人知を超えている。


僕は哲学において何気なくその言葉を使っている。


でもちょっとまて、その線引きはどこでしてるんだ?

どこまでが認識可能で、どこからが人知を超えているんだ?

プラトンだったかな、彼はこういっています。


「物質は物質によってのみ認識可能、

 精神は精神によってのみ認識可能」


という事は、人類の科学技術の未来は明るいですね。

これはとても良い哲学ニュースです。


それが物質によって起こる事象ならば、

必ず科学によって解明できるという事ですから。


これは素晴らしいですね、そんな時代を生きてみたいですよ、

てゆーかそんな時代がくるのでしょうか?

いや、昭和の日本人たちはそれを信仰していたんですよね、


昭和は科学技術信仰が盛んでしたからね。

まぁ、発展がすさまじかったからですけど、

理論的には可能でも、実際はそんな簡単なわけがないですからね。


物質においての全知を手に入れた人間はどんな気持ちなんでしょうか、

それは宇宙の果てを見たという事ですよ。

宇宙の果てには何があるのかな、見てみたいな。


物質には必ず限りがあるはずです。

どこかで宇宙は途切れるはずなんです、

永遠につづくなんて嘘です。


人類は宇宙の果てを見た事がないから、

究極原理の科学的探求は、永遠の保留になっている。


保留、そういわれても納得ができない。

だから最もつじつまの合うような話を求める。

理屈が限界を向かえたら、

その後はひたすらつじつま合わせに精を出すしかないわけだ。

それで霊魂論のお話になってくる。


理屈が限界を迎えたら、後はそれぞれの人間の自由になってくる。

それぞれが、それぞれに納得できるようなつじつまの合うお話を作り、

根拠のない持論に納得する。

それぞれの持論の信者になるしかなくなる。


結局、人間は信じる事しかできない。

友達、恋人、家族、その信頼関係に根拠はなく、

宗教も哲学も、全て、

根拠がないものを信じているという点で、一緒である。


それに理屈があろうがなかろうが、

結局最後に得心を得ているのは直感的レベルの感覚だ。







かなり深刻な問題です。

朝寝坊で悩んでる人って男性の方が多いらしいですね。


今日は朝寝坊してしまいました。

これから社会に出ようとしている人間が、これでは、

もうこの資本主義社会では生きてはゆけない・・・。


どうしたらいいんだろう・・・

う~ん、気合が足りないのか、他に何か原因が?

何をどう変えたらいいのか解りません。


精神的なものがすぐに睡眠にきてしまうので、

布団のなかで何時間も眠れないこともあるのですよ。


でも健康的な人って寝る間も削ってゲームやったりしますよね、

昼間アレだけ働いて徹夜でゲームですよ。

もうホントにうらやましい限りです、恐れ入ります。


やっぱり問題は睡眠ですよ、僕の天敵ですわ。

二度寝とか恐怖だよね、

睡眠欲ってのは他の欲と違うんだよね。

意識がかすれて来ますから、

理性が封印されていては戦いようがない。

やっぱり目覚まし時計の大量投与しかありませんか。


でもね、騒音が酷いので耳栓なしには眠れないんです。

そうすると今度は朝の目覚ましも防音してしまいます。


音がダメなら明かりをタイマーセットしました。

・・・朝、まぶしくて布団かぶったらさらに安眠。


起きれたとしても、授業で寝てたらイヤだ。

一日中ボーッとして過ごすようになる。


寝たい時は眠れない。

生活リズムが統一不可能。


睡眠は大事ですよね、

元気な人って睡眠に強いですよね。


時間に束縛されない仕事ってありませんか?

朝寝坊が大問題になるような会社に入る勇気ありません。


沖縄みたいに時間に厳しくない国で生きてゆきたい。


そう思うのも、これは必ずしも「逃避」ではないと思うからです。

「欠点を直す」というのも有益なことだけれども、

「他の条件を工夫して欠点をカバーする」というのも一理あるからです。

犠牲とは何か


誰かが夢を叶えれば犠牲になる者が出る。

誰かが夢を叶えようとすれば、

犠牲になってしまう者はその邪魔をする。


犠牲になったものは怒り、憎しみを生み、愛する事を忘れる。

夢を邪魔されたものは怒り、憎しみを生み、愛する事を忘れる。


愛を考える上で、「犠牲」という言葉は引っかかるのです。


競争社会、弱肉強食、


子供の頃、るろうに剣心というアニメがありました。

それに出てきた悪役の台詞です。


「強ければ生き、弱ければ死ぬ、これが自然の摂理だ。」


そうやって人は愛する事を忘れる。


人は人を食わなければ生きてゆけないのか。


なぜ僕達は存在してしまったんだろう。

僕達はもともとは星の一部で、みんな一緒にいられたのに、

分裂してしまって、みんなバラバラになってしまった。


なぜなんだろう。


なぜ分裂しなきゃいけなかったんだろう。

星の中でみんなでずっと眠っていればよかったのに、

みんな叩き起こされちゃったね。


何か目的があるはずなんだ。

意味がない事なんてないと思うんだ。

きっと何か理由があるんだ。

僕は理屈の通らないものが大嫌いだ、


でも・・・

残念ながら、この世界は理屈で説明できない事の方が多い。

なぜなら根本的なものを僕達は知らないからだ、


アリストテレスの言葉を使って言えば、

それは「究極原理」としての神のこと。

全ての根源、宇宙の始まり、


僕には知らない事の方が圧倒的に多い。

仮に、「COGITO ERGO SUM」を使って僕という存在が確かに在るとしても、

それは僕が作ったものではないのだから、

当然、僕がそれについて深く知っているわけがない。


自分自身の存在すら、一体何なのかわからないのだ。

未確認飛行物体となんら変わりはない。


人々は表面的なものだけを認識して、

科学を学び、何かを知った気になってしまうものだか、


残念ながら僕は哲学者だ。

究極原理を知らない事を知っている。

これがソクラテスのいう「無知の知」でもあると思う。

皆さんはルイ・アームストロングという人を知っていますか?

とっても有名な人で、彼の歌を聴いたことのない人はいないでしょう。

「WHAT A WONDERFUL WORLD」

という曲は色んな所で聴かれます。


僕はテレビなのでこの曲が流れる度にずっと気になっていました。

今日はやっとサッチモという名前を知ることができました。


この曲の詩 がものすごくいいんです。

感動してしまいました。


まるで感染してしまったかのように、

「なんて素晴らしいんだろう」という気持ちでいっぱいになりました。


何故この問題だらけの世の中を素晴らしいと言えるのか。

僕にはまだこれを言葉で上手く説明できません。

けれど、世界は素晴らしくなるんです。

自分が人を愛する事さえできれば、


なんて素敵なんでしょう、

バカバカしいほどに素敵です。


けれど、人を愛せるような人間になるのは難しいです。

愛する事自体は簡単なことですが、

問題に囲まれた状態ではそれは難しいのです。

今、世界は問題だらけです。

人を愛している余裕がありません。

生きていれば問題は必ず起こってきます。


何故なんでしょうか、

「問題なんて何もなければこの世は天国になるのに」

子供の僕はそう思ってしまいます。


でも、苦しい事、悲しい事を感じたことのない人が、

心から人を愛することができるでしょうか?

言葉では軽率な表現になってしまいますが、

苦しんだ分だけ人を愛せるようになる気がするのです。


目をふさぎたくなるような惨劇を経験した事のない人が、

人を愛せるようになるとは、僕は思えないのです。


それは計り知れないほどに酷い事ですが、

それと同じ分だけの愛が生まれる事も事実なのです。

江原啓之さんの「人生相談室」とゆう本を読みました。

あまりにも僕が経験してきた気持ちと同じ体験が書かれていたので、

共感し、感動してしまいました。


江原さんというと、世間ではおそらく「霊能者」

というレッテルで見られていると思うのですが、

彼がこの本で言っている事は、まぎれもなくソクラテスと同じ、

「真理の探求」なのです。


だから僕からすればソクラテスと江原さんは同じ類の人であって、

哲学者なのです。


本に書かれていたのですが、

江原さんも、カントという哲学者も、僕も同じ考えを持っているようです。


死後の世界が無いとしたら、人生はあまりにも矛盾だらけでめちゃくちゃなんです。

若くして死ぬ人、苦しみばかりの人生を過ごす人、

死が無であるなら、どんな残酷な事をした人間でも、

自殺してしまえば罰を受けずに楽になれる。


死後の世界がないならば、

つらいと思う人はみな自殺してしまえばいいんです。

楽になれるんですから。

全員死ねばいいんですよ。

つらい人生なんて耐えるだけ無益なんです。


でも・・・


そんなの絶対おかしいと思いませんか?

この世ってそんなに薄っぺらいシステムで出来てるんですか?

ミクロから宇宙へ、空気や電磁波など目に見えないものまで、

自然界はこんなにも複雑で、深く、完璧なシステムで循環しているのに、

その一部である人の人生はそんなに薄っぺらいのか?


僕は納得できなかったのです。

だからソクラテスの思想が僕を説得できたのです。


僕は仮定として、魂の存在を肯定してみました。

すると全てが理に叶っている事にきづいたんです。


僕は生きる道を選びました。


魂の存在を否定するなら、

生きる事は無益だ。


苦しみに耐えるだけの人も、

富と権力をふるって生きる人も、

死ねが全てが無になるのだから。

少しだけれど、人を愛する事ができるようになってきた。

人を愛している自分を肌身で感じてみて気がついた。


自分を愛する事、

「自分を犠牲にして」というのも場合によっては強い愛なんだと思うけれど、

何か目の前に乗り越えなければいけない課題が見えた時に、

自分をその向こう側に導くのは自分で、

疲れた自分に休養を与えてあげるのも自分、

自分の身の回りの世話をしてあげるのも自分。

それが実感できた。


そういう事がわかって、初めての感覚を覚えた。

自分を客観視することだ。

これは自分を一人の人間として見ることで、

自分と他者の間に線を引かない状態で自分を見ることだ。


主観的になると、ついつい無益な自己否定をしがちだ、

でも客観視することで、自分に対して他人行儀になれば、

余計な批判は失礼だと感じるようになる。


自分に対しても、人と同じように、

礼儀とマナーを持って接するという感覚は初めてだった。


家族に対してはすでにこの感覚にきづいて、実行してきた。

うちの家庭にはあまりにもそれが欠けている家族だったので、

家族にも礼儀とマナーが無ければならないのだ。

そんなに肌の合う人間同士ばかりが家族になる訳じゃない。


だから僕は、家族の前ではくつろがない。

すぐ喧嘩になるから余計に口を開かない。

なれなれしくても問題が起こらない家庭ならいいのだが、

ウチはそうじゃないので、僕は家族に対して敬語でしゃべっている。

(そこまで堅苦しくもない程度にです。)


自分に対しても、家族に対しても、

当たり前のように土足でズケズケと上がり込むのは失礼です。

節度を持って尊重するのがいいと思います。

暖かくなって、たくさんの虫が活動を始めたようだ。

昨日は部屋にたくさんの虫が飛んでいた。

とってもイヤな気分だった。

子供の頃とは違って、虫が嫌いになってしまったのは残念だ。


今日はあの G を部屋で目撃してしまった・・・(鬱)


僕の家では G を発見し次第ただちに薬殺するのが主流なんですが、

家にある殺虫剤は何故か古いもので、

そのせいなのか即効性がありません。


薬をかけられた彼は机の裏に入りました。

姿は見えない、何処にいるかはわからないのに、

ガリガリっという音が聞こえてきます。

まるで人間が木の柱を引っ掻くような音で、

それはそれは気味の悪いものです。


ホラー映画のシーンがそのまま現実で起こっているんですから。


しばらくすると彼は机の上方から現れ、

机の上に落下しました、

まるで惨劇を見ているような気分です・・・(重鬱)


そして死を目前にしてなお苦しみ続ける彼は、

続けて机の下に落下しました。


早くこの惨劇を終わらせたい僕は、

さらに薬剤を散布するために、

彼に近づきます。

すると、まるで僕がこれから何をしようとしているのかを、

明らかに理解しているかのように、

彼は地を這うようにして、僕から逃げようとするのです。


「その姿は人間そのもの」


僕はそんな彼をただの虫だとは思えませんでした。

アレは絶対に人間に近い何かなのです。


ここまで読んでしまって気分を害してしまった方がいたらすみません。

僕がここで語りたかったのは、Gの恐ろしさではなく、


「何故ゴキブリという虫がこれほどまでに、

人間達の間で気味の悪いものとして認識されているのか」

という人類の永遠のテーマについてなのです。


その理由は様々あげられると思いますが、

今日はその中の一つ、


「彼等は人間に似ているから」


という事を強く実感しました。




僕は人の目を気にしてしまう人間だ。


今日は人の目を気にすることがくだらない理由を一つ見つけた。


人にはそれぞれ好みという物がある。

それは「価値観」かもしれない、

その時の気分で変わるものかもしれない。


このブログを見て、誰かは不快に思うだろうし、

また、誰かは好感を持つかもしれない。

それは僕には予想できないことだと思う。

だって人それぞれの判断は違うものだから。

事前に計り知る事はできないものだ。


そう考えれば、人の目を気にしたり、

変に気を使いすぎるのはくだらない事だ。