子供の頃の好きな英雄は、楠木正成であった。日本でもっとも多勢に無勢なのにも関わらず勝利したのは彼だから最強であるし、
絶望的ながら最後まで忠義を通した姿も、人格的に優れていると感じた。
しかししばらくすると、それが結構に狭義な価値観なんだな、ということがわかってきた。
ナポレオンなんかは数の絶対的な強さで欧州を蹂躙していき、おそらくは最後まで権力に固執していたし、
ハンニバルのカンナエの戦いも、ローマ軍に対して数で劣っていたとはいえ、兵力あればこそ活きるような戦い方であった。日本の決戦論とはほど遠い。
劉邦は戦術ではなく戦略的に項羽を破り、しかも皇帝に即位してからは、その一面を隠すようになった、野蛮な農民上がりと見られることを恐れたからだ。
そういったことを知っていくにつれ、どっちが優れているかということより、
なぜそう至ったのか・何を残したのかが気になり、好きとか嫌いとかいうのは考えることもなくなった。
僕が小・中で読み漁った司馬遼太郎から学んだのは、そのぐらいである。だから彼の本はほとんど面白くなくなった。
彼らは自分にとってただの人間で、英霊観というのは自分の中では淘汰されるし、淘汰されるべきだと思っている。
だがそうやっていると、彼らは人間ではない何かを残して、いつの間にかどこかに行ってしまう。主体性が欠ける、投げやりになる。
やはり何かしら好きにはならないといけないような気もする。人間を作らなければ。
