うん、天狗になるってゆうのもいいかも知れないね。

天狗になっているおっさんとか、あんまり良いイメージがしないから、

自分はそんな風にはなりたくないな、って思ってた。


けど、胸を張ってどうどうとするのは良い事だね。

自分が未熟者だと知っていても、


まぁ、なかなかそれが難しかったりするのだけれどね。

やっぱりこれは親の影響なのかな、

まぁなんでも親のせいにしててもしょうがないんだけど、

やっぱり僕は分析型の人間なので、

あらゆる物事すべての理由が知りたくなるのです。


胸をはってどうどうとやる。

周りのみんなが自分をおだててくれたりしてる時はけっこう簡単。


でも世間様はそんな自分にとって都合の良い物ではない、

互いに邪魔しあう事もしばしば、

そんな中でも胸を張らなきゃねぇ。


でもねぇ、ここで難しいのは失敗しちゃった時の痛さだよね。

あれは痛いんだよね~、

胸をはってどうどうとやってる分、勢いもついちゃってるから、

転んだ時の衝撃といったらもうww


生きるって事が最近、また少しわかってきた。

駅前でギター持って歌ってる人がいたんです。

言葉にはならないのがもどかしいんだけど、

それを見ていて、この人は歌う事で生きているんだな、

って感じたんです。


だから、全速力で走って、・・・コケルっ!

ってのも、悪くないよね。

だって、失敗を恐れていたら、生きられないから、

それが人の宿命かも知れないね。


傷つくのはイヤ、痛いから。

それはとっても自然なこと、生理的な事だから。

傷ついたら休んでもいいんじゃない?・・・イタイし。


でもずっと休んでる訳にもいかないよね。

いつかは死ぬ、生きてる間に生きなきゃ、

僕には何ができるだろう・・・。





ブログは理想で言えば、ほぼ毎日ペースで更新したらいいな。

とは思っているんですが、もう20日間も更新してませんでした。


僕は学生ですが、この時期はテストやら単位やらでまぁ・・・

悲惨なもんですよ。


そんな言い訳もありますが、

なかなか「物が書けない時期」というのはあるもので、

駄文すらどうにも書けなくなります。


書こうとして筆は握るんですが、

すぐに気に入らなくなって、紙をクシャクシャって丸めちゃって、

それが部屋中に散乱してるってゆうアレです。

スランプの物書きさんとか、初めてラブレターを書こうをしている

淡い青春の1ページなどによく現れるシーンです。


でもなんか、とにかく更新しときたい気分だったので、

見に来てくれた人、アライブ更新でスマソ。

まず辞書を参考する。


水や石ころには命はないのだそうだ。


まぁ、それはそうですね。


でも植物は生き物なんですよね、

枯れるからでしょうか。


生き物=いつか死ぬ物

・・・みたいですね。


死なない物を生き物と呼ぶのは、やっぱり変ですよね。


死ぬのは恐いことですか?悲しい事ですか?

じゃあ永遠に生きたいんですか?

死ぬ日を自分で決めたいんですか?


医学の発達は逆に恐い、

死ぬことよりも、永遠に死ねなくなる事の方が恐い。


一体いつまで植物状態でいればいいんだろう。


不老不死とはいかなくても、

医学の発達は人間の寿命を延ばしそうですね、

人口は爆発しないでしょうか。


あぁ、そっか・・・、

永遠に生きたいと思う人もいるんでしょうね、

その選択も悪くないかもしれませんね。



話がそれました・・・。


「いのち」についてです。


僕はそれがよくわからなかったのです。


水や石は生き物でない。

でも海や大地は生きているじゃないか、と。


星は生きてますよね。

太陽も、宇宙も、


原子自体には命や宿っていないけれど・・・

あれ?

じゃあいのちって何処にあるんだろう・・・。


原子が集合すると「いのち」になるの?

いや違う、原子を集めて動かすそのエネルギーこそが「いのち」なのだ。

生きるという事は「現象」ということになる。


僕達は原子の塊ではないんだ。

連続するエネルギーの塊なんだ。


だからきっと精神もエネルギーのことなんだ。

原子、素粒子の事じゃない、

それを動かしているのが精神なんだ。



僕はこの星も、太陽も生きていると思う。

という事は、この星達もいつかは死ぬんだね。


この宇宙も、生きているんだとしたら、

いつかは死ぬって事になる。


でも、「宇宙=空間」

とするのなら、それは生きていないんじゃないかな、


空間を空間としている力があるなら、

そっちを「いのち」と呼ぶべきだ。

要するに何かの物理法則みたいなもの。


あれ、それじゃあ物理法則こそが命って事になってしまうのか・・・

なんかちょっと違う気がする。


物理法則を生み出しているものこそが命だ。

うちの庭で猫が丸くなっているのをよく見かける。

あのミケネコは完全にうちの庭をなわばりにしている。

もう僕も彼とは顔見知りだ。


ねこは好きだ、あの丸さには愛嬌がある。

でも困ったことがある。


ネコのうんこ問題は深刻だ。

家の前にうんこされても嬉しくない (´・ω・`)


ネコに会う度に「家の前にうんこするのはやめれ。」と注意している。


でも言葉は通じていないようだ、

きっと通じていないだろう。


彼はこちらを向いて舌をペロペロして見せた。

しかし僕は彼が何を言いたかったのかはわからなかった。


ネコもきっと夢を見ているのだろう、

ネコってどんな夢を見るんだろう。

ネコはしゃべれないから、教えてもらえない。

なんにもわからない、不思議な世界だ。

今日の学校の帰り道、

僕の白いシャツには白いハネのムシが貼りついていた、

振り払おうといても頑なにしがみ付いて離さない。

・・・・何を考えているのだろう。


とにかく白い物が好きらしい。

結局、家の前までずっと僕の腕を離さなかった。

ふれ合う生き物たちの気持ちは全然わからない、

不思議な世界だ。


そして、それは人間同士も同じなのかも知れない。

話し言葉は書物などのそれとは違って適当なものだし。

本当の気持ちまでは理解しあえてはいないような場面は数多くある。

人はたびたびすれ違う。


もちろん適当な言葉でも、気持ちまでわかち合う事ができる場合もあるが、

心を論理的に表現しようとしても、それは失敗する事が多い気がする。

だから言葉を過信・期待しない方がいい、

それがトラブルになるから。


互いの心を理解し合いたい場合、言葉をあくまでも間接的な通信手段だ。

実際通信しているのは心と心なのだから。


でもそれ以外の事なら、言葉は正確に使うほどに便利な通信手段になる。

実務的な事に関しては、言葉の論理を極める事はかなり有益だ。

実務的なすれ違いを減らす事が、

余計な心のすれ違いを減らすことにもなるだろう。


僕みたいな理屈屋以外の人間なら、

あまり言葉の論理性なんかを気にして生活していないだらうけれど、

数字ばかりを過信しているこの社会では、

もう少し言葉の論理が必要だと思う。


言葉を論理的にするのが苦手だから、

数字ばっかりに基準が偏ってしまう。これはよくない、

数字にだって限界があるのはみんなだって知ってるはずなのに、

それでも数字にしか社会的な説得力を与えないのはバランスが悪い。


お互いの気持ちが分かり合えないからこそ、

社会では、感情を抜きにした論理的な議論が大切になってくる。

でも結局そんな理想はなかなか実現できないから、

数字で結論を出して終わりになってしまう。

久石譲のCDを買ってきました。

ありがたや~、ありがたや~


久石さんの曲はみんな良いですが、

「アシタカとサン」っていう曲が好きです。

やっぱり僕はピアノですわ、FFの曲でもピアノが好きなので。


というか「もののけ姫」が異常に好きです。

うちにビデオがあるので、また久しぶりに見ました。


やっぱりクオリティ高いね、宮崎氏は、

エボシのキャラ設定とか、

神に対しては悪で、人に対しては善なギャップね、

キャラクターのこれまでの人生を感じる。

あれはできそうで、なかなかできないと思う。

色んな見解があるそうですが、

僕はあの作品は時代を描いたんだと思います。


屋久島でもなんでも、

何処か自然の多い所に行ってみたいです。

いつも笑顔で人と接しなさい。


でもそれってどうやってやるの?


なぜなのか、最近はすごく実感できる。

ファストフードの店員さん、

笑顔のない人、笑顔のある人、

そんなに笑顔はないけど、なんか穏やかな雰囲気がある人。

元気な感じとか、不安な感じ・・・。


色んな店員さんの接客を見てて勉強になったりする。

だから僕も上手くできるようになりたい。

だけど、それってどうやってやるのか分からない。


笑顔、笑い、僕はあんまりそれが好きじゃないのかもしれない。

中学の頃、そこには酷い人間がいっぱいいた。

あれは本当に酷い、酷い人達だった。

彼等は人をバカにして笑っていたから、

彼等との出会いは新鮮な驚きだった、

こんなに酷い人達がいるのだと・・・

軽率な笑い声、楽しいのかな・・・。


僕は馴れ合いが苦手だ、これはもう本当にだ。

本当に人と仲良くなろうとする時、

それは表面的な馴れ合いじゃないから。


だから僕は、それが価値のない事にみえて仕方がない。

よく、無愛想だと言われる、でも僕はそんなつもりはない。

ただ、事務的なだけだ。

事務的にでも良い関係は十分つくれるはずだ。

だから良い接客ができる人になりたい。


きっと僕がいけないんだろう。

けれど、僕にはみんなが軽率にみえて仕方がない。

なんだかあまりにも違いすぎるんだ。

僕と世間の世界や意識が。


にぎやかな所は苦手だ、

人ごみに自分を見失ってしまうから。



わたしは必要のない人間、僕には存在価値がない。


僕がいなくなっても誰も困らない、
僕が死んでも太陽は平然とのぼり、
この世界は変わりなく回る。


そう言う人にはこう答えが返る。

「この世に必要のない物なんて一つもない。」

本当に意味もなく存在するものなんてあるだろうか、
どんなものにせよ、なんらかの意味を持ち、なんらかの役割を担う。


「時間が解決してくれるよ。」
なんて軽率な台詞だ、そんな正論は弱った心の慰めにはならない。
でも僕達は只々夜明けを待って耐えることしかできない。
虹が見たいなら雨が止むのを待つしかない。

地獄での時の流れは遅いものだが、永遠なんて無い。


必要のない人間、
誰かに必要とされたいという依存心、
心に穴が開いているんだろうか。


僕は探している。
この世の全ての存在意義を、
宇宙の存在意義を、
まさしくそれこそ哲学である。


もしあなたに存在意義がないのなら、
この地球だってなんの存在意義も持たないはずだ。
この星がくだけても、宇宙は困らないんだから。


あなたが必要のない存在ならば、
この宇宙だって必要ない。

宇宙の果ては未知だ。

科学者の間では様々な説があるようだが、

どれも僕の知りたい物ではない。


僕が知りたいのは「この世の終わり」だ。

永遠に、無限に広がる宇宙なんてあるわけがない。

物事には必ず終わりがある筈なんだ、

それが「有る」かぎり。


いつかは「無」になる。

一粒の原子の存在も許さない空間があるはずだ。


永遠に続くトンネルは、ただループしているだけで、

無限に続いているわけではない。

その外側が知りたいのだ。


「無限に有るもの」なんて在るんでしょうか。

無限に広がる事ができるのは「無」だけだと思うのです。



申し訳ありませんが、最近いろいろ勉強しているので、

ちょっとマニアックな話になります。



僕は現代の哲学史解釈はあまり良くないと思うのです。

なぜなら、純粋な探求をしてきた哲学者達の思想は、

時代の力で捻じ曲げられてきたように思うからです。


時代は無神論者を生んだ。

それは権力への反発心と、新しい時代への変革だった。

戦争を望む政治家達は科学技術の発展を奨励し、

時代は信仰の対象を宗教から科学へ移した。


長い間、宗教は権力者達が市民からの崇拝を得るために利用してきた。

教祖の教えなどは隅においやって。


宗教の歴史を研究していたヒュームはそれを知っていた、

だから彼はそれを説いたのだ。


しかし純粋に理性的なのは哲学者だけだった。

中には今だに、無神論者を名のる哲学研究者が嬉しそうに、

「ヒュームは神はいないと言った」とか言っているが、

彼は宗教は人間の作った文化であると言っただけで、

彼もソクラテスと同じで、見えざる物への無知を知っていた。


逆に言えば、純粋な信仰者であったソクラテスとプラトンも、

カントと同じで、すでに理性の限界を知っていた。

それが無知の知であり、イデア論なのだから。

哲学者はみな不可知論者だ。


だから現代の哲学史解釈はどこか疑問を覚える。


不可知という言葉は神の存在に限って使われる物ではなく、

「知る事のできないもの」という直訳で使われるべきだ。

もう時代は変わったのだから。

僕は問題解決主義の思考回路を持つ人間だ。

こういう性格の人間はついつい嫌いな物について深く意識してしまう。

何故なら、それを解決したがるからだ。


自分の好きなものや、快いもの、心地良いものについては、

人はあまり考察をしない、何も考察する必要がないからだ。

だからほおっておいてしまう。

でもこれはもったいない。


せっかくすぐそこに幸福があるのに、

問題にばかり心を注いでいるなんて。


僕は不快感が捨てられない。

エンジン音、テレビの攻撃的な報道、

他人に対する表面的な人嫌い。


だからとりあえず、もっともっと、

好きなものに対して、「自分はそれが好きなんだ」と、

強く意識していきたいと思う。


好きという感情って本当に大事だと思う。

人生において何も好きな物がなかったら大変だ。

好きな物が多い人はさぞ幸せな事だろうと思う。