形容矛盾に酔い痴れてぇ!「騒々しい無人」 | 高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

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高校日本史レベルの人物を少し詳しく紹介する。なるべく入試にメインで出なさそうな人を中心に。誰もが知る有名人物は、誰もが知っているので省く。 たまに「amazarashiの歌詞、私考」を挟む。

 
○近況報告! ・・amazarashi の


 3月半ば、第8話を最後に再び放送休止に入ったアニメ版『NieR:Automata』。
 くぅ、無念にござるっ・・!

 ハテ、本作は全何話予定?
 アニメの慣例では1クール12~13話か2クール24~25話くらいで、ニーア第8話までの進み方の感じだと1クール予定なんじゃないかと思う。なのであと4~5話分。
 再開するとしたらその分を1か月くらいでまとめて放映すると思われるが、未だ再開時期のアナウンスはなし。

 まあその分、amazarashi『アンチノミー』をまた聴けるからいつまでも待ちますけれどね!





②ライブ映像作品『ロストボーイズ』リリース!


 

 2022年に行われたライブツアーを収録した映像作品『ロストボーイズ』が来たる 7/5(水)にリリース決定!

 おっともう1か月前じゃ、予約に走らねばっ!


 個人的には『数え歌』が入ってるのが地味にうれしい。「一、二、三、四(ひふみよ)・・」と数詞で押韻することば遊びを展開しながら同時に憂いと懐かしさを感じさせる曲で、一見無秩序に散らばった歌詞が幻想的な情景を形作っている。


『数え歌』歌詞 ― 歌ネット 



③「SUMMER SONIC 2023」

 

 今夏の「サマーソニック」に出演予定! 8/19~20 の2日間開催のうち amazarashi は 8/19(土)に登壇、場所はZOZOマリンスタジアム&幕張メッセ。
 今年の夏はかくべつ暑くなるってぇから、千葉県都市部の熱波による暑気当たりに気をつけて、秋田さん!


④アコースティックライブ「騒々しい無人」

 そして直近はコレですよ、久々のアコースティックライブ開催!

 

 来週 6/8(木)、東京ガーデンシアターにて。ってもう明々後日ですな。


 フッ、けっきょく今回も優柔不断を極めてチケット申込みできんかった・・・。

 「Apologies」ファンクラブ会員だから申込めば当選チャンスは大きいんだろうけど、あと足りないのは意気地と甲斐性かな・・(涙)。


 まあ、秋田ひろむの歌唱がクローズアップされるアコースティック演奏自体は大好きなので。今回も無事にライブが行われるのを祈りつつ、先々また映像作品化されるのを楽しみに待ってますね~!



○形容矛盾「騒々しい無人」

 たぶん『アンチノミー』=「二律背反」に掛けてるんだと思われるライブタイトル。今回は有観客開催なのに無人とは、また無人なのに騒々しいとはこれ如何に?

 いやぁライブに行かぬとなればなったで手持ち無沙汰なもんで、ここは一つ得意の空想に浸りたいと思います!(妄執とも言う。)
 「騒々しい無人」というタイトルを聞いて第一感で思い浮かんだフレーズを、つらつらと並べていきましょう。

◇『蟲師』漆原友紀 講談社アフタヌーンKC
 ①巻「柔らかい角」より


モノローグ:
 雪の降る夜、音が消えたら、誰かと話すか耳を塞げ。さもなきゃ耳が喰われるぞ。


村長:
 ここはご覧の通り深い山の底・・・風の通らぬ静かな里でございます。特にこのような雪の晩には物音ひとつしなくなり、話し声すら消えてしまう事もあるといいます。


村長:
 突然その角(つの)が生えたかと思うと、それまで聞こえていた音が聞こえなくなり、「これまでに聞いた事もない音」が聞こえ出したと言うのです。
 こんな物音ひとつしない夜でも、家の内で外で音がする。囁くような音、轟くような音・・・。耳を塞いでも隙間を埋めても変わらない、角から音が入ってくる・・・と。


蟲師のギンコ:
 人間ってのは特別に耳の悪い動物でな。多くの獣たちはもっと多彩な音を聞きわけて生きてる。


降雪の中を歩くギンコ:
 静かだ。だが決して無音じゃない。耳をそばだてれば雪の積もるのにも音はある。周りに音がなくなれば、自分の心臓の音が聞こえてくる。
 だが、あらゆる音を拾うとなると、一つ一つの音はもう聞こえなくなるのか。それが極限まで高まれば・・・もしや。
 もしやそれが、「音が消える」という事か?


ギンコ:
 両手で、耳を塞いでも無音にはなりません。聞こえますか?

村長:
 ・・小さな、地鳴りのような音が・・・。

ギンコ:
 それは腕の筋肉の運動している音だといいます。





◇『バガボンド』井上雄彦 講談社モーニングKC
 ㉝、㉟巻より


(ひとり武者修行中の宮本武蔵。両耳の穴に綿を詰めて剣を振り、身体の内側の声を聞こうとする。)

武蔵:
 無音ではないのだな。
 内側は賑やかだ。骨が擦(こす)れ、軋(きし)む音。息を吸う音、吐き出す音。
 剣の重みにギギと鳴る。ケヘ。

 あ~~、手がジンジンする。胸が脈打つ音がする。
 ・・・・・。
 さらさらと流れる、この微かな音は何だろう? 途絶えることなくずっと聴こえているんだろう、きっとお前には。これは何だ小次郎?
 ああ、消えた。
 

子供時分の武蔵:
 全部吸いこむ。この山の全部吸いこむ。ヨシ。また俺の中、空っぽがふくらんだ。空っぽで満たされた。


剣を振る大人武蔵:
 この木はこの木であることを、あの木はあの木であることを。こいつもそう、こいつも。俺は俺であることを、ただまっとう。それぞれの、内側には無限・・・空っぽで、全部ある。
 感じ続ける。体を流れる何かを感じ続ける。ただ準備しろ、滞らせないために。そして次の、またその次の準備。なにも邪魔するな、そのまま・・・。そのまま・・・。

 体は容れ物。中を空っぽに。俺は容れ物の側ではなく、空っぽの側に、空っぽとひとつに・・・。




◇『マンガ 禅の思想』講談社+α文庫
 中国唐代の禅僧、洞山良价(とうざんりょうかい)の故事より。

 ※ ちなみに洞山は彼の弟子の曹山(そうざん)とともに曹洞宗を創立し、洞山のもう一人の弟子である雲居(うんご)の系統を道元禅師が伝えて開かれたのが日本曹洞宗である。



 耳で聞こうとすれば、声は現われない。目に声が聞こえて初めてわかるのだ!

 目で見、鼻で嗅ぎ、耳で聞く・・・。山を見れば山ではあるが、それは真ではない。
 内と外とが一体となり、気持ちを集中し体を解きほぐし、骨と肉を溶け合わせる・・・。目は耳に、耳は鼻に、鼻は口になって、もはや区別はなくなる。
 若芽を見れば生命が見えるし、落葉を見れば木が休もうとしているのがわかるだろう。





 なんかだんだん「ZEN BUDDHISM」みたいになってきましたな、行き着く先は仏法問答か。

「試みに問う、“騒々しい無人” とはこれ如何に?」
「答う! 目で聞き、耳で見、体を委ねて歌と溶け合う謂いなり!」

「重ねて問う! 怖じ気づいてライブに行けないんですけどー?」
「また答う! 映像作品『迷子少年達』を求むべしっ!」

 歌声だけが、見えている。


 什麼生、説破!(妄想終わり)


▼ 6/11(日)追記

 amazarashi Acoustic Live「騒々しい無人」、無事に開催されたみたいで何より! 参加された方のSNSとかを見る限りはこれまた素晴らしい歌唱だったようで・・(某藤井監督も堪能した由)。あらヤダワ、ゆらゆらと揺れる陰が参戦できた人を妬んじゃいそう。
 曲リストもアップされてる写真なんかで分かるんですが、仔細は後日リリースされるであろう映像作品を待つことにしましょう。たぶん半年後くらい、年は越すかな?
 
 完全に余談ですが、最近見かけた amazarashi の歌詞っぽい文章を載っけておきます。
 哲学研究者の永井玲衣さんの連載から。今年1月の記事にもちょいちょい引かせてもらいましたが、またグッとくる記述があったもんで。

◇月刊誌「群像」2023年7月号
 永井玲衣連載「世界の適切な保存」第15回 より



「死にたいわけじゃないけど、消えたいって思う」
 あるひとが言っていた。

 (中略)

 「死ぬ」と「消える」の違いは何だろう。どちらも同じように思えて、ぜんぜん違うとどこかでわかっている。
 死は、まわりに影響を及ぼす。衝撃を与える。不安や動揺が波紋のように広がって、ざわめかせる。だが消失は、誰にも知られない。気づかれない。いつの間にか、跡形もなく消えている。思い出されもしない。消えてしまったしゃぼん玉を、いつまでも覚えていないように。
 だが死は、取り返しがつかない。生き返ることはない。一方で消失は、一時的なものでもあり得るような手触りがある。

 (中略)

 「消えたい」と言ったひとは、誰もいない夜道を歩くとき、自分が世界から消えた気がする、と話してくれた。階段をのぼり、ドアを開け、電気を点ければ、わたしはまたこの世界に戻ってくる。



⇒ amazarashi『フィロソフィー』
〈商店街の街灯も
 消える頃の帰り道
 影が消えたら
 何故かホッとして
 今日も真夜中に行方不明 〉

〈うまくいかない人生の
 為にしつらえた陽光は
 消えてしまいたい己が影の
 輪郭を明瞭に
 悲しいかな、生きてたんだ 〉


 まだあるヨ!

◇同「世界の適切な保存」⑮より
 文中で寺山修司『誰か故郷を想はざる ~自叙伝らしくなく~』(角川文庫)を引用して



 子どもたちはみな、かくれてしまって私がいくら「もういいかい、もういいかい」と呼んでみても、答えてくれない。夕焼がしだいに醒めてゆき、紙芝居屋も豆腐屋ももう帰ってしまっている。誰もいない故郷の道を、草の穂をかみしめながら逃げかくれた子どもをさがしてゆくと、家々の窓に灯がともる。

 その一つを覗いた私は思わず、はっとして立ちすくむ。
 灯の下に、煮える鍋をかこんでいる一家の主人は、かくれんぼして私から「かくれていった」老いたる子どもなのである。かくれている子どもの方だけ、時代はとっぷりと暮れて、鬼の私だけが取残されている幻想は、何と空しいことだろう。

 私には、かくれた子どもたちの幸福が見えるが、かくれた子どもたちからは、鬼の私が見えない。
 私は、一生かくれんぼ鬼である、という幻想から、何歳になったらまぬがれることが出来るのであろうか?



⇒『夏を待っていました』
〈背の高い夏草でかくれんぼ
 鬼は迫り来る時間の流れ
 もういいかい
 まだだよって叫んだよ
 僕は今も見つからないままで
 あの時と同じ膝を抱えて
 部屋から青い空を見上げて 〉


 「かくれんぼ鬼」と「かくれた子ども」のどちらに寄るかの違いはあれど、みんなから自分だけひとり取り残されたような寂しげな感傷は共通している。

 あと蛇足でこんなん↓を上げて今回は〆ましょう。


◇「群像」2022年10月号
 特集:「弱さ」の哲学
 永井と三木の対談:「弱さ」のこと......

 リンク先の記事は「群像」での永井玲衣と言語コミュニケーション哲学者・三木那由他(みきなゆた)さんの対談をウェブ向けに編集したもの。

⇒『フィロソフィー』
〈いつか屈辱を晴らすなら
 今日、侮辱された “弱さ” で 〉

 永井玲衣さん、明言はしてないけど amazarashi を知っているんじゃなかろか? それか、amazarashi 秋田ひろむと永井さんとで注意を惹かれるトピックとか感性とかがものすごく似ているか、のどっちかだと思うんだけど・・・。