と北九州を統治して

いた頃の事なんですね。


ところで、本題に戻りますね、


では、なぜ、義隆公は北九州に行き再起を図る作戦を断念したのか?

そしてさらに引き返すように長門に向かったのか?


まあ、ここからは私のあくまでも推測ですけどね、


実は、義隆公は(現)豊浦町の室津の浜から船で北九州に行き再起を図る

作戦だった、でも、川棚で陶軍の追っ手に追いつかれ一線を交えます。


しかしながら、あえなく大内軍は大敗し敗走することになります。

そこで、大内義隆公は一計を企てます、っていうか、もうそれしかないって

感じだったのかも?


それは、大内家の軍勢を引き連れて北九州に渡るために用意させていた多くの船で北九州に行くと見せかけて、実は長門を目指すんです。


一方では、義隆公の長男の義尊と末の子は数人の家来を護衛にして

陸路で、というよりも、山越えで身を隠すように長門を目指すことにします、

それは、大内家の本隊が仮に陶軍に敗れても息子の二人はどうにか

生き延びる事ができるように本隊とは別に山越えで長門を目指す事に

したのだと思います。

なので、川棚から長門に山越えで行くにはまず小野という集落を通り、

狗留孫山を超えて豊田の杢路子(むくろうじ)に出て、さらに俵山を超えて

長門市の湯本に入るというルートで行くというか、、、、逃げる事。


また、義隆公の本隊の軍は何艘もの船で室津から長門を目指して、

只の浜に着き、さらに湯本を目指す。


義隆公が北九州に行くのを断念したのは、

陶軍の勢いをみたら、多分すでに水軍も陶軍に寝返っていることは明白で、

このまま北九州を目指しても水軍に関門海峡で敗れてしまうと読んだから。


ではなぜ、長門だったのか?


それはもう最後の最後の頼みで、

当時、長門の守護代だった鷲頭弘忠氏を頼って行くしかないという、

元々、この鷲頭弘忠氏は大内の家臣だったので長門まで逃げ込めれば

まだ、再起の目があるかもしれない、というか、もうそれに賭けるしかない、

そんな状況だったんだと思います。


幸い、無事に、長門の只の浜まで残った軍勢と共にたどり着くことができて、

そこから湯本の大寧寺を目指すのです。そして、

その大寧寺は長門守護代の鷲頭弘忠氏が開創した曹洞宗のお寺でした。


なので、どうにか鷲頭家の協力もあり大寧寺で待つことにしたんです。

えっ、誰を?って?


ああ、そうです、あの川棚で分かれ山越えで長門を目指すことにしていた

義隆公の長男の義尊氏と末の子と、実はこの大寧寺で落ち合う事に

していたんだと思うんです。

でも、以前のブログで書いたように長男は長門市の俵山で陶軍の

追っ手に見つかり殺害され、末の子は女装していたので男の子だったという

証拠に殺害されたあと男根を切り取られたとか?そして、何故か?

長男が殺害された所に現在「マラ観音」が建てられています。

詳しくは、、http://ameblo.jp/banira8632/entry-11920328302.html をね!


結局は二人とも陶軍の追っ手に殺害された、その事を

逃げ延びてどうにか大寧寺まで辿り着いた息子達の護衛の家来が義隆公に

告げたのではないでしょうか?

それを聞いた義隆公は、もうこれで大内家も終わりだと悟り

あの、長門大寧寺での凄まじい自害に至ったのではないでしょうか?


詳しくは、、http://ameblo.jp/banira8632/entry-11916401866.html をね!


そういうふうに、推測すると全てが繋がるんですよね~、

長門や川棚に残っている謂われや逸話が全て繋がるんですよね~。


ああっ!!!


あの義隆公の愛馬、あの雲雀毛という毛並みの愛馬が眠っている

「クスの森」ですけどね、別名を「霊馬の森」そこに愛馬を葬ったのは

川棚ヶ原での合戦で命を落したその馬を陶軍の者がこの地に葬った、

という説や、また、大内家の家来が葬ったとか、

また、毎夜、毎夜、この馬の霊が出てきて暴れるので祠を建てて祀ったとか、

なので、「霊馬の森」という別名になったとか?

いろんな文献をみてもいろんな説があるんです。


そこで、また、私が、推測したんです。その事もね、

誰からも頼まれないのにね~!!


それはね、川棚ヶ原での合戦で命を落したその馬を陶軍の者がこの地に

葬ったとか、いう説は、ちょっとね~、考えにくいんよね~。


だってね、敵の大将の馬といえどもね~、なんでわざわざ川棚から

この山の中まで馬の死骸を運ぶのか?重いしね~

なので、この説は無しです、私が勝手に没にします。


そして、もう一つ、大内家の家来がこの地に葬った。という説ですが、

私はこれもちょっとね~、やっぱりね~、

ああそうそう、土地勘がない人の為に、

この「クスの森」ですけどね、ちょうど義隆公の長兄と末の子とお付きの護衛達が

山越えで長門を目指すとしたらちょうどその道筋にこの「クスの森」があるんです。


なので、やっぱり、いくら義隆公の愛馬といえども川棚ヶ原からここまで死骸を

運ぶのはちょっとね、ましてや逃げてるんですからね~、


これは、どう考えても、というか、私が勝手にですけどね、

この雲雀毛の愛馬は生きていて、でも、船で長門に連れては行けない、

なので、山越えで長門を目指す末の子をその馬に乗せて行くことにした、

でも、小野という集落を過ぎると険しい岩山になるのでやはり馬で行くのは

困難なこと、というか、むしろ馬が足手まといになるかもしれない、

そんなことで仕方なしにこの地でこの愛馬を殺し、埋葬したのでは?

目印にクスの木の傍に、または、後から近くにあったクスの木の幼木を

一本植えたのではないでしょうか?

一説には現在、このクスの木は樹齢1000年と言われているのですが、

でも一方で、樹木に詳しい人の話では約500年位ではないか?っていう事も

言われているようなんです。


なので、私は大内家の家来が仕方なく殺してこの地に埋葬して、そして、

目印に、と近くにあったクスの幼木を一本植えたのではないでしょうか?って

思うんですよね、その根拠に大内義隆公が川棚ヶ原での戦に敗れたのが

ちょうど500年くらい前の1500年代なんですね、


それとね、


今度、良かったらそのクスの森に行ってみてください、っでね、

そのクスの木の巨木があるところに上がる坂道の左側に、

実はもう一本大きなクスの木があるんです。


だからね~、


大内義隆公の家来が長兄と末の子を護衛して今から山越えをするという前に

泣く泣く、愛馬を殺害してこの地に葬って、近くにあったクスの木の幼木を

1本ほど抜いて愛馬を埋めた土の上に目印として植え変えたんだとね、

思うんですよね、


だからね~、


この愛馬の霊が毎夜、毎夜、現れて暴れるので祠を建てて祀ったとか、

という話が伝わっているんだと思うんですよね、

勝手にですけどね、だって、殺されたから成仏できずにこの馬の霊が

毎夜、毎夜、現れて暴れたのではないんでしょかね~、

私は勝手にですけどそう思ったんですよね~。


やっと、これで、全てが繋がったんです。

いやね、本当の史実は知りませんよ、だってね、私は歴史家や郷土史家では

なくて、ただの眼鏡屋ですからね、

仮に間違ってても責任は取りませんので、

悪しからずです。


それでは最後まで読んでいただいてありがとうございます。


ああ、すいません、

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