なんだよ、ちゃんと肉体あるじゃないか『ごめんねオデッセイ』 | 高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史レベルの人物を少し詳しく紹介する。なるべく入試にメインで出なさそうな人を中心に。誰もが知る有名人物は、誰もが知っているので省く。 たまに「amazarashiの歌詞、私考」を挟む。



◇八木重吉  詩稿「幼き歩み」より

▼『断章』

 わたしは弱い
 しかしかならず
 永遠をおもうてうたう
 わたしの死ぬるのちに
 かがやかぬ詩(うた)なら
 いまめのまえでほろびてしまえ

▼アルバム『永遠市』より
 amazarashi『超新星』

〈失ったらもういいぜ
 僕だったら超新星
 眩しく輝いて
 消えても消えない夢
 駄目だったらもういいぜ
 灰になれ超新星
 目が眩む残像を
 空の隅に残す
 見上げてくれ葬式で 〉




◇『八木重吉詩集』白鳳社 1967年

◇『永遠の詩 08 八木重吉』

 というわけで、amazarashiライブ映像作品『永遠市』リリーーースッ!
 これに合わせてアルバム『永遠市』収録曲『ごめんねオデッセイ』のミュージックビデオが公開された!
 昨年後半のアルバム発表から微妙に公開時期をズラしてくるとは、緩急自在の変化球投手ぶり。さすがは『NieR:Automata』3連投ピッチャーのことだけあるぜ! 神様仏様秋田様、バンド、バンド、雨、amazarashi(←かなり古い野球ネタです)。


 ウヒョーーーッ、たまらんぜコレはァ!

 なんか賛否両論が湧き起こってるみたいですが、私的には大好物でゲス。実生活にあるリアルな痛みをまざまざと見せつけてくる、巻き込み型の挑発作だと見受けます。

 キラキラしてねェ、むしろくすんでる。うまいこと生きてるようにはとても見えねェ、いっそ生き迷ってる。なんなら人生リセットしちめェそうな、うらぶれた顔が並んでらァ。
 だが、生きてる。染みッたれた日常がただただ延々続くだけの毎日なんだけど、その中でひたすら膿み疲れるばかりの人生なんだけど、それでも、その日その日を懸命に生きて歩き続けている。その俯いた顔につかの間だけ射す、まばゆい光。
 ただそれだけでいいじゃない、その生き足掻く姿こそが美しいじゃないか、と。


◇重吉詩集『秋の瞳』より

▼『胡蝶』

 へんぽんと ひるがえり
 かけり
 胡蝶は そらに まいのぼる
 ゆくてさだめし ゆえならず
 ゆくて かがやく ゆえならず
 ただ ひたすらに かけりゆく
 ああ ましろき 胡蝶
 みずや みずや ああ
 かけりゆく
 ゆくてもしらず とももあらず
 ひとすじに ひとすじに
 あくがれの ほそくふるう
 銀糸(ぎんし)をあえぐ

▼『ごめんねオデッセイ』
〈行けども 行けども
 降り積む雪ばかり
 終わりは見えない
 ごめんねオデッセイ
 あの春 眩い 淀みない灯火
 ここは寒い 
 ください ください
 木漏れ日を 木漏れ日を 〉




 おおっと、またついうっかり八木重吉の詩と並べてしまいましたが。まぁいいや。

 ともすれば観念的になりがちな『ごめんねオデッセイ』のサビの盛り上がり。ただ一念に駆け上がり、行く手も知らず歩みゆく姿は痛々しくもまばゆい。だがそれは、想念の気高さが持つ抽象的な輝きである。

 一方、日常を生きる私たちには、いかんともしがたい肉体が付いて回る。生きてくためには食わなきゃならねぇ、金を稼がにゃならねぇ、身体資本を切り売りして働いていかなきゃなんねぇ。
 あるいは、この国に生まれ落ちた時から行くことが定められてる学校とやらに通わにゃならねぇ。そこで同じような面子と一定期間、お揃いの行動を強いられて皆仲良く、今日も笑顔で爽やかに。テストだテストだ、強度耐久試験とか閉鎖環境試験かよ。

 気高い魂だけで生きていくってのもどんな塩梅だかよく分かりませんが、この地上で肉体を持って生きている以上、生身の労働や人付き合いは避けられない。そして肉体の傷、肉体を通して感じた精神の傷は、やはりどこまでも付いて回る。
 痛い、痛い、ただ生きてくだけで傷だらけ。肉体なんて無ければいいのに。しかし、その生身の肉体があればこそ喜怒哀楽の感情が生まれ、生の実感が灯る。それが大半は辛いものであっても。

 思うに任せないロクでもない世界を、どうしようもない自分が厄介な肉体を引きずって、とぼとぼ歩いている。とても人に見せられたもんじゃない、ちっぽけな日常。
 でも、その中にしか救いはないんじゃないだろうか。それを嫌々ながらも肯定し正面から見据えた時にだけ、そこにあるかすかな美しさにも気づける、かも?

 ん?  映像で「肉付け」しようとしたのか? 「amazarashi 秋田ひろむ個人の歌」を、「視聴する皆一人一人の自分事の物語」に拡張しているようにも思える。
 今を生きる一人一人の切実を血肉が忘れれば、発される言葉は真実を失う。

 観念的な魂の有りように肉体と生活のリアルな手触りを与え、また秋田ひろむの個人的な尊厳を多くの人の人生に開いて接続していく。表現者と生活者の間の垣根を取っ払ってくれるものでもあるでしょう。
 『ごめんねオデッセイ』ミュージックビデオは、そんな試みをしていると考えます。

 少なくとも私ァ、映像の中に過去と現在の自分を見つけましたよ。それにこれを観たことで、本曲のサビ以外の部分の歌詞をより自身に引き付けて実感できた、意味が肚に落ちたとでも言いますか。
 いや~歌詞覚えんのサボって後回しにしちゃってたんですが、MVの残像を頭に残したまま曲聴き直したらマジですいすい暗記できやす。

 そのMVは大量の写真を並べ繋げて5人の人物の生活を描くオムニバス形式。ご覧のように現実の辛さや痛みに耐えて日々を送る男女の、何の特別も転機もないしんどい日常が綴られる。
 だけれども、多かれ少なかれ、これが現代人のリアルな生活なのではないかと。SNSなどでは「映え」や「エモい」を狙って表面的に取り繕った「うまくいってる自分、絵になる自分」をアピールしがちだけれど、薄いフィルターを一枚めくればそこには汚さや怠惰、嫌悪や自責の後ろ暗い感情がわだかまっている。

 その生活の中の暗さ嫌さを丹念に赤裸々に描き出していって、しかし時おり差し込まれる木漏れ日のような淡い光。無原罪の白さ。
 何かが劇的に変わる訳じゃない、そんなに都合よく人生が好転したりはしない。しかし、その有るか無きかの一条の光があれば、どうにかして今日だけは生きられる。その繰り返しで命を明日に持ち越していく。


◇CLAMP漫画『東京BABYLON(バビロン)』より、桜塚星史郎(さくらづかせいしろう)のセリフ

 この世で一番偉いのは
 ちゃんと地に足がついて
 一生懸命 日々「普通」に
 「生活」している人たちです

 毎日早起きして
 毎日学校へ行って
 毎日働いて
 泣いて笑って悩んで苦しんで
 一生懸命「現実」を
 「生きて」いる・・・



 唐突にCLAMP漫画を持ち出しましたが、ただ単にCLAMPの初期作品が好きなだけでヤス。世紀末の頽廃的で耽美で、そのくせ儚くて優しい人間観が好み。
 魔都・東京の享楽的な華やかさの影で着実に蝕まれていく人々の心、その脆さ危うさ切なさ、都市生活者のやるせない寂しさを描いて出色の作品。平穏の裏で人知れず壊れ、行き場のなくなった魂はやがて・・。
 まぁ、amazarashi とは何の接点もありませんが。

 〈「普通」に「生活」している〉ってったって、その「普通」が難しい場合もあるんですがね。〈毎日早起きして 毎日学校へ行って 毎日働いて〉、そんな世の中の「普通」に適応できない人もいる。
 いや適応できてるように見える人でも、毎日の繰り返しに辟易し、過剰適応して疲弊し、アクシデントに見舞われて突然動けなくなった、なんて事もあるでしょう。「普通」って、けっこうしんどいもんだと思います。

 でも、言いたいことはこれに尽きる。〈泣いて笑って悩んで苦しんで、一生懸命「現実」を「生きて」いる・・・〉。その誰に誇れるでもない、やむを得ずしょうがなくの日々の一歩ずつにこそ、掛け値ない価値がある。
 俯いて下向いてたって、真っ当や安定に背を向けてたって、行く宛てもなく取り敢えずだって、前に進む一歩は一歩。その先に幸あれと祈りながら・・・。


 さてそんな『ごめんねオデッセイ』、アルバム『永遠市』発表以来の amazarashi お気に入りの曲であるようです。そもそも秋田ひろむが体調を崩していた時期に自信を失いそうになっている中で生まれた曲だそうで、復調後にもその時の心境が新たな活動指針のようになっているのだと推察されます。
 ポエトリー主体のしかも迫力ある曲で、淡々とした所から徐々に熱を帯びていく語りは歌っていて気持ちいいものかも知れません。単純に好きな曲でもあるのでしょう。

 昨年後半から今年にかけてのライブ活動ではセットリストの中に必ず入り、『永遠市』を象徴する曲の一つとなっています。

◇「永遠市」ライブツアー
 2023年後半~ 国内、
 24年前半 アジア3都市で公演

◇2023.12.29
「COUNTDOWN JAPAN 23/24
 GALAXY STAGE」

◇2024.2.24 開催
「ANI-ROCK FES. 2024  僕のヒーローアカデミア PLUS ULTRA LIVE」

 では最後にまた、詩人・八木重吉の詩語と『ごめんねオデッセイ』の詞藻を突き合わせて載せてみましょう。いえいえ、大した意味も御座いませんが・・・。


①重吉詩稿「晩秋」より

▼『私の詩 〔私の詩をよんでくださる方へささぐ〕』(一部抜書)

 ここに私の詩があります
 これが私の贖(イケニエ)である
 これらは必ずひとつびとつ
 十字架を背負うている
 これらは私の血をあびている
 手をふれることもできぬほど
 淡淡しくみえても
 かならずあなたの
 肺腑(はいふ)へくいさがって
 涙をながす

▼『ごめんねオデッセイ』

〈憧れは常に身体より早い
 だから満身創痍
 みんな傷だらけだ大体
 分かってる 分かってる
 言わなくても分かってる
 そういう奴らの作品には
 常に血が混ざってる 〉



◇過去記事
*よし、もう一度。