現在開催中の大阪万博。1970年の大阪万博との比較の中で、70年時の中心的人物として、小松左京や岡本太郎が最近よくTVに登場しますが、そこになぜ、私の尊敬する人物「梅棹(うめさお)忠夫」という人が出てこないのか、不思議に思っています。私はこのひとこそが1970年大阪万博を作った人だと思っています。
梅棹忠夫さんは、日本の文化人類学、民族学の先駆者の一人で、1957年に「文明の生態史観序説」という論文を発表しました。私が読んだのは大学時代でしたが、「日本と西欧は同じような発展を遂げてきた同レベルの文明国だ」、「アメリカは西欧のコピーの国なので日本よりも文化レベルは下がるのだ」というような論旨を見て、1957年の時点でこういうことを考えられるこの人はすごい人だと、感じたものでした。
またこの人が書いた「知的生産の技術」という本は、たしか小学校の教科書にも掲載され、それを読んだ私は、そのあとから作文を書くときは、ここにでてくる文章のまとめ方を使って、作文を書いていました。
作文の時間に、まわりのみんなが一斉に作文用紙に向かっているところに、私だけ先生からわら半紙を数枚もらいそれをカードの形に切って、書きたい内容をカードに一つずつ書き出し、それを組み合わせるという作業をしていました。
その組み合わせを授業時間中に終えれば、あとは宿題で文に起こすだけで作文完了です。そのほうが早く、しかもしっかりした内容の作文ができたので、できあがった文はよく先生に褒められました。授業中に作文を書かない大野がなんで褒められるんだと、まわりからは思われたかもしれませんが、それは梅棹忠夫さんの「こざね法」のおかげです。
梅棹さんは、1970年の大阪万博が決まる前から、所属する京都大学の若手学者たちと「万博を考える会」を主宰し、学者の意見として万博のコンセプトを自主的に考えていました。そのコンセプトが国に採用され、万博の正式なコンセプトになりました。その会にいたのが小松左京さんで、そのコンセプトで万博をプロデュースする人として岡本太郎さんを指名したのです。
つまり、1970年の大阪万博の本当のプロデューサー、グランドデザインの総指揮者は、梅棹さんなのです。しかし、最近の報道にはその名前は全く出てきません。
ちなみに、万博のコンセプトを国に提供する代わりかどうかはわかりませんが、万博の跡地には国立の文化人類学の博物館をつくることを国に認めさせます。「文化人類学」という学問がまだ国民に認知されていない時期に、国立の施設を作らせる、しかも万博の広大な跡地を民間で活用したい企業の思惑もあったはずですが、それをはねのけて実現させる実行力・国を動かす政治力は、学者の能力を超え、事業家としての能力を多分に感じる人でした。
また、岡本太郎の「太陽の塔」の地下には世界の仮面や道具が展示されていましたが、それは若手の民族学者を世界に派遣して収集にあたり、そこで集めたものを万博後の「国立民族学博物館(みんぱく)」のメイン展示資料としました。国のお金で学者の研究を支援し、学者の夢を実現する、そのあたりのみんぱく設立の経緯を読むと、すごい剛腕な人だなと感心します。
そんな学者の枠を超えた剛腕さがゆえに、メディアに扱われないのかもしれませんが、その構想のスケールの大きさや考え方の大きさに、私は学者としても、ものごとをすすめる事業家としても、梅棹忠夫さんを尊敬しています。
インタビューで「尊敬する人は?」とか「座右の書はありますか?」と聞かれると、「梅棹忠夫です」「文明の生態史観です」と応えます。そのたびに上記の説明をしないといけないのですが、それでも、自分がスケールが狭いなと感じたときに読む本はこれです。
ぜひこの先、今の万博が終わるまでに脚光をあびてほしいと思います。