売文の徒とも獺魚を祭るとも 瑪論
村上瑪論/『銀化季語別作品集』より
一昨日は村上瑪論さんの七回忌であった。
一句、八五五にも読めるが、私は「獺」を「をそ」とは読まず「かはうそ」と読み八七五に読んでいる。「売文の徒とも」の後で一度は大きく切りたいからだ。一句は「とも」の同語反復にも取れるが、少し違うと思う。売文の徒とも言われてしまうが、それが獺が魚を祀っているかのごとくに思われようとも、という意味だと私は思う。「売文の徒」=「獺魚を祭る」とは思いたくないのだ。一句、強い反語性を私は感じるのだが、それを何処に読み取るか。最初、「売文の徒」と言われてしまうことへの反発と思っていたのだが、この並列の仕方は後半に強意があると思えてならないのだ。自分は獺ではないし祀ってもいない、ではないのか、と。
※ 以上は私の個人的なブログへの本日の書き込みですが、ここにも転載をしておきます。それにしても、あれから六年も経ってしまいました。私の瑪論俳句の読みも随分と変わってしまった気もします。先ほど読み返してみて、こちらでの掲出句の解釈は些かおとなしいなあ、と思ってしまいました。瑪論さん、どうしてるのかな? もう私のことなんて忘れてしまったかなあ・・・。