○新紙幣の顔、知られざる一面
◇日経新聞 2024.6.30(日)朝刊
26面「科学の扉」記事より
〖 選べなかった科学者への道 〗
〖 新5000円札の顔・津田梅子の葛藤 〗
〖 生物学者として嘱望された 〗
7月3日、新しい紙幣の発行が始まる。新5千円札に肖像が使われる津田梅子は津田塾大学の前身の女子英学塾を創設し、女子高等教育の先駆者として歴史に刻まれている。
実は2度目の米国留学で生物学を学び、研究者として将来を嘱望されていたことは知られていない。生物学者を選べず、教育者として生きた背景には何があったのか。
1894年、英国の学術誌に梅子の論文が掲載された。米ブリンマー大学で指導を受けた准教授(当時)のトーマス・モーガンと、カエルの受精卵が細胞分裂する際に生じる溝や肛門のもとになる組織と色素の位置関係を調べた。
大阪医科薬科大学の秋山康子非常勤講師は「遺伝子やDNAの存在がわかっておらず、実験手法も確立していない時代に丁寧に観察し、分析している」と感心する。
当時、海外の学術誌に日本人の論文が載るのは珍しく、女性としては初めてだ。モーガンは「梅子のおかげでまとめられた」と語った。梅子の担当した部分はほぼそのまま使われた。秋山氏は「論文はこんな風に書くのだなと改めて感じさせるような文章」と話す。
梅子は71年、6歳で日本初の女子留学生のひとりとして渡米した。17歳で帰国すると、英語教師として華族の子女に教えた。しかし、良妻賢母を育てる学校の方針などに不満を抱き、再留学を目指す。女性でも学問ができるのか、試したいという思いがあった。
89年、東部のブリンマー大で2度目の留学生活を始めた。最初は教育法を学ぶつもりだったが、勃興期にあった生物学と出会う。梅子は最初の留学時、高校でも数学や物理、天文が得意だった。科学史家で日本大学教授などを務めた古川安氏は「農学者の父親の影響もあった」とみる。
関係資料を調べた古川氏によると、モーガンをはじめブリンマー大の教授陣は梅子の研究や学問への姿勢を激賞していた。手先が器用で分析力が高かったという。講師だったフレデリック・リーは「非常に優れた知性と科学的才能を発揮した」と評価している。
帰国前、梅子は大学に残って研究を続けるよう打診される。古川氏は「残っていれば、奨学生となり、モーガンの下で博士号も取得しただろう」と指摘する。しかし、申し出を断る。梅子の学友で、後に来日して女子英学塾を支えたアナ・ハーツホンの手記によると、ブリンマー大幹部は「信じられないという反応を示し憤慨していた」という。
教師を休職し、国費による留学で、我が道を行くことは難しかっただろう。女性の地位向上には高等教育が不可欠と考えていた梅子にとって、米にとどまるという選択肢はなかった。古川氏は「梅子のモラルが許さなかった」と分析する。
当時、日本では女性が科学者となる道は閉ざされていた。帰国すれば科学の道をあきらめることになる。葛藤はあったようだ。帰国後も東京帝国大学教授の箕作佳吉の助言を得ながら、しばらく研究を続けている。モーガンにも状況を伝える手紙を書いた。その返信でモーガンは「米に戻ってこないか」と誘っている。
モーガンはその後、コロンビア大学に移り、ショウジョウバエを使った染色体の突然変異の研究で1933年のノーベル生理学・医学賞を受賞する。弟子や孫弟子のノーベル賞受賞者は8人にのぼる。梅子の同級生らは、女性科学者の先駆けとして活躍した。古川氏は「梅子もそれなりに大成しただろう」と話す。
もうひとつの道を選んでいたら、女性科学者のパイオニアとして紙幣の顔になったかもしれない。しかし、日本社会にこれだけ影響を及ぼすことはなかっただろう。
(~中略~)
梅子は女子英学塾での科学教育にも意欲を持っていたが、資金難で存命中は実現しなかった。それから1世紀、女子の高等教育の環境は大きく改善した。とはいえ、理工系の大学に進む女子の比率は先進国では最低だ。社会も保護者も生徒も意識を変える必要がある。梅子もそれを望んでいるだろう。
(編集委員 青木慎一)
(写真:)
〖 日本人女性初の学術誌掲載 〗
1894年に英国の学術誌に掲載されたモーガンと梅子の共著論文と、梅子による論文の下書きとカエルの受精卵のスケッチ
〖 ブリンマー大の評価 〗
・「優れた知性、科学的才能を発揮した」
・受精卵の観察研究は「特筆に値する」
・米国に残って研究を続けるよう提案
〖 モーガンの手紙(1893年10月14日)〗
「米国へ戻ってこないか、可能性のある研究なので続けてほしい」
【キーワード】「日本の女性科学者 大正時代に登場」・・
明治維新後、日本は西洋の科学技術の導入を目指した。その中心になったのが7つの帝国大学だが、女子は受験できなかった。女子の入学が認められたのは1913年、東北帝国大学だ。
大正時代に入ると、女性科学者が登場する。植物学の保井コノが東京帝国大学で研究を続け、27年に女性初の博士号を取得した。東北帝大出身の黒田チカは29年に有機化学の研究で博士になった。緑茶のカテキンを発見した農学博士の辻村みちよ、医学博士をドイツの大学で取得した宇良田唯、女性医師第1号の荻野吟子らが大正末から昭和の初めにかけて活躍した。
(引用終わり)
明治中期、日本の科学界が飛躍的に発展しようとしていた時代。西洋の数段進んだ学識を貪欲に吸収した明治初期を経て、広い世界に飛び出し顕著な成果を上げる日本人科学者もポツポツと出始めていた。
しかし、上記記事にある津田梅子の科学者としての萌芽は、相当に早い時期のことである。2024年7月3日からの新紙幣発行で同じく新1000円札の顔となった北里柴三郎、その病医学・細菌研究の大成と同じくらいのタイミングだ。
ご存知、津田梅子は6歳の幼さで国家留学生として海を渡り、また長じてから2度目の海外留学に旅立った。最初の留学時に実践での英語学習と高等教育を受け、研究者となれる素地は出来ていたのだろう。
だが同時に、欧米でも女性科学者の存在や先進的な女子教育がまだまだ希少で、大きな逆風にさらされた時代でもあった。その中にあって生物学者としての大器の片鱗を覗かせ、有力学者に才能を惜しまれた梅子の才気は飛び抜けていたのだろう。
帰国に際し、そのままアメリカに留まって一人の研究者として立つか、日本に戻って女子教育普及に専念するかで大いに迷う。帰国後にもまだ、2つの道の狭間で逡巡する様子が見られたという。
だが最終的には教育者の道を選ぶ。個人としてのキャリアを捨て、公人として大きな一歩を踏み出した。その後の活躍は皆が知るところである。
もしかしたら、「国費で2度も留学したのだから公益に資する道を選ばねば」「日本の女性の地位向上の為に生涯を捧げたい」というしがらみや責務感もあったのかもしれない。
しかし現実の選択自体は思案を重ねた上での、梅子の自由意思に基づく決断だったのだろう。そこに善悪はない。ただ、女子教育の先駆者が現れる代わりに、女性科学者の草分けの可能性が失われただけである。重ねて言うが、そのこと自体に善悪はない。ただ偶然その道が開け、結果として日本の女子高等教育はようやく軌道に乗ることになった。
津田梅子の人生の決断に対しては本人以外の他者がとやかく言う筋合いはないが、少なくともその教育事業への貢献は大だと言えるだろう。
◇参考図書
『津田梅子 科学への道、大学の夢』古川安 東京大学出版会 2022年
◇参考サイト
東京新聞 上掲書関連記事
◇NHK BS『英雄たちの選択』
「女子教育のその先へ - 津田梅子、科学への夢と葛藤 -」
では次のようなケースは、どうであろうか?
○原子核分裂を発見した女性科学者
◇日経新聞 2024.5.26(日)朝刊
26面「科学の扉」記事より
〖 ノーベル賞に嫌われた「原爆の母」〗
〖 選考過程の黒歴史、近年見直し 〗
〖 差別と闘いながら物理学に足跡を残した 〗
「原爆の母」と呼ばれた女性科学者がいた。オーストリア生まれのリーゼ・マイトナーは核分裂の発見者の一人で、物理学と科学で計31回ノーベル賞候補に推薦されながら、受賞できなかった。女性でユダヤ系という差別に加え、スウェーデン科学界の派閥争いで不当に除外された。ノーベル賞の黒歴史でもある。
「原爆の父」と呼ばれた米科学者を描いた伝記映画『オッペンハイマー』で、若い科学者が新聞を手に理髪店を飛び出す場面がある。当時、強固な原子核は分割できないと考えられており、核分裂発見のニュースに興奮していた。この成果をきっかけに米国をはじめ世界は原爆開発に動く。
映画では、オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンのドイツ人科学者の名前が出る。史実としては正しくない。米サクラメント・シティ・カレッジのルース・ルイン・サイム名誉教授は「マイトナーが出ないのは問題だ」と憤る。
1938年、ハーンらはウランに中性子を照射して重い元素をつくろうとした際、軽いバリウムが出てくることに気づいた。だが化学者なので、原子核で何が起きているのか見当がつかなかった。そこで、ナチスによる迫害を逃れるためにスウェーデンへ亡命したマイトナーに頼った。2人は元同僚で、長年の共同研究者だ。手紙をやりとりしながら研究を続けていた。
マイトナーはウランがバリウムとクリプトンに分裂するのなら説明可能と気づき、おいのオットー・フリッシュと論文をまとめた。バリウムとクリプトンを足してもウランより軽いが、分裂時に放出されるエネルギーが質量の減少分に相当することも突き止めた。核分裂という言葉を使ったのはマイトナーだ。開発には関与しなかったが戦後、米メディアから「原爆の母」と呼ばれるようになる。
ハーンは優れた実験家で、マイトナーは鋭い洞察力を持つ理論物理学者だ。二人三脚だったからこそ様々な成果を出し、何回もノーベル賞の候補に推薦されている。核分裂については39~45年の7年間に、2人は物理学と化学でそれぞれ3回、ノーベル賞の候補に一緒に推薦された。
しかし、受賞したのはハーンだけ。44年の化学賞で論争になり、1年遅れで選ばれた。マイトナーはその後も候補になるが、受賞はかなわなかった。サイム名誉教授は「様々な要因が重なった」と分析する。
他の研究者と協力し、20世紀末に公開された選考資料を調べた。名声を独占したかったハーンの姿勢に加え、選考委員会の体制や勢力争いも大きいとみる。
化学賞の選考委員はマイトナーの物理学的な業績を評価できず、ドイツとの関係が深い委員長がハーン単独の受賞を望み、議論を仕切った。物理学賞については、当時の委員の構成が実験重視だったことに加え、マイトナーを嫌う委員がいたことも響いたという。
サイム名誉教授によると、マイトナーに研究費が集まって影響を受けると恐れた委員がいた。「スウェーデンへの亡命が悪い方向に働いた」と分析する。
ハーンは女性差別が根強かった時代にマイトナーとの共同研究を始めるなど進歩的な考えを持っていた。ナチス政権下でマイトナーの名前を論文に載せなかったのは、苦渋の判断だった面もある。マイトナーは「助手の一人」で科学的な貢献は軽微と主張し、戦後も変わらなかった。
マイトナーは表立ってはハーンの単独受賞に異議を唱えなかった。米伝記作家のマリッサ・モス氏はマイトナーが残した手紙やメモを調べたところ「成果を否定されたことに深く傷ついていた」と指摘する。マイトナーはフリッシュへの手紙で「委員会が賞を与えない決定をしたのは、ハーンの姿勢に感化されたのだろう」と書いた。
ノーベル財団は2020年、公式X(旧ツイッター)で、核分裂の発見者をハーンとマイトナーの2人と認めた。しかし、ハーンの背後にマイトナーが立つイラストを添えていたため、批判の声が多数あがった。
マイトナーの他にも、ノーベル賞を受賞しておかしくなかった女性科学者は何人かいる。歴史の検証にたえうる選考を心がけることが委員たちに求められる。
(編集委員 青木慎一)
(写真:)
〖 主な研究成果 〗
・核分裂の発見
・新元素プロトアクチニウムの発見
・中性子が陽子になるベータ崩壊の研究
(マイトナー年表:)
1878年 オーストリアのウィーンで生まれる
1901年 ウィーン大学物理学部に入学。06年に博士号
07年 独ベルリン大学でハーンと原子核の研究を開始
15年 第1次世界大戦に看護師、X線技師として従軍
24年 ノーベル化学賞の候補に
26年 ベルリン大教授職に昇進
33年 ナチスが政権を握り、教授職を解かれる
38年 スウェーデンに亡命
39年 「核分裂」を理論的に説明する論文を発表
45年 ノーベル物理学賞に推薦されるが、ハーンだけが44年の化学賞を1年遅れで受賞
46年 全米女性記者クラブの「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」
68年 移住先のロンドン郊外で死去
97年 109番元素が「マイトネリウム」と命名される
【キーワード】「ユダヤ系科学者と原爆開発 米国亡命者の多くが参加」
米国の原爆開発「マンハッタン計画」には多くのユダヤ系科学者が参加した。主導したロバート・オッペンハイマーをはじめ多くのユダヤ系米国人、エンリコ・フェルミやニールス・ボーアなどの亡命科学者も加わった。アルバート・アインシュタインも計画には参加しなかったが、米大統領に開発を促した。
マイトナーは打診を受けても参加を拒み続けた。米国の記者に「原爆については、私よりも米国の人たちがよく知っている」と語った。ロンドン郊外のマイトナーの墓には「人間性を失わなかった科学者」と刻まれている。
(引用終わり)
映画『オッペンハイマー』の裏で進行していた、原爆開発を巡るもう一つの科学史ドラマである。オッペンハイマー自身も優れた物理学者であり、原子爆弾理論を現実化して爆弾を完成させたのは確かに彼と彼が率いたプロジェクトチームではあるが、原子力のそもそもの基幹である「核分裂」現象を発見し理論化したのはこのリーゼ・マイトナーなのである。
1938年に現象を確認、助言を求められたマイトナーが仕組みを究明し、それを基にまとめた論文が翌39年ドイツで発表されると、世界は驚き大きく動揺した。それまで原子核の変性に対して可能性の示唆に留まっていた原子力研究が急展開を見せ、机上の論だった原子爆弾の存在がにわかに現実味を帯びたのだ。
しかもそのニュース発信の時と場が、第二次世界大戦の勃発した年に当の開戦国のドイツからのものであった、というのも世界中を震撼させた。核分裂現象の発見で研究において一歩先んじる形となったドイツは当然、究極の戦略兵器としての原爆の開発も加速させるだろう。もしドイツがその開発に成功すれば、世界はナチス・ドイツの手に落ちるのではないか・・?
その切迫した危機感からアメリカは大規模な原爆開発プロジェクトを急遽立ち上げ、国の全面的な後押しのもとマンハッタン計画は急ピッチで進められていく。
それに加えてオッペンハイマーを始めとするユダヤ系の科学者、またはヨーロッパ戦域からの亡命者たちの多くは、周辺国へ瞬く間に侵攻しユダヤ民族を虐殺して回るナチス・ドイツを何とか食い止めようと、使命感を持って計画に参集していた。しかし完成したその矛先はナチス・ドイツの降伏後、日本に向かうことになるのだが・・・。
さて、オッペンハイマーがマンハッタン計画責任者になったのは、彼が「自分のものだけでなく他人の研究成果でも一瞥しただけで深く理解し、また他の者に向けて分かりやすく説明する能力に長けていた」からだと言われる。ただでさえ難解で極小空間の絵空事のような原子核理論を、政治向けに調整してアピールするのにうってつけの人材でもあったのだろう。
ただ、あくまでオッペンハイマーは実験実証の面での達成者である。彼の名績も、マイトナーの初期理論構築の功績なくして語ることはできない。そして両者の違いはもう一つ、原爆開発を主導した者と、そこから距離を置いた者という差である。
米国在住のオッペンハイマーと、スウェーデンに亡命していたマイトナーでは事情もだいぶ異なってはいただろう。理論は既に確立され、あとは実地での爆弾開発が課題となっていた状況では、遠隔地の理論学者への協力要請はそんなに熱心ではなかったかもしれない。
しかしマイトナーは招聘の打診を断り続け、反対にオッペンハイマーは原爆を完成させ広島・長崎に落としてしまった後で苦悩した、という2人の軌跡の大きな違いは明記していいように思う。
そんなマイトナーにとって「原爆の母」という後付けのアダ名は不本意なものだったかもしれないが、核分裂現象の発見がその後の原子力研究とエネルギー利用の展開に繋がっていく、その功績が大であることは確かだ。だがそれだけの貢献を世に知られながらも、ついに公に顕彰されることはなかった。
人種・政治・時期など様々な要因が絡んだものではあるが。女性であったことがノーベル賞の受賞を逃した理由の一つに数えられるというのは、これは悪い事例と言っていい。ノーベル賞選考の負の歴史だろう。
ノーベル化学・物理学賞の受賞者に女性科学者が皆無、というわけではない。偉大なマリ・キュリーは2度の栄誉に輝き、早々に偉人伝の列に加わっている。
近年ではノーベル賞だけでなく他のフィールドでも女性の顕彰者が増え、業績評価の基準がようやく対等に近づき始めた感がある。
◇児童書
『リーゼ・マイトナー 核分裂を発見した女性科学者』マリッサ・モス 岩波書店 2024年
◇参考サイト
中部原子力懇談会「シリーズ偉人たち」
そして、今まで顕彰されるべきなのにされてこなかった偉大な女性科学者たちの背後には、更に多くの、科学に携わった無名の女性たちの隠れた尽力があった。
○近現代科学を下支えしてきた多くの理系女性たち
◇読売新聞 2024.6.29(土)朝刊
21面「くらしサイエンス サイエンス Report」より
〖 国際観測支えた「計算の神様」〗
〖 岩手・緯度観測所の飯坂タミ子 〗
〖 昭和初期、14歳から8年勤務 働きながら猛勉強 膨大データ、ミスなく処理 〗
〖 初代所長の木村栄 女性採用進める 〗
計算の神様・・。日本の近代科学が発展途上にあった昭和初期、国際的な観測事業を担っていた岩手県の緯度観測所に、同僚から尊敬を込めてそう呼ばれていた女性所員がいた。女性が男性と同じように自然科学を学ぶ機会は限られていた時代。世界各地から寄せられる観測データを緻密に集計する重要な業務を任されていた。科学史研究の成果や遺品から、彼女の足跡に迫った。
(執筆 中根圭一)
同観測所の歴史を調査している名古屋大の馬場幸栄研究員(科学史)によると、「計算の神様」と呼ばれていたのは飯坂タミ子(1918~2010年)だ。14歳だった1932年(昭和7年)から8年間、同観測所で計算係などとして勤務していた。
週6日、はかま姿で通勤し、そろばんや計算尺、手回し計算器を駆使して、米欧などから寄せられる天体観測の膨大な記録を計算し、整理していた。「神様」の呼び名が付いたのは、一度も計算ミスをしたことがなかったためだという。
同観測所は明治時代に岩手県南部の水沢(現・奥州市)で開所した、国内で珍しい国際研究拠点だった。
しかし、日々膨大な計算をこなす必要があり、男性所員だけでは人手が足りなかった。そこで、初代所長の木村栄(きむらひさし)が頼ったのが、女性だった。木村は23年(大正12年)に女性所員の採用を開始。9年後、水沢で荷車を製造販売する商家の娘だったタミ子は、地元の尋常高等小学校で成績が良く、校長からの推薦で所員になった。
タミ子の最初の配属先は庶務課で、日給制でお茶くみなどの雑用が主な仕事だった。しかし、同じく尋常高等小学校を卒業し、数学者になることを目指していた先輩の男性所員に触発され、タミ子も働きながら猛勉強した。今の高校卒業と同程度の学力を認める「専門学校入学者検定」の数学科に15歳で、地理科には16歳で合格した。
間もなく計算事務助手となり、月給制になった。その3年後に勤務を命じられた「気象課高層気象掛」は、大気の流れや温度、湿度による天体観測への影響について研究する部署で、空に飛ばした巨大な風船の行方から、緯度や経度などを計算していたという。
馬場さんは「タミ子にとって、緯度観測所は知的好奇心を満たす夢の職場だったのではないか」と話す。
ただ、当時は結婚に合わせて退職する「寿退社」が一般的で、女性が長く勤務できる時代ではなかった。40年(昭和15年)、22歳となったタミ子は退職し、隣町に住む公務員の慶之助と見合いをして婿養子に迎えた。その後、家事と3人の子の育児に専念し、主婦として暮らした。
タミ子の子供たちの目には、「働く母の若き日」は輝かしく映る。タミ子の長女の平井美根子さん(79)は「計算に没頭していたことや、水素を詰めた風船を飛ばし、その行方を観測していた思い出を、よく目を輝かせて話していた」と振り返る。
タミ子は所長の木村から「虚心坦懐」と書かれた直筆の書を受け取っていた。「先入観を持たず、素直な心で物事に臨む態度」という意味があり、木村がタミ子の働きぶりを見て、書にしたためた可能性がある。美根子さんは宝物として、両親が建てた岩手県花巻市の実家に保管している。
馬場さんがタミ子の生涯を調べたのは、緯度観測所の史料を収集していた2015年、初代所長の木村栄とともにはかま姿の女性所員が並ぶ画像が写るガラス乾板を発見したのがきっかけだった。
木村は地元・水沢の学校と信頼関係を築き、毎年数人ずつ女性所員を採用していた。彼女たちは、タミ子と同様、数学や天文学の特別な訓練は受けていなかったが、先輩や上司から指導を受け、手回し計算器などの操作を習得していった。
同観測所では女性の勤務が定着。国立天文台に改組される1988年までの89年間に雇用された所員309人のうち、氏名から女性と推定される所員は約4割の119人に上る。
木村はマネジメント力も優れ、所員の家族への配慮も忘れなかった。天体観測は夜間に行われるため、所員と子の生活サイクルが合わず、親子が共に過ごせる時間は限られる。木村は毎年、家族とともに参加できる運動会を開き、交流を深めた。12年(大正元年)には幼稚園を開設し、子を持つ所員が仕事に専念できる環境づくりに努めた。
馬場さんは「科学の歴史について語る時、男性研究者ばかりにスポットが当たりがちだが、大正から昭和にかけて地方の少女たちが科学プロジェクトを支えていた事実は近代科学史の1ページとして語り継がれていくべきだ」と話す。
〖「計算の神様」と呼ばれた飯坂タミ子と緯度観測所の歩み 〗
1899年 緯度観測所が岩手県の水沢に設立
1923年 初代所長の木村栄が女性所員の採用開始
32年 タミ子が14歳で緯度観測所に勤務。その後、専門学校入学者検定の数学科と地理科に合格
34年 計算事務助手に着任。以後、気象課も経験
40年 退職。翌1941年に結婚し、家事や育児に専念
88年 緯度観測所が国立天文台に改組
【緯度観測所】・・
1899年に開所。地球の自転軸が少しずつ移動するために、緯度が周期的に変わる「緯度変化」の正確な把握やその原因の究明を目指し、米国、ロシア、イタリアにある5か所の観測所との国際緯度観測事業に参加した。初代所長で天文学者の木村栄は、地球の緯度変化を計算する公式に加えた「Z項」を発見し、1937年に第1回文化勲章を受章した。
(引用終わり)
こちらは映画『ドリーム』を彷彿とさせる、世界の科学の発展に寄与してきた女性たちの未だ日の目を見ぬ功績を発掘するものだろう。
能力云々の遥か前に、近代の女性たちはまず高等教育に触れられる機会が極端に少なかった。差別意識は社会に根強くはびこり、「家」や「男尊女卑」の規範に縛り付けられざるを得なかった女性たち。
先端の科学研究に携われる女性はほんの一握り、それも謂われない偏見を時に受けながらの過酷な道。
そして専門の研究者にはなれなかったけれど、仕事として実験や計算を手がけ、科学を下支えした女性たち。特にコンピュータの無い時代、膨大なデータを手作業で処理する堅実な担い手の存在は欠かせないものであったろう。
◇参考番組
IBC岩手放送 特別記念ラジオドラマ『計算の神様』(2023年放送)
◇Web「アストロアーツ」
上記ラジオドラマ関連記事
一人の研究者として抜群の成果を上げた女性科学者、また補助としてではあっても科学の歩みをアシストしてきた理系の女性たち。
彼女たちの存在はこれまで過去に埋もれがちであったが、近年の女性解放・フェミニズムの高揚を受けて歴史上の再評価が進んでいる。
この潮流にいち早く対応しているのは児童書・学習図書の分野だろう。2、30年前からは想像もつかないくらい、女性の偉人や現役の女性科学者を取り上げた書籍の刊行が目立つ。
っていうか読者層(及び保護者)の半分、ジャンルによっては過半数が女子学生・女性なのだから、そこに注力した出版戦略を練るのはごく自然の流れで。そう考えると今までが異常だったんじゃないですかね、伝記とかで取り上げる人物の男女比が「男:女=30:1」くらいだったでしょ、数十年前は。それに比べりゃ大いに改善してきていると思います。
◇『これマジ? ひみつの超百科⑱
成功? 失敗!? 科学のびっくり伝説超百科』ポプラ社 2020年
◇同『超百科』より引用
▼マーガレット・ハミルトン(p.28~29)
〖 あわや着陸失敗!? 人類を月面に導いた魔法のプログラム!〗
1969年7月20日、アポロ11号の乗組員ニール・アームストロングとバズ・オルドリンは人類史上初めて、月面に降りたった。しかしその直前、絶体絶命のピンチがあったのだ。
宇宙飛行士たちを乗せた宇宙船は月に向けて降下していた。そのとき船内のコンピュータがランプを点滅させ、緊急事態を伝えるメッセージを表示した。もし致命的なエラーが発生したのなら、着陸を中止しなければならない。船内に緊張が走る。
じつは、このとき表示されたエラーコードこそ、宇宙飛行士の命を救い、人類初の月面着陸を成功させた魔法のプログラムだった。
このプログラムを組みこんだのは、当時32歳のソフトウェア技術者マーガレット・ハミルトン。自動操縦プログラムの開発責任者で、とくに危機回避プログラムを担当した女性プログラマーだ。
マーガレットは、宇宙飛行士がキー操作をまちがえたり、プログラム自体にミスがあったりした場合に備え、緊急時には全プログラムを強制終了させ、最重要プログラムのみ再起動させるプログラムを書いていたのだ。
あとでわかったのだが、このとき月面着陸に不要なプログラムが稼働していて、コンピュータに大きな負荷がかかっていた。一度、強制終了しなければコンピュータがフリーズし、着陸はできなかったはず。マーガレットの用意したプログラムが、月面着陸を成功させたのだ。
「頭脳明晰・体力抜群の男性の中から選び抜かれ、更に厳しく鍛え上げられた宇宙飛行士は絶対にミスをしない」という大前提を疑い、「人のすることにミスは付き物」とミス前提で緊急回避プログラムを組み込んでいたハミルトン。
危機管理のプロフェッショナルであると同時に、当時の手探り段階だったコンピュータプログラムの技術水準にあって、緊急時でも適切に作動するコードをびっしりと書き上げた優れたエンジニアであった。
◇絵本『月とアポロとマーガレット 月着陸をささえたプログラマー』
ディーン・ロビンズ(著)/鳥飼玖美子(訳) 評論社 2018年
(*翻訳は鳥飼玖美子さん。1969年にアポロ11号が月面着陸したまさにその時、衛星中継を同時通訳してこの歴史的瞬間の詳細を日本に伝えた人である。)
コンピュータ関連とかプログラミングとか、この半世紀ちょっとで勃興してきた新しい科学分野において、女性の数学者やエンジニアの活躍がちらほらと見える。
時を遡るにつれて増していく女性軽視の風潮からバイアスが働いてその功績が過小評価されがちではあるものの、画期となる出来事において重要な役割を果たしたエピソードも多い。
前出の映画『ドリーム』で主役となった人物たちもその一例である。
◇同『超百科』より
▼キャサリン・ジョンソン(p.84~85)
〖 人種と性別のハンディキャップに打ち勝った数学者 〗
人類初の宇宙飛行をめざしてアメリカとロシアが技術を競っていたころ、NASAでは「人間コンピュータ」とよばれる多くの女性たちがはたらいていた。当時はまだ計算機がなく、数学が得意な人たちが複雑な計算をしていたのだ。その中でとくに優秀だったのがキャサリン・ジョンソンだ。それだけ頭がいいなら、給料が高くて、みんなに尊敬されていたにちがいない? いや、実際はその逆だった。
キャサリンは黒人女性。そのころ、黒人や女性への差別は今よりずっとひどかった。研究所では白人と黒人がはたらく建物が分けられており、黒人のはたらく環境はサイアクだった。当然、給料も激安。しかし、キャサリンはそんなハンデに負けず実力を発揮し、優秀な白人男性が多くはたらくグループに引きぬかれた!
新しい職場となる白人の建物では、トイレを使うことがゆるされず、トイレのたびに800メ-トルはなれた建物へかけこまなければならない。それでもキャサリンは、次つぎと実績を積み、白人男性からの信頼を勝ちとったのだ。
1962年に宇宙飛行士ジョン・グレンがアメリカ人として初めて地球のまわりを飛行したとき、NASAは電子計算機を導入していた。しかしグレンは電子計算機を信用せず、「キャサリンが計算しないと飛ばない!」と言ったという。よびもどされたキャサリンが計算したのを確認すると、グレンは安心して飛びたったのだ。
◇映画『ドリーム』(2016年)
そして、人類の宇宙進出競争から更に遡ることおよそ一世紀余。コンピュータの原型が生まれた19世紀半ば、それを動かすための命令を記した「プログラム」を初めて作ったとされるのも、女性であるという。
◇同『超百科』より
▼エイダ・ラブレス(p.68~69)
〖 初のプログラマーは夫をうらむ数学者の英才教育で誕生!? 〗
数学に没頭したエイダは、数学者チャールズ・バベッジと知りあい、バベッジが開発中の、自動で計算する装置「階差機関」や、さらに発展した「解析機関」に夢中になった。エイダはバベッジに弟子入りし、ラブレス伯爵と結婚後もバベッジの研究をサポートしつづけた。
そして解析機関を動かすためにつくったものが、世界初のコンピュータプログラムといわれている。結局、それらの機械は完成しなかったが、エイダは自分を「詩的科学者」とよび、コンピュータがいずれ音楽をつくるようになることを予言した。
◇絵本『世界でさいしょのプログラマー エイダ・ラブレスのものがたり』フィオナ・ロビンソン 評論社 2017年
男性優位とされてきた数学の歴史においても、優れた業績を残した女性数学者は少なからずいる。しかし同時に、昔日には「女が数学をやるなんて」という偏見と排除の目は常に注がれ、理不尽な非難を浴びて研究者の道を断念せざるをえない人も多かった。
しかし現在、その女性軽視の風潮は様々な人の継続的な努力によって幾分薄れつつあり、女性数学者の総数もどんどん増えてきていると思う。
ちなみに数学界の世界的な栄誉であるフィールズ賞、ここ10年ほどで2人の女性受賞者が出ている。マリナ・ビヤゾフスカ(2022年)、マリアム・ミルザハニ(2014年)。
折しもコンピュータの全盛期、AI開発の勃興期に当たる現代においては、女性科学者・数学者・エンジニアの躍進はこれから益々加速していくだろう。
しかも優れた女性プログラマーの存在は、歴史が証明している。もしかしたら未来の立志伝中の人物となるような偉大な女性プログラマーたちが、もう世界中で活躍を始めているかもしれない。
現代社会での女性の活躍に伴って、過去の女性科学者の業績の発掘・再発見、評価検証、改めての顕彰と報道の機会も増えていくものと思われる。
日本ではその最先端というか、新しい知見が最も早く取り上げられるメディアジャンルの一つは、やはり小・中学生向けの学習図書になるんじゃないかと思う。先だって引用しまくってるポプラ社『成功? 失敗!? 科学のびっくり伝説超百科』もお手頃価格の児童書だし、評論社の2冊は絵本である。
( それにしては細かい知識まで網羅しているが、最近の児童書も細部まで凝らないと販売競争に勝てないのかもしれない・・・。)
何はともあれ、子供も手に取りやすい児童書や絵本に女性科学者の詳しい記述がこれだけあるのだから、歴史に埋もれていた女性たちの輝かしい仕事がこれからどんどん知れ渡っていくだろう。
以前から伝記などでもお馴染みのキュリー夫人やナイチンゲール、彼女らの業績も最新の研究を基にバージョンアップされている。
キュリー夫人は従来の物理学・化学における実験研究の成果はもとより、第一次世界大戦中に前線でX線撮影機材を積んだ車「プチキュリー号」を乗り回して負傷兵の診療に奔走した、行動派の一面が話題に。
一方のナイチンゲール、野戦病院での献身的な看護から「クリミアの天使」と讃えられた看護師としての働きに加え、近年では後半生の中心的な仕事、軍人や政府高官を相手に統計学を駆使して病院の衛生環境の改善と看護師養成学校の必要を説いた「闘う統計学者」についての説明がなされている。
◇同『超百科』より
▼マリ・キュリー(p.54~55)
〖 プチキュリー号で大発進! 超行動派のあの人!〗
▼フローレンス・ナイチンゲール(p.96~97)
〖 じつはバリバリの統計学者! 「白衣の天使」の真実 〗
そのナイチンゲールとイギリスはロンドンの病院で出会い、交流があったとされるのがエリザベス・ブラックウェル。
◇同『超百科』より
▼エリザベス・ブラックウェル(p.86~87)
〖 友人の言葉に一念発起し、世界初の女性医師に 〗
医師は紀元前から存在していた。ところが、世界初の “女性医師” が誕生したのは、なんと19世紀半ばのことだった。
エリザベス・ブラックウェルは1821年イギリスの正義と平等を尊重する家族のもとに生まれた。一家は砂糖製造業を営んでいたが、エリザベスが11歳のときになんと火事で焼けてしまうという、甘さのかけらもない状況に。
その後、アメリカに移りすみ、エリザベスは教師になったが、24歳のとき、子宮がんになった知人に、「女性の医師がいれば恥ずかしい思いをしなくてすんだのに」と言われたのが転機となり、医師をめざしはじめる。
本を読んで必死に勉強し、入学希望の手紙を医学校に出しまくった。しかし、手紙を出した12校のうち、受け入れてくれたのはたったの1校。当時の人びとは、女性は仕事につくべきではないと思いこんでいたのだ。
入学後もいやがらせを受けたが、エリザベスは必死にたえ、なんといちばんの成績で卒業。1849年、世界初の女性医師として登録されたのだ。ところがその後、患者から感染した病気で片目の視力を失ってしまい、手術をおこなう医師になることをあきらめることに。
それでもエリザベスは信念を変えず、1853年にはニューヨークに貧しい女性や子どものための診療所をつくり、1868年には女性医師を育てるための学校を設立。道は少し変わっても、目標はしっかり達成したのだ。
【欄外メモ】
エリザベスが世界初の女性医師になったのは1849年。日本では1885年、荻野吟子(おぎのぎんこ)が初の女性医師となり、東京の湯島で産婦人科医院を開業した。
一人の女性の孤独な闘いが、後に続く何百万人もの女性医師の道を切り拓いた。その勇気は荻野吟子(おぎのぎんこ)らを通して日本の医学にも流れ込んでいる。
◇角川まんが学習シリーズ
『まんが人物伝 エリザベス・ブラックウェル 世界で初めての女性医師』2022年
◇同『超百科』より
▼ロザリンド・フランクリン(p.159)
〖 手柄の横どり!? 二重らせんより複雑な、疑惑の人間関係とは 〗
悲劇の女性科学者といわれるロザリンド・フランクリンは1953年、DNAの二重らせん構造の撮影に成功。構造解明のために多くの科学者がしのぎを削った時代だ。
ここで事件が起きた。フランクリンの同僚モーリス・ウィルキンスが、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックに、写真を無断で見せたのだ。この後、ワトソンとクリックはDNA構造についての論文を発表し、9年後の1962年、ウィルキンス、ワトソン、クリックの3人がノーベル賞を受賞。一方フランクリンは、1958年にがんでなくなり、受賞することはなかった。
細かい状況は分かりませんが、手柄の横取り疑惑云々はともかく。重大な発見を先んじて成し遂げた女性科学者の功績が、無にされたという悲劇が起こりました。
これがフランクリンが女性だったからなのか、それとも性別はあんまり関係なく、職場の情報管理や倫理規定に問題があったのか、それも不明。
しかし一人の女性科学者の功績が歴史の影に埋もれてしまったのは確か。科学史の中の不公平が見直されてきている今、再評価も進んでいくでしょう。
何より彼女には「DNAの二重らせん構造の撮影」だけに留まらない、その他多くの注目すべき研究成果があるのだから。
◇「Nature ダイジェスト」記事
「ロザリンド・フランクリンの遺産」
〖 ノーベル賞受賞をめぐる “悲劇のヒロイン” を超えた、フランクリン前半生の「石炭・炭素研究」と後半生「DNA・ウィルス研究」の広範な成果 〗
時代は移り変わる。女性に対するいわれなき偏見や差別を抑止し、「優れた女性」であることがマイナスとならない社会へ、各々が望む道へと自由に進める世の中へ。
その流れの中で、科学を志す女性たちを鼓舞するものの一つは、その道を先行く先輩たちの姿であろう。模範となる偉人伝や近い世代のモデルケースが増えれば増えるほど、それに続く者にも夢を抱くきっかけと挑戦し続ける勇気を与えるもの。
そのためにも女性史の充実と深化、女性科学者たちの再評価と業績の顕彰は、未来に向けて意義ある仕事となるだろう。