庭で涼むことにした僕はランのbahayの庭に移動した。
そこにはさっきまでいなかったランのkuyaが仕事から戻ってきていた。
僕よりも若いが、ランと結婚したら義兄である。

家族が庭に集まり談笑しているが、僕にはまだ談笑に参加できるほど
タガログ語に詳しくない。
しかもタガログだけでなくパンパンガ語を使っているようだ。
それは流石にわからない。
僕が知ってるパンパンガ語は「Kaluguran daka」だけである。
その意味はmahal kitaと同義。

とはいえ、通訳のいとこが会話を簡単に通訳してくれたので
なんとなくは話はわかった。
たまに英語も出てきたり、なんともグローバルである。

一息ついて僕はkuyaがビールを飲みたいと聞いたので、
ビールを買ってあげることにした。
僕は500ペソを渡し、しばらく待っていると庭にビールが運び込まれた。
SanMiguelが1ケースと氷を数個。

1ケース400ペソだそうな・・・日本円で約800円。
24本800円だから驚きの価格である。
ビールに氷を入れて飲むのがフィリピンスタイル。
ランの家には冷凍庫のついた冷蔵庫はないらしい。
製氷機のついた冷蔵庫は贅沢品なのだ。

そして始まる宴の時。
一つのピッチャーに何本かSanMiguelと氷を入れて一つのコップで
回し飲む、これがフィリピンスタイル。
でも、空にしないと次の人が飲めないので、ペースについていけない
僕は、ひとりでコップとSanMiguelをもらっていたけど・・・

そのうちに師匠が到着。
とうとう別れの時が来た。
僕はランのNanayと一緒に写真を撮って、別れの挨拶をする。
TAXIに乗り込んだ僕をみんなが見送ってくれる。
走り出したTAXIから僕は手を振ってその場を後にした。

はるばるパンパンガまで来たけれど、ランが生まれた場所を見れたのは
すごく楽しかった。
それだけに、別れが少し寂しかった。
ランが実家を直したら、また来ようと思う。
その時はランと一緒に帰りたい。


~~ つづく ~~


Bakit ba Philippina?-Pampanga004
ランの生まれた村。
村というほうがこの場合いいだろう。
ざっと見た感じ、人口は2000人程度だろうか?
子供の数が多いからもう少しいるかもしれない。

田んぼで囲まれたその村は農業が盛んで
その日も刈り取った籾米を天日にさらしている
農家の人々がいた。
日本とは少し変わった稲作の手法である。

ランのKuyaも農家をしている。
Kuyaは地主から借りて農家をしているが、取り分が
なんと10%という暴利極まりないものだ。
仕事があるだけマシなのかもしれないが・・・

目的もなくただ見慣れない町をぶらつくのも、
なかなか楽しかった。
時折カメラでその風景を収める。

いとこの家にお邪魔したり、sari-sariでチョコレートと
携帯のプリペードカードを買ったりして20分ほど歩いただろうか。
町の分岐点である場所まで歩いてきて、戻ろうと思った時
たまたま町まで買い物に行っていたAteのトライシクルが
通りかかった。

1台のトライシクルに4人(1人子供)を乗せて、ランの家まで戻る。
トライシクルは1回乗るのに1人25ペソだった。
4人も乗ったら100ペソだから、たくさん乗る時はTAXIのほうが
よさげだ・・・ただ、TAXIが通りかかるような場所ではない。

トライシクルの運転手もランのいとこだという。
なんとも、いとこの多いことである。
ランの兄弟も大所帯であるから、今後、親戚は莫大に
増えていくだろう。
友達100人ではなく親戚100人のほうが簡単のようだ。

ランの家に戻った僕は、先ほどsari-sariで買ったチョコレートを
子供達に配った。
その数22個。
1個7ペソではあるが、こういった嗜好品を食べる機会はあまり
なさそうである。
余った1つを食べてみたが、日本のチョコレートが喜ばれるのも
うなずける味であった。

僕は少し歩き疲れ、ランの家の庭に腰を下ろして涼むことにした。


~~ つづく ~~


Bakit?-Pampanga003

ランの家の周辺に着いた。
住所は聞いていたが実際はどこにあるかわからなかった。
表札があるわけでもなく、住宅地図があるわけでもなし。
日本のようにきっちりあるほうがすごいことだ。

今回同行している師匠の彼女のAteがランの苗字から家を
探してくれたり、ランのNanayの携帯番号は聞いていたので
連絡を取りつつ家を探した。

そしてたどり着いた場所。
それがランの生まれ育った家。
何千キロと離れたこの場所からランは日本に来たのだ。

まずは挨拶と思ってはいたのだが、どれがNanayかわからない・・・
それもそのはず、その家には20人近くの人がひしめき合っていた。
大半は子供だったが、なんとかランのNanayに会って挨拶もできた。

ランのいとこが昔、日本にいて日本語が少しわかるらしい・・・
そのため、ランの要請で家に派遣されていた。
しかし、いとこの家はすぐ近くなのでほっといても来ていたであろう。
なんとか意思疎通ができることがわかったため、僕は一人で
その場に残り、師匠達は彼女の実家へと向かった。

さて、取り残された僕ではあったが当初の予定通り、ご飯を
振舞ってもらった。
始めはみんなで食べようと遠慮していたのだが、後日師匠から
聞いた話では、ゲストが優先で食べるのだという。

出てきた料理は、たまごスープのようなものと、ブタの角煮のような
もの、フライドチキン、テラピアのバーベキュー、ライス。
こんなにたくさん出てきて、きっとご馳走なのだろう。
ブタの角煮のようなものは、日本人好みの味でとてもMasarapだった。
どれもMasarapだったので一通り食べた。

食休めの後は、やっぱり写真。
日本人なら逃げていくのであろう。
しかしそこはフィリピン人、ポーズをとったり、ごく自然にファインダーへ
写りこんでいる。
ランへのお土産でもあるので、ランの家族に並んでもらったり
家を写したり、町並みを一通り写すことにして、僕はいとこと共に
ランが育ったその町をぶらつく事にした。


~~ つづく ~~