光あるうちに光の中を歩め -4ページ目

光あるうちに光の中を歩め

生きることって?
突然の引きこもり人の独り言です。。。

 動きはそれが実際に動いて見えてくる前から発生して動いていてしかも身体全て(多分!今の私では全部確認出来ない)と連動しているみたいです!


大きな特徴的なところだけ何となくわかる気がするような、、、


例えば骨盤、仙骨の動きと鎖骨、肩の動きなどは連動している!ということはその先の手足、指先も、だな、!とか、、、かかとと骨盤は連動して動かせるので かかとから足先の動作で寝た姿勢から起き上がれる、など(笑)

今、介助なしの一人で歩く練習をするときはふらついて倒れないように両手にそれぞれ杖を持って 立ってハイハイをしているようにやってみているのですけれど!

左手の杖をつく前に見えないところで右の骨盤が準備を始めていて右足は前には出ていないけれど、骨盤は既に歩いて!?いるところで左手の杖のつく位置が決まって骨盤から左肩、指先までエネルギーが通って杖に伝わり杖の先が前進して地面と一体となる、
右足が右の骨盤にあとからついていく!
というような感覚を(あくまでも当社比!?だけれどぉー!(笑))味わっています


左手の杖をつく位置って左手が勝手に決めるわけではなくて、こういう一連の流れから、本当はこの状況のこの瞬間ならここしかない、って場所があるんだな、と思うのですが、、、

いっつもエネルギーの流れを正確に辿れなくて違うところについちゃう、、、それが出来るように近づくことが鍛練、修行なんでしょうね!


そこが見えてくると、身体法の先生の仰る仙骨や尾骨で鎖骨を動かすということが、なんとなく見えて!?くるような気もします!

今まで身体の動きということについて大きな勘違いをしていたのかもしれません!

表の動きにばかり気を取られていたかもしれない。


でも身体を動かすには裏の意識!?が使えなきゃ本当に動くいうことにはならないことに気づきました!
呼吸だって吸うばかり、吐くばかりなんて出来ないですものねえー!

今までも歩くときなど、そのあたりに気を使って歩いていたつもりだったけれど、大切なことをスピードに負けて?スルーしてはしょっていたかもしれません

 

極楽のなかにいた人々は水俣病という苦海に投げだされました。
社会的には勿論許されないし何の罪もないのに突然凌辱されて病に苦しむ方々の救済は絶対に必要です。 

でも石牟礼さんの凄いところは、水俣病は決してあってはならないものだが、水俣病があったからこそ水俣病の方々と出逢えたのだ、と捉えていらしたところです。

何の経済も持たなくても生きていけることを極楽ではなく貧困と捉えた近代社会においてチッソはハイカラで豊かさをもたらすものの象徴の一つでもあった、という側面を持っていた、のだそうです。


まさに全ての人々の中にある矛盾から目を反らさずにちゃんと対峙して その中で彼女はどう在ろうとしたのか? 

苦海浄土に限らず石牟礼さんの文章を読むと大事に大事にして生まれた言葉と言葉の間から溢れ出てくるものが凄いのです!

それは矛盾から逃げずにそこにフラットに対峙する姿勢があるからこそ生まれたのであろう 読んでいて何か泣きたくなるほど懐かしい安心感、温かさに満ちていて感動するのです。

苦海と浄土!
矛盾するものが水俣病によって顕著に浮かび上がってきたのか?
はたまた、苦海と元々矛盾した人間が本当に出逢って浄土というまったく異質な新しいものが生まれたのか?

苦海浄土、この異質なもの、矛盾するものを並べた題名の石牟礼さんの翻意は今の私には想像の域を出ることはないし、わからないことです。

多分肉体を脱ぐまで本当にはわからないことの一つかも(笑)

ただこの言葉は私がこれからの人生を歩んで行くに当たって 本質的な意味を持って対峙していくものである、ことだけは確かだと思います。

その意味も生きていくにつれどんどん変化していくような予感があります。

そこには良い悪いも、正解不正解もなくて、強いて言えば人生のストーリーが終わって肉体を脱いだときにどう思うのか?ということがあるだけかもしれません(笑)

矛盾の中にあって自分はどう在るのか?どう在ることを選択していくのか?

生きることはその選択の連続かもしれないですネ!


意外なことに、石牟礼さんは巫女かシャーマンのように文章をおろして床に散らし それをある方がかき集めて時系列に並べ直して改めて石牟礼さんご自身もそれを見直す、という作品の作り方!?をされていたようです。

矛盾から逃げずに対峙して人生を生き抜いた先輩が宇宙から受け取った「苦海浄土」という言葉。

まさに宝物としかいいようのないこの言葉を自分がこの人生ストーリーの中にあってそっと大切に抱きしめて瞬間瞬間矛盾と対峙してどのように在りたいと願い、変化していくのでしょう?

私はそれが観たくて味わいたくて生まれてきたに違いない!!!

そうやって生きて初めて人が一人一つずつ持って生まれてきたという祈りを思い出せるのかもしれない、とまた訳のわからないことを呟く引きこもり人です(笑)

石牟礼さんに出逢うきっかけをくれた友達に心から感謝していますm(_ _)m

 

苦海浄土

ご存知、石牟礼道子さんの代表作の題名ですが、これ、観れば観るほど凄い題名です。

石牟礼文学ビギナーにして、この長編にまだ全部目を通しきっていないにも関わらず、題名について感想を持つなど恐れ多いことは十分承知です。

でも凄い、、、

ちなみに

苦海(くがい)

https://kotobank.jp/word/%E8%8B%A6%E6%B5%B7-54998

浄土
https://kotobank.jp/word/%E6%B5%84%E5%9C%9F-79573

苦しみに絶えないこの世界を海にたとえた言葉と仏陀の住む清浄な国土。

一見して真逆のような状態だけれど、浄土と対比される言葉としては穢土がある!

穢土(えど)

コトバンク
え‐ど〔ヱ‐〕【×穢土】1 仏語。けがれた国土。迷いから抜けられない衆生(しゅじょう)の住むこの世。現世。娑婆(しゃば)。穢国。「厭離(えんり)穢土、欣求(ごんぐ)浄土」⇔浄土。


つまり言葉の専門家である作家の友達が言うところによると苦海と浄土は真逆でさえない異質の言葉を並べたもの、
でありそこが凄いのだと!

苦海がすなわち浄土である、みたいな、、、

もともと水俣病の発生した八代海、通称不知火の海は物凄く凪いでいる内湾で魚介類がとても豊富でいくらでも採れるので、経済活動をしなくても、つまりそれらを釣って売ってお金を作らなくても海からいくらでも採れる魚介類を食べて生きていくことさえ出来る極楽?の地だったそうです。

そこにチッソが有機水銀を垂れ流して食物連鎖で魚がまずおかしくなり、それを食べた猫がくるくる回るようになり、ついには人も発病し、そのお母さんから生まれた赤ちゃんまで胎児性水俣病患者となって生まれてきて極楽の海は一転して苦海に変わってしまいました。

その中で散々苦しんだあげく「チッソを許して水俣病を背負っていく!」と言い切った方々。
水俣病で不自由な身に生まれながら、多分逆にそうだからこそ曇りのない思い、動きで
自分自身と向き合わざるを得なくて祖父から「仏」と言われた胎児性の患者さん。

苦海は確かに毒の回った汚れた場所なんだけれど、何故か仏さまが住んでおられる。
仏さまがいらっしゃるからといって清らかな土地であるわけでなく、やはり苦海は苦海である、というどうしようもないその矛盾、、、


朝陽の昇る頃、例によってえっちらおっちらマンションの部屋の前の廊下を歩く練習をしながら、何故か!ふと人ももともと矛盾した存在だったと思い出しました。

この世に生まれるということは勿論死ぬことが前提だし、1人の人の中には喜怒哀楽、争いも平和も、自分をまもるために人を傷つけることも傷ついた人を癒すことも、あらゆる命を殺すことも助けることも実は同時に存在しているんですよね!

そして この世界では嬉しいことも悲しいことも愛することも憎しみを持つことも同時に起きているし、例えば真面目に努力して作物を育てあげても自然に破壊されたり、盗まれることもあって決して努力や正義が報われるわけではない不条理や矛盾に満ちあふれています。

この地球上の世界で起こること自体、いやそもそも人間自体が生まれたときから死ぬまでどうすることも出来ないほど矛盾した存在なのに、それが一人一人のストーリーでは時系列に順番に出来事が起こったりするので、何となく喜怒哀楽などの一つだけに焦点が当たってしまってそこに囚われてしまい、自分自身も世界も実はどうしようもない矛盾している存在だということからつい目を反らしフラットに見ることをしないで、表面の波だけを見て目を奪われて そうでない部分を同時に観ることなく気にも止めずに生きてきてしまったかもしれない!

でも、矛盾した存在であるのならそれはどんなときでもどの瞬間もそういう存在なのだから、もしかしたら表面だけ観たら観えないかもしれないその部分も一緒にいつも感じて観て考える、つまり意識することはとても大事なことかもしれない。
それって視点を変えればとても贅沢なことかもしれない、と理屈でなく浮かんできた!?のでした。

そして矛盾を意識しようとしたら、当たり前のようにある目の前のもの、起きている事柄や、自分自身でさえもそれがどこから生まれてきているのか?それらが物質となる以前の世界を観ようとせざるを得なくなるのかもしれないと思いました。

それは身体のバランスが取れなくて極端に動きを制限されている私が今の状態で何とか動こうとしたとき、必然的にこの動きはどこからやってくるのか意識せざるを得ないのと似ている気がしたのです。 

あくまで等身大でだけれど、物質が生まれる前の世界から物質が生まれてくるところを観る、ということは形のない世界から形を生み出してきた様々な優れた芸術の世界をまさに観るようで それで動きのことをいえばバレエやダンスなどの洗練されたアートは勿論のこと今まで当たり前だと意識すらしなくて動いていた生きていくための当たり前の日常動作でさえ ちゃんと意識して動かそうとしてみると、何ともアートなんだなぁ♪人間ってもともとは宇宙の芸術作品だったのかもしれない、とまで妄想する日々(笑)です。