こんにちは。

「心の学び舎 まほろば」のヒロです。

 

9月は、「聴くこと」から始まり、「ことば」について考え、そして「見育」へと話を進めてきました。

 

子どもの話をすぐに判断せずに聴くこと。

「分かった」と決めつけず、もう少し聴いてみること。

同じ言葉でも、受け取る人によって意味が変わること。

そして、自分がどんな「見方」をしているのかに気づいてみること。

 

こうして振り返ってみると、どれも「ことば」と深くつながっているように感じます。 

 

 

  ことばは、相手との間にあるもの

 

たとえば、誰かに、

「大丈夫だよ。」

と言われたとします。

 

その言葉に励まされることもあれば、

「本当は、何も分かってくれていない。」

と感じることもあるかもしれません。

 

同じ「大丈夫」という言葉でも、

誰が、どんな気持ちで、どんな場面で言うのか。

そして、受け取る側がどんな状態にあるのか。

それによって、言葉の届き方は変わります。

 

だから、ことばは「言う人」だけで完結するものではないのだと思います。

 

相手との間にあって、

その人の心に届いたときに、

初めて一つの意味を持つ。

 

そう考えると、

「正しい言葉を選べばいい」

というだけでは、なかなか簡単にはいきません。

 

だからこそ、私たちは時に、すぐに答えを出さず、

「この言葉は、相手にどう届いているんだろう。」

と立ち止まってみることも大切なのだと思います。 

 

 

  「ことば学」は、完成した答えではない

 

私は、34年間の学校現場で、

子どもたち、保護者、先生方と、たくさんの言葉を交わしてきました。

 

その後、NLP(神経言語プログラミング)やマインドフルネスなどを学ぶ中でも、

「ことばには、人の見方や心のあり方を変える力がある」

ということを、改めて考えるようになりました。

 

そこから生まれてきたのが、

「ヒロ流 ことば学」です。

 

けれども、これは私の中ですでに完成した「答え」ではありません。

 

これからも学びながら、

考えながら、

そして、いろいろな人の言葉を聴きながら、

少しずつ育てていきたいと思っています。

 

だから私は、

「ことば学について、こう考えています。」

と一方的に伝えるだけではなく、

「あなたは、どう感じますか?」

と、誰かと一緒に考えてみたいと思っています。

 

 

  文章だけでは、伝えきれないこと

 

ブログでは、時間をかけて言葉を選びながら、自分の考えをお伝えすることができます。

 

それは、とても大切なことです。

 

でも、文章だけでは伝えきれないこともあります。

 

実際に話してみると、

 

「私は、こんなふうに感じました。」

「そういう見方もあるんですね。」

「私は、そこが少し違っていました。」

 

そんな言葉が生まれることがあります。

 

そして、相手の言葉を聴くことで、

自分自身の見方や考え方が変わることもあります。

 

そんな時間が、あってもいいのかもしれません。

 

 

  ことばについて、実際に語ってみませんか

 

もしよかったら、

今度は実際にお話ししてみませんか。

 

ことばについて語る、小さな「語り場」を開くことを計画しました。

 

ここは、私が一方的にお話しする講座ではありません。

 

「こんなとき、どうしていますか?」

「私は、こんなふうに感じました。」

「そんな見方もあるんですね。」

 

そんなふうに、お互いの言葉を聴きながら、

一緒に考えていく時間にしたいと思っています。

 

私自身も、皆さんの言葉を聴かせていただきながら、

「ことば学」をさらに育てていけたらと思っています。

 

 

  小さな「語り場」のご案内

 

日時:10月24日(土)

10:00~11:00
時間:約60分
開催方法:Zoom
参加費:無料
定員:4~6名程度

 

参加をご希望の方は、こちらのフォームからお申し込みください。

 

【Googleフォーム】

 

 

初めての試みですので、

まずは、一人ひとりの言葉を大切にできる、

小さな場から始めたいと思っています。

 

お時間が合いましたら、

どうぞ気軽にご参加ください。

 

今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

心は、ことばで育つ。

 

 

こんにちは。

「心の学び舎 まほろば」のヒロです。

 

前回は、

「ヒロ流 ことば学 五育」の一つ目、

「見育」

についてお話ししました。

 

見育とは、

 

自分がどんな見方をしているのかに気づき、ものごとを一つの見方だけで決めつけず、別の見方の可能性も持てるようになること。

 

私は、そう考えています。

 

今回は、
この「見育」を、
私たちの日常の中に少し下ろしてみたいと思います。

 

 

  「それは、ちょっと難しいと思います。」

 

たとえば、
職場でこんな場面があったとします。

 

自分なりに考えて、
ある提案を同僚に伝えた。

 

すると、

「それは、ちょっと難しいと思います。」

と言われた。

 

その一言を聞いたとき、
どんなことを感じるでしょうか。

 

「自分の考えを否定された。」

「せっかく考えたのに、認めてもらえなかった。」

「この人は、自分のことを分かってくれない。」

 

そんなふうに感じることもあるかもしれません。

 

もちろん、
そう感じた自分の気持ちを、
無理になかったことにする必要はありません。

 

「否定されたようで、ちょっと嫌だった。」

 

そう感じるのは、
自然なことです。

 

でも、
ここで少しだけ立ち止まってみます。

 

「私は今、この言葉をどう見ているんだろう?」

 

 

  「否定された」と見ていた自分に気づく

 

もしかすると、
自分の中では、

「この人は、自分の提案を否定した」

という見方になっているかもしれません。

 

でも、
それが本当に、
この一言のすべてでしょうか。

 

もしかしたら、

 

「実現するための課題を考えているのかもしれない。」

「慎重に考えて、率直な意見を伝えてくれたのかもしれない。」

「自分とは違う視点を教えてくれているのかもしれない。」

 

そんな見方もできます。

 

もちろん、
どれが正しいのかは、
その時点では分かりません。

 

だからこそ、

「相手はこういう人だ」

と決めてしまうのではなく、

「私は今、この言葉を『否定された』と見ているんだな。」

と気づいてみる。

 

すると、
ほんの少しだけ、
心の中に余白が生まれます。

 

 

  事実と「意味」を分けてみる

 

ここで、
一つ簡単な方法があります。

 

それは、

「実際に起きたこと」と「自分がそこにつけた意味」を分けてみること。

 

先ほどの場面なら、

「同僚が『それは、ちょっと難しいと思います』と言った。」

 

これは、
実際に起きたことです。

 

そこに、

「自分の考えを否定された。」

「自分を認めてもらえなかった。」

という意味をつけたのは、
自分自身かもしれません。

 

もちろん、
その見方が間違っているとは限りません。

 

相手が本当に否定するつもりで言った可能性もあります。

 

でも、

「これは事実だろうか。それとも、私がつけた意味だろうか。」

と一度考えてみる。

 

それだけで、
自分の見方を少し離れて眺めることができます。

 

 

  見方が変わると、言葉も変わる

 

そして、
ここからが「見育」の実践です。

 

もし、

「否定された」

という見方のままだったら、

「じゃあ、もういいです。」

と話を終わらせてしまうかもしれません。

 

でも、

「別の視点を伝えてくれているのかもしれない」

と見ることができたら、

「どのあたりが難しいと思いますか?」

と尋ねてみることができます。

 

すると、
相手の考えていることが、
もう少し分かるかもしれません。

 

もしかしたら、
自分では気づかなかった問題点が見つかるかもしれません。

 

あるいは、
話し合ってみた結果、

「やっぱり、この提案は難しい」

という結論になるかもしれません。

 

それでもいいのです。

 

見育は、
「必ず前向きな結果にすること」ではありません。

 

見方を一つに決めつけず、
その先の選択肢を増やしてみること。

 

そこに、
見育の実践があるのだと思います。

 

 

  家族との間でも

 

こうしたことは、
職場だけではありません。

 

たとえば、
家族から、

「今日は帰るの遅くなる。」

と連絡が来たとします。

 

「また自分のことを後回しにしている。」

と見ることもできます。

 

でも、

 

「何か事情があるのかもしれない。」

「今日は仕事が大変なのかもしれない。」

 

と見ることもできます。

 

もちろん、
本当に困ることがあるなら、
それを我慢する必要はありません。

 

大切なのは、

「私は今、この出来事をどう見ているんだろう?」

と気づくことです。

 

 

  自分自身にも、同じことができる

 

そして、
一番身近な相手にも、
同じことができます。

 

それは、
自分自身です。

 

何か失敗したとき、

 

「また失敗した。」

「自分は何をやってもダメだ。」

 

そんな言葉が、
頭に浮かぶことがあります。

 

そんなとき、

「今、自分は自分のことを、そう見ているんだな。」

と、一度立ち止まってみる。

 

そして、

 

「本当に、自分は何をやってもダメなんだろうか。」

「今回、うまくいかなかったのは、どこだったんだろう。」

「次に変えられるところはあるだろうか。」

 

と考えてみる。

 

すると、
自分自身への言葉も、
少し変わってくるかもしれません。

 

 

  「見育」は、特別な練習ではない

 

見育というと、
何か特別なことをしなければならないように聞こえるかもしれません。

 

でも、
私はそうは思っていません。

 

誰かの言葉に、
イラッとしたとき。

 

家族の言動が、
気になったとき。

 

仕事で、
思うようにいかなかったとき。

 

自分に、
厳しい言葉をかけてしまったとき。

 

そんな瞬間に、

「私は今、どう見ているんだろう?」

と、ほんの少し立ち止まってみる。

 

そして、

「ほかには、どんな見方があるだろう?」

と考えてみる。

 

それだけでもいいのです。

 

見方を変えなければいけない、
ということではありません。

 

今の見方を大切にしながら、
もう一つの見方も持ってみる。

 

その小さな積み重ねが、
「見方を育てる」ということなのだと思います。

 

「心は、ことばで育つ。」

 

私たちが、
自分や誰かにかける言葉は、

「その人をどう見ているのか」

を表していることがあります。

 

だからこそ、

どんな言葉を使うのかを考える前に、

「私は、今、この人をどう見ているんだろう。」

と、自分に問いかけてみる。

 

そこから、
新しい言葉が生まれることがあります。

 

見方が変わると、
言葉が変わる。

 

言葉が変わると、
関わり方が変わる。

 

そして、
その先の出来事も、
少しずつ変わっていくのかもしれません。

 

これが、
私が考える「見育」です。

 

 

先日、少し触れましたが、今度こうしたことを実際にお話しできる場を考えています。次回、詳しくお伝えしますね。

 

今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

心は、ことばで育つ。

 

 

こんにちは。

「心の学び舎 まほろば」のヒロです。

 

前回の記事では、
「ヒロ流 ことば学」は、
特別なことを学ぶものではなく、
私たちの日常の中にあるものだとお話ししました。

 

子どもにかける言葉。
家族との会話。
仕事で交わす言葉。
そして、
自分自身にかけている言葉。

 

私たちは毎日の暮らしの中で、
たくさんの「ことば」と出会っています。

 

では、
その「ことば」を通して、
私たちは何を育てていくのでしょうか。

 

前回少しご紹介した、
「ヒロ流 ことば学 五育」には、

見育(けんいく)
心育(しんいく)
人育(じんいく)
志育(しいく)
生育(せいいく)

という五つの「育」があります。

 

今日は、その最初の一つ。

「見育」

について考えてみたいと思います。

 

 

  「見育」とは、何でしょうか。

 

私は、

 

「見育」とは、自分がどんな見方をしているのかに気づき、ものごとを一つの見方だけで決めつけず、別の見方の可能性も持てるようになること」

 

だと考えています。

 

私たちは、
目の前で起きた出来事を、
そのまま見ているように思っています。

 

でも、実際には、

「何が起きたのか」

だけではなく、

「それをどう見たのか」

によって、
その後の気持ちや行動が変わることがあります。

 

たとえば、

子どもに声をかけたのに、
返事がなかった。

 

そんな場面があったとします。

 

「無視された」

と見ることもできます。

 

でも、

「何か考え事をしていたのかな」

「聞こえていなかったのかもしれない」

「今は返事をする余裕がないのかな」

と見ることもできます。

 

もちろん、

「無視されたように感じて、嫌だった」

という自分の気持ちを、
無理になかったことにする必要はありません。

 

大切なのは、

「私は今、この出来事をこう見ているんだな」

と、自分の見方に気づくことです。

 

そして、

「本当に、この見方だけなのだろうか」

と、少しだけ立ち止まってみる。

 

そこに、
別の見方が生まれる余地があります。

 

 

  「見方を変える」とは、無理に前向きになることではない

 

「見方を変える」

というと、

「悪いことも、前向きに考えましょう」

という話に聞こえるかもしれません。

 

でも、
私は少し違うと思っています。

 

つらい出来事があったときに、

「これはきっと良い経験だった」

と、無理に思わなくてもいい。

 

失敗したときに、

「失敗じゃない。成功への一歩だ」

と、無理に言い換えなくてもいい。

 

まずは、

「今、自分はこの出来事をどう見ているんだろう」

と気づく。

 

それだけでも、
見方は少し変わり始めます。

 

たとえば、

「自分は失敗した」

と考えていたとしたら、

「私は、失敗したと見ているんだな」

と、一歩引いて見てみる。

 

すると、

「どこがうまくいかなかったんだろう」

「次に変えられるところはあるかな」

と、別の問いが生まれることがあります。

 

出来事そのものが変わったわけではありません。

 

でも、

その出来事を見る場所が、少し変わった。

私は、そこに「見育」の大切さがあると思っています。

 

 

  私たちは、「見たもの」によって次の一歩を決めている

 

同じ出来事でも、

「もうダメだ」

と見れば、
そこで立ち止まってしまうかもしれません。

 

一方で、

「今はうまくいっていない」

と見れば、

「では、何を変えてみようか」

という次の一歩が生まれるかもしれません。

 

だからこそ、
「見方」は、
その後の言葉や行動にもつながっています。

 

そして、その「見方」を支えているものの一つが、
やはり「ことば」なのだと思います。

 

「失敗した」

という言葉で見るのか。

 

「うまくいかなかったところが分かった」

という言葉で見るのか。

 

「自分はダメだ」

という言葉で見るのか。

 

「今は、うまくいっていない」

という言葉で見るのか。

 

どちらが正しい、
ということではありません。

 

ただ、

自分がどんな言葉で、自分の世界を見ているのか。

そこに気づいてみる。

 

それが、
「見育」の入り口なのだと思います。

 

 

  見方を育てることは、自分の可能性を育てること

 

 

 

私たちは、
一つの見方に慣れてしまうと、
それが「事実そのもの」のように感じられることがあります。

 

でも、

「私は、今こう見ている」

と気づくことができれば、

「ほかには、どんな見方があるだろう」

と考えることができます。

 

それは、
自分の見方を否定することではありません。

 

今の自分の見方を大切にしながら、
もう一つの見方も持ってみる。

 

そして、
その中から、

「今の自分には、どの見方が役に立つだろう」

と選んでいく。

 

私は、
そんなふうに「見方」を育てていくことが、
「見育」なのだと考えています。

 

そして、

 

心は、ことばで育つ。

 

という私の信念も、
ここにつながっています。

 

どんな言葉を使うかによって、
私たちが見るものは変わる。

 

見るものが変われば、
感じることが変わる。

 

感じることが変われば、
次の行動も変わっていく。

 

だからこそ、
まずは「自分は、今、どう見ているんだろう」と気づくこと。

 

そこから、
「見育」は始まるのではないでしょうか。

 

 

次回は、
この「見育」が、
私たちの日常の中でどんな場面に表れるのか。

 

もう少し具体的に考えてみたいと思います。

 

そして、いずれは、こうしたことを記事の中だけでなく、実際に皆さんと話しながら考えてみたいとも思っています。

 

今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

心は、ことばで育つ。