古代の身体操作を教えて下さっている先生も
「書とか絵(墨絵みたいなものだと思います)は書かれていない白いところを表現するために書くものだ!」
「文章なら行間をあらわすために文字がある!」
と仰います。
ということは、何にも無いところを表すためにピアノの音があるのか?
くだんのピアノの先生のことをお話したら
「それは随分日本的な先生ですね!」
と!(笑)
・・・・・・・・・・・
そうなのかー!
そういや俳句みたいに色んな景色や事柄をぎゅーっと少ない言葉に凝縮して その決められた数の文字の音(おん)、つまり見えるところから 読んだ人それぞれがその俳句の言わんとする見えないことまで思い描く!という阿吽の文化?とでもいえるような文化が日本には伝えられてきているよなぁ!
作者が音(おん)にした言葉から音(おん)にはしなかった風景までそれぞれが引き継いで持って生まれてきたものとそれぞれの人生の生きざまに培われてきた感性によって読み取ろうとすること♪
それは当然人によって違うものであり、そこには正解不正解はないのだろうけれど、例えば「季語」などという共通理解がベースにあって文字数とともに大きな制限となると同時にその奥に限りない拡がりを持つ世界となっているような気がします。![]()
日本の文化はその一つの側面として もともと見えるものと見えないものを両方大切にして その繋がりをはしょらずに共有出来た文化、共に同じ見えない世界の生まれ!?でありながら一人一人が違った感性を持って表現することが許されている自由な世界がこの物質世界の本質であることを知っていて、それを共有することによって新たなものを生み出していく可能性を持ち実際に生み出してきた文化だったのかもしれない、とつくづく思ったのでした。
だから見えるものだけの意識でも見えないものだけの意識でもなく両方を同時に意識することが出来てその繋がりを観ることが大切なんだと、音楽というのはそこを表現するものなのだ、とあのピアノの先生が本当に伝えたかったのはそういうことだったのかもしれないなぁ、と今頃になってようやく気付いた引きこもり人です(笑)
そしてそれって実は人生のドラマにも同じことが言えて そのストーリーの見えるところだけでなくて、それが生まれた見えないところとの両方を同時に意識してそれらの繋がりをはしょらずに観ようとしたとき、ストーリー上の起きる事柄はエゴにとっては嬉しかったり悲しかったり 物質的に豊かだったり貧しかったり 良いことだったり悪いことだったり 正しかったり間違っていたりしていても、魂にとっては真逆にも見えるそれらがただ一つのことの表と裏に過ぎなくて その瞬間二度と味わうことの出来ない価値のある喜びの経験となるのかもしれません。
つまり全てのことが表ではエゴちゃんが、ひぇーっ!ておののいたり たじろいだり マジ勘弁!って言っていても(笑)同時に裏では魂が それさえも期間限定の実に豊かな遊びであることを知っていて楽しんでいるような気がするのです。