似たような言葉だが、預かり所は正反対である。
「神は死んだ」
ニーチェ(1844-1900)の「ツァラトゥストラはかく語りき」での有名な言葉だ。
啓蒙の世紀に入り、軽んじられていく信仰、つまり擬似的に死亡した神、しかし神が死んだのならば、我々は何に従って生きていくのだろう?
ニーチェは自分の全ての行動を自らの意思で、自らが統率することに人の行き着く先があるとした。それが超人(Übermensch)の概念だ。
人助け、残酷、仕事、食事、性行為・・・全てが自分の考えであり、それに答えが出せる。無意味に行うことはできない、神がいないのだから。
2001年宇宙の旅はこの「超人」の世界を描いた。

超越者というのは「transcendentalism」の言葉だ。
この考えは19世紀前半のアメリカで興隆した。これよりは少し前になるが、白鯨のハーマン・メルヴィルなどはまさにこれだ。
プロテスタントというと、ピューリタンのイメージが高等教育のせいでつきがちであるが、これよりもなんというか野心的で冒険的である。
超越主義というのが、どういうものかというと、別に宗教的なことに限ったことではない。
例えば。困っている人を助けたとする。それで「なぜ助けたのか?」と問われる。それに「人を助けるのに理由はいらない」と言うのがプロテスタントだ。
つまりは、考えるより先に道徳がくるのならば、これは人の中に無償の愛を授ける神が宿っている(一体化)に他ならないという解釈なのだ。
そしてこの道義は宗教・人種の垣根を超えることができるし、過去・現在・未来どの次元の人間の中にも確実に存在し、人だけでなく自然の中にも、生命全てに存在する、「永遠の一つ」だ。
ならば、この意識にさえ従っていれば、最終的には神に行き着く・・・とまではいかなくても、限りなく近づける、これが「超越主義」である。
宣長学で言えば、この意識は「真心」となる。次元の概念も「上代」と「後代」という言葉で表現されている。
異なる点は、これは「皇国心」にのみにもたらされ、つまりは天照大神も絶対的一君主も存在しない外国には具現化しようがない、という「日本至上主義」の考えと直結していることだ。
道教ならば、それは道(タオ)で、この真理に達するのが「仙人」だ。ここらへんは特に誤用が多い気がする。
しかしどうも、これが儒教に覆いかぶさってくることはほとんどない。いやそもそも、道教の反対側に儒教が存在しているわけではない。儒教は特殊だ。話が長引きそうなので置いておくが
では、仏教ならどうか、もっとも仏教はかなり多様な解釈があるが、一つの答えとしては(具体的に言うなら大谷学派)、まず人間は「自力」で悟りを為そうとする。しかしほぼ必ず壁にぶち当たる。
それは人にとって不可能に近いからだ。そして「無力」を味わう。そして、その限界に達した先に「他力」との出会いがある。こういったロジックだ。

もはや、「シンギュラリティ」の提唱でこの行き着く先は、夢物語などではなくなってきた。遠からず必ず行き着く。
だとするなら仏教でいう「壁」は、超えつつあると言っても良い。問題となるのは、我々は一体超人になるのか、それとも超越者になるのか
しかし、過程はかなり違うとは言え、終着は似たり寄ったりなのかもしれない。