日本語には主語がない。主語を使ったときも、自分はわたしであり、自分はあなたである。われは自分で、われはあなたである。
「我思う、ゆえに我あり」とデカルトが言ったが、日本人は「思う」だけで「私なんてない」。
みんな論理で世界を理解しようと思っていない、だから数学ができない。
ときどき例外的に、論理で・・・思う人が数学ができる。
「思想なんてない」なにも信じないのがいちばん経済的だ。外国の無宗教は確信犯としての無宗教だが、日本の思想は無宗教、無思想、無哲学。日本には思想はない。世間ならある。「世間は思想だ」。
日本の自然災害の大きさ(世界の大地震の2割、大噴火の1割が日本で発生)が仕方がないから、無思想という思想を生んだのではないか。「諸行無常」の世界である。仏教思想とは「色即是空」の世界である。
日本人は忘れてしまったが、どんな思想も万能ではない。思想なんかないと思っていれば臨機応変に動けると、あるとき考えたのではないか。
その結果、日本は形を重んじる、「理屈ではない」「言葉ではない」形は目にみえる。茶道、武道、神道、仏道。

私の理解によれば:
有思想の国で「説明しなきゃ分からない」と考える。しかし、それは「ばかの壁」である。
説明して分からないことも多い。
江戸時代の日本人は400年もの長い間、争いを避け、穏やかに耐えて生きてきた。茶道、武道、神道、仏道が栄えた。
それがいままでの世間共同体をつくって来た。規律をつくって来た。キリスト教がいくら布教しようとしても、日本人は無思想だから広まらない。
欧米人で日本に来て、禅に惹かれ、武道に魅せられて、日本でのおだやかな暮らしを選んだ人も多いのが、よく理解できる。
それが「無宗教、無思想、無哲学」の世界である。なんとも養老先生のすごい結論ではないか。