- TAGAWA家のアルバムより -

山村生活ぎゃらりぃーを開くときに、大変お世話になった田川さんの息子さんが、集落の昔の姿wを偲ぶ事ができる古いアルバムを御持ちくださった。
別ブログ“tisser-du-tissu”で記事にした「川上の自家用茶」中で、御茶の“手摘み”のことを教えてくださった田川さんの少年のころが写っている。
そして、この写真は、“山村生活ぎゃらりぃー”として、お貸しいただいている家の庭で撮影したもので、暮らしていた御家族の姿が写っている。
今、「限界集落化」という問題に悩む、この地域には、多くの家族が暮らしていた。
集落には、子供達の声が響き渡っていたし、他所からも出働きで大勢の人が訪れていた。
奥津に至るまでの川の本流の途中に、砂防ダムができるまで、川には深い淵が幾つもあり、子供心に怖いくらいに深かったと云う。
うなぎなども溯上して来ていたし、鮎やアマゴもいっぱい獲れたと聞く。
当時の川は、もっと水量も多く、深かった。
最近では、川底が上がったきたと云う。
川の様子が変ったのと同様に集落の様子も変った。
このレトロな木造校舎は、旧川上小学校で、今はその跡地には“しゃくなげ会館”というコミュニティー センターが建っている。
昔から川上は、知られた御茶の産地で、文政の頃、小谷三志(禄行三志)が伊勢国川上村の食行身禄の生家を訪ねてきた時にも、川上の人達が、三志等一行に、御土産として御茶を持たせている。また、椎茸なども産物として挙げられているし、炭焼きも盛んだった。
校舎の前の記念写真に写っている子供達の人数は、23人。
現在の旧美杉村全体の小学生の総生徒数よりも、旧川上小学校の生徒数の方が多い。
今も、ここ川上で暮らしている人、そして、川上から出て行った人、もう既に亡くなっている方など、様々な人々がモノトーンの景色の中で時代を超えて生きている。
写真の中の人々は、どんな未来を思い描いていたのだろうか。
この地域の、今の姿を知れば、どんなふうに思うだろうか。


