その時その瞬間に書き留めることの効用 | 思索の森

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「労働する思索家でないとダメ」という恩師の言葉は、自分の人生を生きていくうえでの、とても重要な意味を持っている。日々の想いを綴っていきます。

自分を誤魔化しそうとする自分。自分が自分を誤魔化している。


他人を自分が誤魔化すこともあるが、他人が自分を誤魔化すこともある。だけど、他者との関係性においての誤魔化しは、隅に置いておこう。


少なくとも自分がそうした誤魔化しをしなければいいことだ。


結局誤魔化している自分のことには自分が気づくし、他者の誤魔化しにもおそらくは気づいている。


ということは、誤魔化してもそのことは気付かれているということだ。


とってもシンプルな話しで、誤魔化している自分に気づいている自分がいるという事実が、そこにはある。


素直に、その場で、生きた反応をできない自分。


できないのではなく、していないのだ。


自分を守っている。傷つくのが恐いから。


反応を伺って、返ってくることに素直に返せない自分。


この正体は何者か。一体、何をそんなにもキープしようとしているのか。


間違いなくキープしようとしているものがある。


破壊しようという意志がなく、本当のことを言って決まったことで壊れる関係性。それは壊れるべきして壊れる。


創造的な展開の前に起こる破壊は、創造的な展開を孕んでいる。


そうした希望のある破壊なのかどうか。もちろん当人はそのことに気づくことはできない。


渦中にある以上は、そこのジャッジをできるような状況にはいない。そういう立場にもいない。


何がその後起こるかは、誰にもわからないからだ。


だけど、そうした破壊の後の想像には、何物にも変えられない豊かさがある。


そうした豊かさを信じることができるのか、そもそもそんなものは幻想であるのか。


自分の中でそのことははっきりとしている。はっきりしているはずである。


感じていることに素直に、感じていることを尊重すること。


言い訳とか、誤魔化しをしようとする自分はどこからともなく出てくる。


だけど、感じていることにフォーカスを戻して、そのことについての解像度を上げていくこと。


その先にしか豊かな世界はない。


どこまでが取る本当で嘘なのか。そのことを吟味する自分。


冷静さや客観性をキープしていないと、ついつい陥る構造。


慌てずに今の状況を見つめ、その上で感じていたことなのか、感じていることなのか。


いつどこでのことか、一つ一つを紐解いていくこと。


すぐには答えを出せなくても、問いを持ち続けること。


このことを自問すること。そのことをキープして、取り組み続けること。


根気強く、自分に誰よりも正直であること。まずはそうではない自分の存在を認めること。弱さを認めること。


こうして感じ考えていることも、書き留めないとどこかに消えてしまう。


なかったことにしない。まずはそこからだ。


その事実から始めていくこと。