限界集落の棚田の田植えと水 | ーとんとん機音日記ー

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山間部の限界集落に移り住んで、
“養蚕・糸とり・機織り”

手織りの草木染め紬を織っている・・・。
染織作家の"機織り工房"の日記



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 食行身禄の里(三重県津市美杉町川上)の棚田で田植えがが始まりましたが・・・。

 二年前の紀伊半島に甚大な被害をもたらした台風12号による災害で、こちらの方でも山崩れ(山抜け)が起こり、相地集落の棚田に水を送る水路(ゆうで)が破壊されてしまいました。

「山村から・・・(その1)」【台風十二号による坂本川流域での山崩れ】

 去年は、途中の小さな渓流から取水する工夫を自分たちでした上に、比較的に雨が降ってくれたことにも助けられて、なんとか稔りの時を迎えたそうですが、今年は全体に雨が少なく、期待していたGWの雨も降らず仕舞いでしたから、取水できそうな渓流の水も少なくなっているので、細い水の流れがようやく得られた状態です。
 だから、まるで、雨水だけを頼りに作る、天水田のようになってしまいました。昔は陸稲(オカボ)もつくられた事があったそうですが、そういう品種の籾を自家採種してつくり続けている家もないので廃絶してしまっていますが、こういう時に、そういうものが今もあったら・・・と思います。


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 細い水の流れをようやく集めて、幾日もかけて、やっと代掻きにまでこぎつけましたが、ここ数日の日照で田圃の土は乾いてしまいました。


 この相地集落では、もう田圃をつくっている家は3軒に減ってしまいました。
だから、灌漑水路の維持も、この3軒力だけで行なわなければならなくなったところに、二年前の台風12号によって、山崩れで水路が破壊されて途切れてしまったのです。
 だから、今後も、この田圃で稲作を続けて行くならば、灌漑水路を復旧しなければ、今年のように田植え前まで雨が少ない天候の年には、その度に水に苦しむということになってしまいます。

 「水がなければ、どうしようもない。」

 田圃をつくっている3軒の家々では、「田植えを止めてしまおう。」という事も話し合われたそうなのですが、でも、こういうことって、一年休んでしまうと次の年に再びつくろうという意欲が湧くのかどうかと云う事もあります。
 自然との対話というのは、結局、自分との対話なんだと思います。
厳しい現実に対峙したときに、挫けてしまえば、それまでのこと。
それに打ち勝って、少しでも歩みを進める気があるのかどうかと問われているのでしょう。
 自然は、素晴らしい恵みを与えてくれるのですが、決して優しくはないと思います。

 「どうか恵みの雨を降らせてあげてください。」と、私どもも祈っていたのですが、如何なる天意か、雨はまだ降りません。
 結局、田圃をつくっている三軒のうち二軒の家々では、それぞれが高低差6mは十分にある下の河川の水面からポンプで水を汲み上げて田に水を入れることにしたそうです。

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 前の記事
「霜害と掃き立て。-山間部集落での養蚕- 2013/05/01のなかでもふれた事ですが、日本では明治33年(1900年)の時点から既に消費が生産を上回り、97.8%の自給率となっていて、明治43年(1910年)では、97.5%の自給率というように少しづつ自給率が低下してゆくのです。
 明治45年頃では、・・・


米(一反歩収益)
収入 二十九円二十三銭九厘
支出 三十四円八十七銭三厘
差引損 五円六十三銭四厘
麦(一反歩収益)
収入 十一円六十七銭四厘
支出 十五円十七銭二厘
差引損 三円四十九銭八厘

・・・というような、現在の農業について良く耳にする『米を作れば作るほど損が嵩む農業。』の形になっていた事を、明治の新聞記事が伝えています。
 そして、明治45年の7月30日に元号が替わって大正1年の記事に、「農家の減少が社会問題化している」ことが伺えるものを幾つかありますが、そういう“農家の減少”が社会問題になるというような、当時の日本社会の方が、現代よりも健全なのかもしれません。

 しかし、省みれば、明治45年当時にも、完全につくれば赤字になるようなコスト割れを覚悟の上で、お米をつくり続けた人々もいて、そのような赤字を抱えながらも農業に携わり続けた人々も居るということは、どういう意味を持っているのでしょう。
 そのような、赤字を覚悟で米をつくり続ける人々は、コスト計算も出来ないような無学で無知な人々だったのでしょうか。?
現代的な経済価値優先の合理性からでは、『そういう人々を、方向転換できない負け組み』とか、『経営感覚に欠ける馬鹿』と呼びますが、果たして、それらの人々は皆、そういう人々だったのでしょうか。?


 その後、日本は、坂道を転げ落ちるように、世界的な大恐慌に巻き込まれ、戦中・戦後の食糧難時代を迎えます。
 その戦後の食糧難時代を乗り切るために、小作層にも生産意欲を持たせて、食料生産量を向上させようとして農地改革(農地解放)を断行したと云う事なのですが、それから半世紀以上経って、明治の末のような「コスト割れ生産」は解消できたのでしょうか。

 明治の末にも 「コスト割れ覚悟で、お米をつくり続けた人が居たように」、今も、ここに同じ思いの人たちが居るということは、どういうことを意味するのでしょうか。?
 多分、戦後の食糧難を経験しているからこそ、「お米をつくり続けること」を諦めないのでしょうが、しかし、その人たちの世代も、高齢者と呼ばれるようになってしまいました。

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 わたしの世代の人々や、わたしより若い世代の人々は、食糧難や飢えと云うことを知りません。わたしも、そういうことを経験した事がないし、食卓から食料が消えて、自分や家族の食欲を満たせない事があるということを想像できません。

 わたしにとって、飢餓に苦しむ地域や、難民キャンプの出来事は、自分が巻き込まれないテレビの中の映像でしかありません。
 わたしは、自分が巻き込まれない安全な立場から、それを見ていて、“かわいそうな、その人々な為に、テレビが呼びかける募金を少しして・・・。”それで人間としての義務を一つ果したような気になって、すぐさま「この世に飢餓という救いようのない出来事があること」も忘れてしまいます。
 ましてや、自分自身が、そういう救いようのない混沌の中に巻き込まれることなど、あろうはずもないという根拠のない思いと、自信だけは、自分の中にあるのです。

 機織をやっていただけの、わたしが・・・。
ある出来事をきっかけとして、全く分野違いの養蚕に踏み込むことになって、桑を育てる為に、休耕地や耕作放棄地という、もとは立派な田圃や畑だったのに荒れてしまった土地を耕すことから手がけてみると、いろんな事がわかってきました。

 今年は、不測の天候の運びで、うちの桑畑の一部が、凍霜害に見舞われました。
近隣では、茶などに被害が出ています。
 二年前には、千年に一度といわれる、大地震が日本を襲いました。
世の中は、不測の事だらけで、わたしは、その不測の世の中の中で、ささやかな生を営んでいます。今は、ただそのことだけが、わたしにとって実感できる確かなことだと気付きました。

 資本主義があるのなら、農本主義も鼎立してあっていいのではないですか。?
グローバル経済というような壮大で、様々な要素が相互に影響しあう複雑な投資経済の論理だけでなく、自給し自足する、ささやかな営みからの経済の論理も鼎立してあってもいいのではないでしょうか。?

 農地を集約的に整備して耕地面積を広くすることによって、機械化によるコストダウンや経営の合理化に拠るような農業を展開しやすいのは平野部ですが、平野部では逆に農地が減少して都市市街化・宅地化が進んでいます。日本の地理的な特徴から、市街化開発が遅れた中山間や山間部の方に、農地が残されているのだと思います。
 けれども、その広い面積の平坦地が少ない中山間や山間部に対して、高度成長期の新興住宅地を造成するように、自然地形の傾斜を削り、土を均して広い農地にするような方法を講じるのなら、不合理な農地の再開発をすることになってしまいます。
 だから、現在の中山間や山間部農地の形状を生かした何らかの方策は成り立たないものなのでしょうか。?

 もし、田畑の灌漑用水路が復旧できたり、もう少し維持管理にかかる労力が軽減できるような改修ができたり、小さな管理機械を入れやすいような農道が整備できたり、獣害対策が手当てできたり・・・というような農業インフラを整備することができるなら、この地域での耕作は続けられますが、このままでは、そう遠くない将来、耕作できなくなった農地が加速度的に増えてゆくでしょう。
 空き家が増え、農地は荒れ、ひとが消えてゆきます。
それが高齢化が進行した限界集落の現実です。
なぜなら、そういう土地は、不便で仕事もなく食べてゆくこともできない価値のない土地だと云うことになっているからです。

「でも、それは本当の事なのでしょうか。?」


 戦後の食糧難の時代を生きた人々も高齢者となり、そういことの現実を想像できない、わたしたちの世代が残されます。
 富士講中興の祖、食行身禄が生まれた勢州壱志郡川上邑には、昔から伝わる“祭講(まつり講)”という祭祀行事があって、わたしが住む非浦集落に伝わる「万治元年(1658) 始」と墨書された祭講文書の中に安政伊賀地震が起きた年の嘉永7年6月と記された祭文が含まれていますが、そのような天災をも超えて、この地域の棚田は耕され続けてきたのですね。
 そして、集落の田への水の恵み司る弁財天を、小宮という名で現在の三重大学演習林の中に祀り敬っていた様子が、その祭文からも窺えます。
 祭文が書かれた嘉永7年(安政元年/1854)には、その後11月4日、安政東海地震。11月5日、安政南海地震とつづきました。
 今の日本では、そのような天災を乗り越えて続いてきた営みをささえたものでも、TPPを基準としてみたら生産性が悪いので価値がないものなのだそうです。
 
ーとんとん機音日記ー-勢州壱志郡川上邑蔡講文書


 この田圃がある相地集落から河を渡った向い側にある、わたしの住む非浦集落は、今年11軒から9軒になりました。“集落機能の存続”と“集落の終焉”というような相反する事が鬩ぎ合う限界集落に、きょうも穏やかな日々が流れてゆきます。

 
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