思索の森

思索の森

「労働する思索家でないとダメ」という恩師の言葉は、自分の人生を生きていくうえでの、とても重要な意味を持っている。日々の想いを綴っていきます。



8月に入りましたね。なんか7月はあっという間に過ぎ去ったように思います。

6月までとは違って、締め切りのあるものが仕事だったり職場の組合でも多かったので、常に何かの締め切りに追われているという感じでした。それでも美術館や画廊には、隙間時間を見つけてたくさん行くことができたのはよかったです。

8月1日(土)は、渋谷の松濤美術館で開催中の「没後50年 髙島野十郎展」に行ってきました。

企画展が始まった初日に行って、今回が二回目となりましたが、展示内容が前期と後期で替わるということで、観ておきたいと思いました。

数年前に高崎市美術館で初めて観てから、去年は千葉市立美術館で一回、名古屋や大阪、福岡での巡回には行くことができませんでしたが、東京に来てから二回ということで、僕の中では一番回数を多く作品を観ている画家になったように思います。

前期のみ展示の作品は16点で、事前に検索して出てくるものは画像で観たりしておいて、重点的に16点を観ました。

一周目は1つ1つの作品をすべてじっくりと観ましたが、キャプションにある通し番号を確認しながら、前期しか展示しない作品を展示リストで確認しながら観てまわりました。

普段はあまりタイトルを意識することは少ないのですが、今回は入れ替わる作品達をしっかりと目に焼き付けようと思いました。展示リストに作品ごとの特徴や僕自身が印象に残ったことをメモしました。

今までにやったことのない作品の見方でしたが、集中して観る作品を絞るということもなかなかよかったです。

前回作品を観た時に、目の前にあるものを描いているということが、なんかスッと実感できるようなそんな感覚がありました。それ以前は、どの作品も隅々まで緻密に描かれているということにただただ圧倒されていました。


でも、今回は、作品ごとに緻密さにも濃淡はあって、緻密さというよりも、描いている風景だったり人物、そのこに描かれているものから伝わってくる雰囲気を描いているのだというふうに思いました。

菜の花の作品は、一面に菜の花畑が描かれているのですが、そこには蝶々が舞っている様子が描かれています。これまで観た時には、蝶々がいるくらいにしか思っていませんでしたが、その光景を観ている時に、飛んでいる何匹かの蝶々が戯れている様子を描いた作品なのだと、その瞬間を捉えたのだというふうに思いました。

歩いていたり日々の中で目にする景色で、いいなと思った時に立ち止まってスマホで写真をよく撮るのですが、肉眼で見た美しさと同じものが写真に収まるわけではないということを、写真に撮ったものを見ながら描くのと、対象を目の前にして描くのとでは、まったく違った体験なのだということが、ここ最近になってようやく実感としてわかってきたような気がします。

その時に目にした、その瞬間を絵に描くこと。川の流れや海の波も、ずっと同じように見えても、次から次にやってくる。また雨や雪、四季ごとの様子なども、この世界の普遍と無常を描いているのだろうと思いました。これまでに展示の解説文などで目にした言葉の一つ一つが、実感を持って捉えることができてきているのかもしれないなと思います。

休憩を挟みつつも美術館に3時間ほどいましたが、見終わるということがなく、何周でも何度でも見たい。ずっと一つの作品の前にしても飽きない。そんな感覚が日に日に増しているように思います。


帰ろうと決めないと、ずっと休憩を挟んでは観るということをできてしまう感じがあるのはとても興味深いことだなと思います。それだけ魅了されているということなのだと思います。観ることもかなりエネルギーを使うので、時間で区切って帰ることにしました。

数日後からは後期の展示が始まるので、また観に行きたいと思っています。