三島由紀夫「金閣寺」の「認識か行動か」の俺なりの解釈。 | ドラマーヨネの気まぐれな日記。

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先日、作家の三島由紀夫の著作である『金閣寺』を読んでみました。この小説は1950年に実際に起きた"金閣寺放火事件"(ケガ人や死者無し)をモチーフとした作品となり、三島が1958年に発表した三島の代表作の1つで、海外からも高い評価を受けている作品です。












大まかな設定や舞台は実際と同じものとなりますが、放火に至った経緯や登場キャラの思想、ストーリー中に起こった出来事などは架空のものとなるようです。












この本を簡単に紹介しますと、金閣寺の僧侶で重度の吃音症である主人公・溝口は父親から「金閣寺ほどの美しいものはこの世にはない」と教えられ、本人にとって金閣寺は絶対の美の象徴となります。吃音症のため自分の内面と外界(社会)とがうまく繋がれず、自分が世界から拒まれていると孤独を感じるようになります。溝口は常に"観念の美"として自己を支配していた金閣寺を焼くことで、自身の内面に存在する虚無を打ち破り、「生きよう」とします。














この『金閣寺』という小説の中で最も象徴的であろうと思われる、『認識か行動か』の話。金閣寺の見習い僧侶で大谷大学の学僧である溝口は学内で先天性内翻足である柏木という男と出会います。柏木と同じ障がい者である溝口が現実世界と向き合えずに自身の観念の象徴を金閣に求めるのに対し、自身の存在の象徴は自身の内翻足でありそれを武器としながら現実世界と対峙せんとする柏木は溝口とは対照的な存在と言えます。この柏木の有名なセリフ「世界を変えるのは認識だけだ」。












それに対し溝口は「世界を変えるのは行為なんだ」という。












この小説を通じて三島由紀夫がおそらく最も言いたかったことは(本とは別の三島の思想も加味して)、今の憲法(9条)と現実の日本のことなのではないかと思っています。今の憲法のままで日本に対する認識をいくら変えても現実世界は変わらない。結局憲法が変わらないままでは認識をいくら変えたところでそれはゴマカシとも言える。行動(憲法改正)を起こさず認識による世界の変貌は結局同じところに戻ってくる。行動(憲法改正)を起こすことで日本は変わりその世界が変わる、ということを三島は言っていたのではないか。



と言っても、認識を変えることが全く意味をなさないわけではない。世界は変わらなくとも、認識を変えることで自分自身が変わることはある。よく聞くのは、思い悩んでいたことが考え方を少し変えるだけで気持ちが軽くなりむしろ人生が好転する、というようなこと。例えば自分の見た目で自信のないところがあってもそれをコンプレックスと取るのではなくチャームポイントととる、みたいな。そういうのは俺としては有益なことだと思いますね。



憲法に対する認識をいくら変えても、自衛隊は国軍とはならない。憲法に対する認識を変えるのではなく行動により自衛隊を国軍とするべきである。と、三島は言いたかったんじゃないかな。





《参考》三島由紀夫−檄 Wikipediaより。