わたしどもで展開している“養蚕・製絲・機織の文化発見プロジェクト”の聞き取り調査の作業の中で、色んな集落にお邪魔していますと、インタビューさせていただきました方の年齢によって違ってくるのですが、地域ごとの養蚕の仕方の特徴というようなものが現われていて、とても興味深く感じています。
先日に、お伺いした集落では年三回養蚕をなさっていたそうです。
養蚕が専業的な生業になっていった地域ができてくるのは、そんなに古いことではなくて明治以降のことではないかと思いますから、それまでは、養蚕がある地域でも多角的な複合的生業が営まれていたと思うのですよね。
一極集中の価値観の歪が、社会や経済や文化のクライシスを呼ぶことは、経験的に実証されているし、昔、繭が高く売れることから、食料の生産にあてるべき田畑にもまで桑を植え、食料自給率の著しい低下を引き起こした歴史が養蚕でも起きていました。
だから、わたしどもで調べているのは、そのようなリスクの領域に敢えて踏み込んでいった無反省に需用に引っ張られて増収増産を目指した養蚕の姿でない、その少し前の養蚕のことです。
今回、インタビューされていただいた方は、山間部でも稲作の規模が大きめの地域の方でしたので、稲作の作業の合間に巧みに飼育を配置して、春蚕、夏蚕、秋蚕と、三回飼っていたそうです。
今終えたばかりの、うちの秋蚕の事も例にしながら 特に秋の養蚕について御伺いしたのですが、その地域では、秋蚕を終えてから稲刈りを始めたのだそうです。
わたしは、「昔の稲刈りは10月に入ってからですよね。」と、思わず聞きなおしてしまいました。
なぜなら、桑の葉がいつまでもつのかというところに興味があったからです。
あたらしい養蚕書(新しいといっても、明治や大正や昭和のものですが…)では、温度と湿度管理のための記録が徹底された“科学的”な飼育法が説かれるのですが、わたしが興味があるのは、もう一方の自然観察に基づいた農事暦的なものなので、他の作物や農作業との関係が気になります。
例えば、三重県の場合では、お茶と養蚕が竝っている場合が多いので、養蚕の時期がいつから始まったのかについて気になったので調べてみたところ、県の統計史料の中に明治十年頃から各作物ごとに播種と収穫の時期をまとめたものがあり、それによって概ね、茶摘を終え製茶の時期に重なって養蚕が始まっていた様子を辿ることができました。
茶の栽培が盛んな地域では、茶摘が養蚕の始まりの指標となっていたのです。このように、百年以上経った後の世界から当時の農事の様子を訪ねることができたのも、統計を作成する側にも農業経験があり、単に生産高や売価などの課税対象になる数字だけを求めて記録をつくっていなかったからに他ならないからだろうと考えています。
とにかく、今年は、天候のめぐりが悪くたいへんでしたが、それなりに恙なく終えられたので、それはまたそれで善しと致しましょう。


