“明治期の製絲場” 旧一志郡内の近代化産業遺産 | ーとんとん機音日記ー

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山間部の限界集落に移り住んで、
“養蚕・糸とり・機織り”

手織りの草木染め紬を織っている・・・。
染織作家の"機織り工房"の日記

- 明治期の製絲場を発見 -



さて、糸取りや、機織の合間を縫って、
いろいろ養蚕の準備のことがありますので、
気がつけば一日が終わっているような毎日ですが、・・・。

最近、ちょっと気になる事案を見つけたので、その調査にも時間が必要だから、だんだん予定が目まぐるしくなってきました。
・・・と申しますのは、先ごろ、3月10日に近くの八幡地域住民センターで、津市主催の「景観まちづづくり講演会」というものが開催されていましたので、ちょっと覘いてみましたところ、パネラーでいらっしゃっておりました方から、製絲場として使われていた建物が残っているという興味深い事をお聞きしたのがきっかけです。

その方は、その製絲場跡について、それ以上の情報を御持ちではなかったものですから、私のほうでいろいろ文献上で追跡してまいりますと、興味深いことが幾つか浮かび上がりました。


最近では、群馬県の官営富岡製絲場跡の建物群を世界文化遺産に登録しようとする働きかけが行なわれたことから、養蚕・製絲にまつわる近代化産業遺産に注目が集まっています。

今回、わたしが興味深いと感じているものは、“官営富岡製絲場”のような、明治のレンガ建築でもなく、例えば、三重県にありますような、旧伊藤製絲場の流れを汲む操業を停止した亀山製糸室山工場のように瀟洒な洋館風の建物群でもありません。

それは、例えば、“富岡日記”の著者 横田(和田)英が官営工場の器械製絲技術を習得し、郷里に帰って製絲の殖産に努めた松代六工社のような、日本人が器械製絲技術を咀嚼し、それまで培った日本の技術の上に、さらに工夫を加えて技術を受容してゆく中で生まれてきた、純国産器械製絲機による製糸工場の姿です。

そのように発展を遂げたものとして、松代六工社の近在では、長野県須坂地方の水車動力を用いた器械製絲や、後年の片倉製絲を生んだ、諏訪湖周辺から下諏訪地方を中心にして発達した、いわゆる諏訪式繰糸機と呼ばれるかたちに結実していったものが良く知られていますし、この諏訪式が日本の製糸産業に与えた影響は大きなものがあります。





例えばこの地方の早期の事例では、長野県諏訪郡下諏訪町下の原の呉服雑貨商 中村平助が、明治五年に御手洗汐に径五尺の水車を仕掛けて,十釜の器械製糸を始めたと伝わる例があると聞きますから、日本人は、単に、外国から機械を輸入して、それに頼って近代化し、近代産業を興したのではなく、その原理を咀嚼し、自国の技術の中に溶け込ませていった(受容した)という過程をたどって、今日の日本の技術の基盤を築いてきたのだと思うと、感慨深いものがありますね。

だって、この下諏訪町下の原の中村平助の水車を用いた器械製絲は、明治五年というのですから、これは官営富岡製糸場が設けられた年ですよ。!!

こういう方面の話題になると、熱くなってしまうから、
つい話題がそれてしまいましたが、・・・





今、わたしが着目して調べている製絲場も、そのように国内の技術で造られていった器械製絲場の系譜に連なるものなのです。
そして、わたしのところが文献上で見当を付けた事例と、その製絲場跡が同じものなら、ちょっと面白いことになるのです。

その内容の概要は、すでに、着実な地域文化発掘活動に理解がある地域の方々や、地域づくりに尽力されていらっしゃる方や議員さんにだけ御知らせしてはおりますが、もし仮説付けたとおりならば、後日に、その詳細をブログでも、お知らせする事もあろうかと思いますけれど、それまでには、もっと地道な検討作業が必要です。






加えて、冒頭で、とても興味深いと申しましたのは、三重県の旧一志郡内では、奈良県と伊賀地方とに接した、郡内の最山奥部の旧一志郡太郎生村から、器械製絲場ができ始めて、それが川下の平野部に波及してゆくのです。今では、まったく逆のイメージで旧太郎生村やこの辺りも過疎地ですから、当時の中勢域の情報や経済や文化伝播の流れを考える上で、面白いなと感じた点なのです。

これを、昔の事としてしまうのではなくて・・・、
現代の情報や経済や文化伝播の流れの主軸を変えられる何らかの着眼点が見つけられれば、限界集落化した過疎地に時代の最先端の位置づけを与えることができるかもしれませんね。

だから、そういう意味でも、レンガ建築や洋風建築という近代化産業遺産がもつステレオタイプなイメージを見事にバシッと裏切っているような、伝統的な杉皮葺きで杉皮壁という、この製絲場跡の建物が、今、私の中では、すっごく、Alternativeで、Rockで、かっこいい存在なのですよね。