霜害と掃き立て。-山間部集落での養蚕- 2013/05/01 | ーとんとん機音日記ー

ーとんとん機音日記ー

山間部の限界集落に移り住んで、
“養蚕・糸とり・機織り”

手織りの草木染め紬を織っている・・・。
染織作家の"機織り工房"の日記

ーとんとん機音日記ー-霜害-001


今年は、なんという事でしょうか。

初夏のような汗ばむ暖かい日が数日続いたかと思えば、
急降下で冬のように寒い日がやってくるというような事が幾度か繰り返されました。


五月に入った初日のきょうも、昼間から寒い日になりました。


平成25年5月1日10時45分 気象庁予報部発表
予報期間 5月2日から5月8日まで

 北日本の日本海側と北陸地方では、気圧の谷や寒気の影響で雲が広がりや
すく、期間のはじめには雨または雪の降る所があるでしょう。期間の中頃に
は晴れる日もあるでしょう。
 北日本から東日本の太平洋側と西日本では、高気圧に覆われて晴れる日が
多いですが、期間の終わりには気圧の谷の影響で西日本から雲が広がる見込
みです。


ーとんとん機音日記ー-桑の霜害‐002


 これまでの降霜によって、うちの桑畑で被害が出ました。
被害は稚蚕用の栽培グループの一部と、暖かくなったので被いを撤去してしまった育苗畑のところです。


 新芽が開いて、丁度、瑞々しい若葉になったころに、寒波に襲われて凍霜害が起きました。
 桑の場合は、どれだけ気温が下がれば、凍霜害が起きるのか、実は、わたしもはっきり把握している訳ではないのですが、
「越冬した冬芽は、早春から成長し始めるにしたがって耐寒(凍)性が低下してき、萌芽2週間前で-5℃(葉温)、萌芽期で-3℃、1~2葉開葉期で-2℃以下になると、それぞれ被害が発生すると言われています(降霜時の葉温は地上1.5mの(百葉箱)気温よりも5℃ほど低い)。特に開葉後の降霜による被害は、一番茶の減収、品質低下を招き、大きな損害を被ることになります。」-三重県中央農業改良普及センター-という、三重県の農業改良普及センターさまの茶園にかかわる情報を参考にさせていただいております。

●22日の凍霜害、農作物被害が16億円超【長野】2013年4月27日中日新聞web
●低温と霜で農作物被害16億円【長野】読売新聞

●《茶況》 県内の一部茶園で凍霜害【静岡】2013年4月14日中日新聞web

●文化育成『八十八夜』新茶で活路を…凍霜害 被害の大部分はわせ種 2010年5月8日中日新聞web

ーとんとん機音日記ー-桑-凍霜害-003


 桑も品種によって、芽が膨らみ葉が開く時期が違うので、稚蚕飼育に使おうと考えていたグループのうち、開葉の時期が早かったものほど被害が大きくなりましたが、ちょうど、芽が膨らんで葉っぱが開こうとしていたグループ(下の写真左)では、少し被害を被った程度でしたし、まだ冬芽から目が膨らみだした頃のグループ(下の写真右)には全く被害が現れませんでした。


ーとんとん機音日記ー-桑の凍霜害比較-01


 今年のような遅い時期に凍霜害が起こるような気候の不安的な年には、発芽して成長期になった農作物全般に被害か広かる事も発生します。
実際に、わたしのところの近隣では、お茶などにも被害が出てしまいました。

 昔は、このような時には、桑畑の畝間で一晩中火を焚くというようなこともして、凍霜害の被害を避けたそうですが、不意に襲い来るものには抗いようもなく、横浜市泉区の養蚕供養塔には慶応2年(1866)の霜害の為、そのあたり一帯の桑の葉が枯れたので、蚕が育てられず大量死したものをこの地に埋め、その後、供養の為に建立したものとの由緒が伝わります。

 不安定な春先の気候変動による桑葉の被害については、他の地方でも「発芽間もない桑葉が黒死し…」というような、かなりショッキングな表現で、その被害が伝えられている明治20年・明治26年・明治29年・大正5年の西上州(群馬県)での降雹・降霜被害の事がありますし、前述の慶応2年(1866)の降霜害は関東一円に広がる大規模なものであったようで、「続日本紀」に「大宝三年(703)四月乙未。従五位下高麗若光賜王姓」と記される、668年に唐と新羅によって滅ぼされた高句麗から亡命して来て臣下として保護された 高麗若光を祀った高麗神社(現埼玉県日高市)の「桜陰筆記」(高麗神社文書)に、霜害の為に桑が傷められ蚕違い(不作)に陥り、高額な値段で桑葉を買ったなどのことが記載されているそうです。

 このような春先の稚蚕飼育時期に起きる雹や霜による桑葉不作の場合に限らず、大規模に養蚕を行いそれを主軸にして生計を立てるような傾向が強まった地域では、桑葉の不足に陥ると「農具・妻の嫁入り道具・娘の着物・夜具布団の類まで質に入れ、高額な値で桑葉を買って蚕を飼う」というような事が起きた様なのですが、…。


 「八十八夜の別れ霜」「八十八夜の泣き霜」「九十九夜の泣き霜」などというように、5月半ばごろまでは、年によって不安定な気候に襲われ、甚大な農作物被害が起きる事があります。
 だから、民俗知として、主要作物の作柄に左右されないような適正規模栽培やリスクを分散する為の工夫や被害を回避するための工夫が講じられてきました。


 上記の消防防災博物館さまの記事に、明治26年(1893)年5月6日の大霜害を契機にして、「埼玉県児玉郡松久村広木(現・美里町)では有志者が資金を出し“天気予報組合”を設けた。」という事が記されていているので、「発芽間もない桑葉が黒死し…」と伝えられる明治26年の降霜・凍霜害は、群馬県安中地方などにも及ぶような関東平野全域の広範囲にわたって甚大な被害を生じたものであったことが解ります。「碓氷郡志」に依れば、「5月郡内一般に大霜、桑園の10分の9までは全滅の惨状」と記されています。
 そして、埼玉県の場合では「埼玉県では翌27年1月、各郡の養蚕者に霜害予防組合を結成させた」と云われるような県をあげての取り組みが展開された事に先駆けて、埼玉県北足立郡馬宮村の足立養蚕伝習所から「気象と養蚕」という書誌が明36年12月に上梓されていることが目を惹きます。

忘れ霜
春、遅くなってから降りる霜のこと。古来「八十八夜の別れ霜」といって、立春から数え
て八十八夜(五月二日頃)ごろに最後の霜が降りると、農家に恐れられた。野菜や桑や茶
などに害をもたらす霜である。



 明治45年に奥州で起きた降霜害では、福島県の例では、最大の養蚕地帯である伊達郡、それに次ぐ安達郡、信夫郡、田村郡に拡がって著しい被害がでています。記録された当時の惨状を拾い上げてみますと…

「安達郡は殆んど全部に渉り、一度ならず二度三度の霜害に遇うて、遂に芽を出さずにしまった桑がある。其後二回三回の霜害に枯凍して全々見込の綱を絶たれた桑園もある。」
「田村郡下は片曽根、大越、滝根、山根、都路、常盤の五村一町が被害最も甚だしい。」
「西白河郡は矢吹、三神、中畑、吉子川、釜の子の諸村が被害激甚の地。」
「伊達郡に被害の多きは小手川村の附近から阿武隈川に面せる粟の宮、伏黒、伊達崎の諸村で蚕児四五齢に達して与うる桑の恰度新芽の出かかった時期の降霜で殆ど焼き尽されてしまった。(この地方では霜害を焼かれるという。)」

 この明治45年の霜害が、これまでに挙げた降霜・凍霜害と異なるところは、この奥州での霜害が引き金となって、上州や信州で繭価の高騰を引き起こし、それが生糸の国際価格安値で疲弊している製糸業者を直撃しました。当時の生糸相場から逆算すれば「信州上一番格八百二十五円見当にして、原料繭代を含む生産費は八百三十八円相当を要し、差引十三円前後の損失。」というような状況であったそうです。


 製糸業が、地域で生産された繭を用いた形から、日本の全国各地に優等な繭を買い付けに行く時代にさしかかり、霜害という農作物被害が、日本全国に及ばない局地的なものであっても、場合によっては経済的に連鎖して、その影響が日本の産業全体や経済全体に思わぬ形で波及してゆくことが顕在化してきたという点は、生糸に頼った日本の輸出依存型経済というものに綻びが現れてきたということの一端を示しているので、この明治45年頃というところが一つの境目になっていると思うのです。
 また、この明治45年という年には、郵便貯金の不良融資や不良債権問題が明らかになってきたり、米価格も高騰が起きてきたり、なにやら現代日本のバブル経済崩壊以降の貌と似通った景色が見受けられます。
 そのような目で、改めて、明治の生糸輸出に頼った輸出依存型経済というものを振り返れば、たとえて云うなら、それは「シルク=バブル経済の道」だったようにも見えてきます。
国内産自給食糧(domestic food)と輸出向商品作物(cash export crop )のバランス。
国内産自給食糧と輸入食料のバランス。


「戦前期養蚕業の経済分析」(土井時久/北海道大学農經論叢)に示された「米および麦類の生産と消費」の対比表に依れば、明治33年(1900年)の時点で既に消費が生産を上回り、97.8%の自給率となっていて、明治43年(1910年)では、97.5%の自給率というように少しづつ自給率が低下してゆくのですけれど、しかし、この僅か3%未満の不足が明治45年の米価格の高騰を引き起こした契機になっているのだとしたら、国民の食を満たすべき食料が100%でなくなる事で起きてくる事を想像すると凄く恐ろしいことではありませんか。
 そのような物を、自給する努力もせずに、経済的でないから輸入依存に負わせて改めないということや、輸出依存経済の道を、あいもかわらずに走り続けようとしている事は、冷静に考えれば凄くリスキーな賭けを続けていることなのかもしれません。


 この後も度重なって甚大な霜害の被害を被った養蚕の側から、このように甚大な被害をもたらす霜害リスクをどのようにして避けるのかという点が大きな課題となりました。
 そういう働きかけが、「霜害保険の創設を当局に陳情(昭和3年)」という動きになって、昭和14年4月、農業保険法が施行されて、各都道府県で農業保険組合連合会の設立が進められ、それが、現在の「農業災害補償制度(農業共済)」に結びついています。

●TPP減収農家に補填検討 農水省・自民、共済を拡充2013年3月23日朝日新聞デジタル

 小泉改革以降、日本の保守政党であるということが疑わしいと思えるような振る舞いを重ねてきた自由民主党ですが、「農業災害補償制度(農業共済)」の成り立ちや、その目的を理解できなくなるほど、党の道理が狂い、目先の欲に引きずられて是非の判断も出来なくなるほど落ちぶれてしまったのでしょうか。?

 TPP参加によって起きる農家の減収被害は、「そのような産業被害が出る事にも目を瞑り、敢えてそのような協定に参加しようとする為政者の不明がもたらした被害です。」

 「農業災害補償制度(農業共済)」は、今まで記してきたように農作物の降霜・凍霜害などの自然災害や不測の作物の罹病災害など、自然の不確定要素によって甚大な被害に発展しかねない農業という営みの弱さを補い、被害農家を救済しようという趣旨のものですから、TPP参加によって起きる農家の減収被害というような、「そのような農業被害が出る事にも目を瞑り、敢えてそのような協定に参加しようとする為政者の不明がもたらした人為的被害」に対しての救済を担保する物として用いたならば、それは即ち、農業災害補償制度が本来守るべ農家よりも、「どんなに愚かな農業政策を行っても糾弾されない」為のセイフティーとして政治家を守る為の制度に改悪されることではないでしょうか。?

そのようにして、農家の為のセイフティーとして蓄えてきた財源が、TPPによって食い荒らされてゆけば、皆保険である国民健康保険制度が標的にされ、日本がつくり上げた誇るべき医療セイフティーが壊されてゆくように、明治から100年以上の時間をかけて、紆余曲折の上に少しづつ積み重ねてきた日本のシステムなど、一瞬で壊されてしまうでしょう。

 

●農業災害補償制度 -農林水産省-

●農業災害補償制度の概要pdf -総務省-

●NOSAI全国(全国農業共済協会)/目的と事業

 明治45年の日本は、とても興味深いです。
現在の日本の状況が時代を超えてそこにあるような気がします。


米(一反歩収益)
収入 二十九円二十三銭九厘
支出 三十四円八十七銭三厘
差引損 五円六十三銭四厘
麦(一反歩収益)
収入 十一円六十七銭四厘
支出 十五円十七銭二厘
差引損 三円四十九銭八厘


 米を作れば作るほど損が嵩む農業。
麦を作れば作るほど損が嵩む農業。
それなら、いっその事自分で作らずに米を買おうとしたら、米価高騰で、とても手が届かない。
 士族階級の子女が勤めることから始まった、明治の花形産業である器械製絲の高給取り製糸女工は、この時期頃から村で食い詰めた零細農家の子女が勤めるようになってきたようで、だんだんと「あゝ野麦峠」に記された女工哀史ような世界になってゆきます。

 作物を作れば作るほど損が嵩む農業ならば、農村は疲弊してしまいます。

 その農村の疲弊の原因は「輸出製糸の原材料生産することが求められて養蚕が広あったことによる。」と論じる明治の新聞記事がありました。
 その要旨は、「蚕糸業のために富んで白壁の家が多く出来た。富を作ったのみならず智識も啓発された。養蚕は一時に金が入るので、これが農家をして驕奢に流れ易からしむる原因になった。それで儲かったように思って仕舞い、此の中から桑代、肥料、手間賃、種代等総ての生産費を引き去ることを忘れて、男はインパ子女はコートと云う風に先ず贅沢品を求めるようになった、飲食物も之れに準じて来た。稗、粟、蕎麦等肥料のいらぬ畑が減じて肥料のいる桑畑となったので肥料代が嵩んで来た。農夫の最大資本たる体力が非常に欠けて来た、現代の農夫は昔時の農夫の如くに巌丈の身体でなくなった、農具の商店の話に“重い鍬は駄目だ、もっと軽い鍬はないか”と云うお客のみとなった。」

彼の記事は記す『養蚕の為に開けたが養蚕が開ければ開けるほど貧乏になる。』
明治45年、7月30日に元号が替わって大正1年の記事に、「農家の減少が社会問題化していることが伺えるものを幾つか認めることができます。」

 みなさんは、このような明治の記事を御覧になって、どう感じられますか。



 わたしは、とても面白いと思います。
だって、つまり101年の時を超えて、日本は同じようなシーンに廻り合っているのですから…。
外需依存の輸出経済に引きずられて、101年もの間、迷路の中を彷徨っていた日本が、巡り廻って辿り着いた場所は、【デジャヴュ(déjà-vu)】…いつか通りかかった分かれ道。

「日本が日本として、どのような国にしてゆくのか。?」
外と内、外需と内需のバランス、輸入と輸出のバランス、通貨市場の中での円の妥当な位置とは…、海外情勢に左右されないエネルギーや食料など生活の基盤を担うものの安定した確保の方策。

「救済策難からず」

「労働を吝まず、養蚕を適度の副業と為し入るを計って出づるを制せば即ち可なりだ。」

このように、101年前の新聞記事は論じる。

ーとんとん機音日記ー-掃き立て‐養蚕


 2013年の春蚕の最初の飼育グループは、凍霜害の中で掃き立てを終えました。

 山間部集落での養蚕は、平野部に比べて真夏でも涼しいというメリットがある反面、春先には凍霜害に遭うかもしれないと思ってはいたので、蚕にやる桑がないということにはなりませんでしたが、しかし、予め工夫したりしていたことが万全ではないなと、省みるところにも気づきました。
 飼育効率を高めることによって繭の生産高を上げることを追求した條桑育による過度の切枝は、桑の木の樹勢を弱めてしまい春先(四月晩期~五月)の凍霜害に遭遇すると、不発芽を多くし、場合によっては桑枝枯性病害を発生させてしまうことなどもわかってきています。

 結局、適正規模で営むことが、安価で安定したリスクマネージメントにつながるのでしょう。

 「労を惜しまず、適度な規模で適度なことを。」

101年前の新聞記事が語りかけるメッセージを大切にして、今年の養蚕に取り組みたいと思います。


ーとんとん機音日記ー-春蚕の桑