「好きではないことこそやる価値がある」
ようは、好き好みの視点を取っ払えるから、多角的に観ることができる、ということであろう。
なぜそれが必要かというと、だいたいは意識的に中立性を保つことが要請されているからだ。
当時の自分はこの考えに賛同した、なぜなら「自分の見たいものしか見ない」そういった風潮に嫌気が指しており、
ほとんどの偏った思想はこれを源流にしていると考えたからである。
しかし、このような見方が必要ということは、換言すればその学問自体が疑似科学であると認めているように思えてならない。
逆に作為的に取り出したとしても、それが超えられない摂理によって正されるというなら、絶対的な学問だ。スポーツと同じである。
よくよく考えれば、この問題は学問広域にあることのようにも思う。
例えば昨今、地政学の重要性が叫ばれる。この系統にしては作為を自然と取っ払えるというのが理由の一つとして上げられるだろう。
だが、この地政学のディスコースは、逃れられない呪いのような利益を定義付けすることによって、優劣を過度に決めつけるという危険性をはらんでいる。
朝鮮半島なんかはまさにそれで、文正仁はこの風潮を問題視しているし、モーゲンソーのイスラエルに対する見方もそうだ。
地政学ですらこの有様なのだから、神について考えずに無神論者でいることが不可能なように、学問のイデオロギーについても、切り離すことはできない。
むしろ、絶対視されるものこそ危険だ。
だけどこれは、「均衡を保つという責務から逃れられない」のであって、「均衡を保てる」ということにはならない。「保てない」と言っても良い。
なんというか、ここまで考えるのならばマキャベリが言うように嫌悪しながらも、どっちかに突き抜けても良いような気がする。
自分の影響下に置かれている概念は勝手にどっかに行ったりしないからだ。もちろん、比較による自己批判がない物は「間違っている自分を意識していない」ので問題外だが
