フィールドワークの途中で出会った風景。
くねくねした山道を登っていったら、突然煙が一面に立ち込めて、前も見えないほどでした。
山火事かと思ったほど驚いたのだけど、この集落の棚田では、きょう何軒かの家が稲藁焼きをすることになっていたようです。
こういうアクティブな火の扱いを見ていると、なんだか、焼畑のようで、プリミティブな感受性に訴えかけてくるものがあります。
たぶん、一軒だけでやらずに、何軒かがいっしょに行うのは、もしも飛び火したときのことを考えてのことでしょう。
火を扱い、火を制する民俗技術ということでしょうか。
こういう、具体的な作業を核として、集落の意識が醸成されてきたのだから、「村」という意識は、そう悪いものではないはずなのですが、・・・
昨今では、「原発村」とか、「○○村」とかいう使われ方が多くて、村はイメージが悪いですね。
山間部の棚田の景観や、そういう不利な耕作条件でも、あきらめずに立ち向かい田を切り開き稲を育ててきた人々の精神性というものは、素晴らしいと思います。
また、そういうものは、わたしたちの奥深くに眠る何者かを揺さぶる力を持っています。
ただ、現実的なところを申し上げれば、
日本の棚田を守ろうとすれば、代表的で規模の大きな有名になった棚田を守ればいいということではないのですよね。
全国に数多くある小さな棚田の水稲栽培を個人の耕作者が維持してゆける仕組みや、もっと踏み込めば、過疎高齢化が著しい集落を生活の場として維持してゆけるような合理的な仕組みがないと、案外、すぐ近い将来に、こういう棚田が耕作放棄地となって一斉に荒れてゆくでしょう。
一方では、「日本人の心の原風景」と持ち上げながら、現実的には、集約化で色んな生活条件が不利になっていて、学校に通う児童などを抱えている家は、口には出さないけれど大変な思いをしているという事実。
ひとが暮らし続けてきた場所が、なぜ暮らしが成り立たない場所となってきてしまったのか。?
近いうちに、もう一度ここを訪れて、
無くなってしまわないうちに、火のつけ方、火の制し方など、稲藁焼きの作業をことを聞いておきたいと思います。

